10.均衡が崩れる音 03


「ああ、メイサ様!」
 呆然とするメイサはその声で我に返った。後ろを振り向くと、見知った懐かしい顔が目に入る。
「ルイザ……」
「お久しぶりでございます!」
「あなたなんでこんなところに」
「殿下からお役目を頂いて、ジョイアに潜入していたのです。色々ありまして、こちらを経由させていただきました」
「ジョイア?」
 それは不吉な言葉だった。メイサは背中が冷えて強ばるのを感じる。
「ええ」
 詳しくは──とルイザは人目を気にするようにした。メイサはルティのことが気になったけれど、扉は兵が出て行くときに堅く閉ざされてしまっている。
『まずはルイザに話を聞いて』という、王妃の言葉を思い出し、仕方なく自分の部屋へと誘う。
 そうして、自室まで歩く間に、メイサは話を聞くために静かに心を整理し始めた。
『俺は諦めない』
 その言葉が繰り返し耳の中で鳴り響いていた。それは止むこと無く繰り返されて、部屋に着く頃、ルイザの口から何が話されるのか、メイサには大体の見当がついていた。ジョイア──ルティがかの国に執着があるとすれば、それは〈彼女〉のことにしか思えなかった。

 自室に辿り着くと、メイサは自分は寝台へと腰掛け、彼女に椅子を勧めた。ルイザは断り、荷物だけを床に置く。
「大変、だったみたいね」
「ええ……追々お話ししますが、まさかあんなことになるとは……計画が失敗したので、どさくさに紛れてジョイア宮を抜け出して来たのです。もしあのまま宮にいれば捕縛は免れなかったでしょう」
「生きて戻れて何よりだったわ」
 詳細を聞きたいような聞きたくないような複雑な気分のまま、メイサはとりあえずねぎらいの言葉をかけた。
 捕縛、その言葉の意味はメイサでもよく分かる。捕縛されるようなことになれば、身に付けた毒で命を絶つ。シトゥラではそう言い聞かされていた。任務の性質上、絶対にシトゥラとの繋がりを見つけられるわけにはいかないのだ。
「長旅だったのでしょう、疲れてない?」
「少しだけ」
 もう一度椅子を勧めると、ルイザは少し遠慮しつつも浅く腰掛けた。
 続けて慰労の意味も込めて彼女に茶を渡した。粗末な出がらしの茶なのに、そしてもうルイザはメイサの従者ではないのに、彼女は恐縮し続けていた。
 メイサは大きく息を吸う。そして吐くと話を切り出した。
「聞いてもいい? 何があったか」
 メイサの問いに、ルイザは茶碗を持ったまま、ぽつりぽつりと話し始める。
 ルイザは、ミュラのこと、それからミネラウバのこと、ルティの為に働いた女たちの話から始めた。
 聞きながら、メイサは、ミュラに与えられた任務である皇子の誘惑──それがどれほど大変か思い出して、亡くなったミュラを気の毒に思った。しかもスピカを思い出した後の皇子なのだ。メイサの時よりも難題だったはず。
「で、あの皇子様は落ちなかったワケね」
 ルイザは頷く。
 メイサにはなぜあの女官がその役目に就いたのかよく分からなかった。あの少年はスピカ以外を心の内に入れたりしない。どんな女を宛てがっても、揺れはしても落ちるとは思えない。難攻不落と聞く、堅固なジョイア宮のように。
 話が脇道に逸れるのを感じながらも、そう考えているとと、ルイザも同様のことを考えていたらしい。少し呆れ気味に「スピカの方が気にしていたようです。あの体を。殿下はスピカの性格をよく分かっていらっしゃる様で『スピカは、口では殊勝な事言ってても、浮気は絶対許さない。確実に根に持つ』と言われておりました」と言う。
(へえ、なるほどね)
 スピカの普通の少女のような一面を意外に思いながらも、メイサは皇子が自分の前で挙動不審になった様子を思い浮かべて、腑に落ちた。確かにあれを傍で見れば、いくら自分が愛されていると知っていてもいい気はしないだろう。少なくともメイサは、〈自分が持っていないもの〉への羨望には理解がある。どんな人間にも多かれ少なかれそれはあるのだろう。ルティは、そこを上手く突いたようだった。
 想像しながら、ルイザを見ると彼女も何かを思い出したのか僅かに苦笑いをしている。
 そして、重苦しい空気が僅かに和んだところで話は核心に入った。ルイザは茶をすすると、声の調子を僅かに落とす。
「……そして、ミュラ様の失敗をお知りになったミネラウバ様は、彼女を殺害して、スピカをその犯人に仕立て上げられて宮から追い出すという計画を実行されたのです。要はジョイア宮から連れ出せればいい話だったのですから、目論みは間違っていませんでした。──牢に入れた後は、グラフィアスという近衛兵がスピカを連れ出す予定でしたし、実際そこまではうまく行ったのですが……あの皇子はそこまでぬけている訳ではないようで。自ら事件の真相を突き止められて……グラフィアスを追いかけて来られたのです」
 凄惨な事件をも淡々と語るルイザに、メイサはシトゥラの闇を見る。メイサが聞くことがないだけで、シトゥラではこのくらいのことは当たり前になされているのだろう。カーラなら顔色を変えずに指示をしていそうだった。
「あの皇子にはまたもや邪魔をされましたね。強運をお持ちのようです」
 ルイザは呟き、メイサは頷いた。
(へなちょこにしては、やるじゃない)
 メイサは思わず感心しそうになって、しかしルイザの悔しそうな顔を見て自重した。余計なことは言わないに超したことは無い。
「また、皇子だけでなく、〈レグルス〉が余計なことを……!」
 ルイザは、今度は心底悔しそうに歯噛みした。しっかりとレグルスへの悪意を擦り込まれている様子を少々呆れつつメイサは話を終わらせる。
「そう、よく分かったわ」
 レグルスが今度は何をやったのか興味もあったけれど、それはまた別の機会に聞くことがあるだろう。
 ──ルティがスピカの誘拐に失敗した。メイサにはそれだけの情報で十分だった。
(本当に諦めていなかったんだ……)
 失敗したとはいえ、危惧していたことが現実に現れて、憂鬱になるのを止められなかった。やはり彼は、それほどに欲しがっている。一度で駄目ならば二度目。二度目で駄目ならば、きっと──三度目がある。それは彼女を手に入れるまで続くのだ。
 メイサは目を瞑り胸の痛みを感じながら、一つ大きな覚悟をする。
 それならば。彼がそれほどまでに欲しいのならば、メイサはそれもいいのではないかと思ったのだ。
 あまりの可能性の低さに考えることを放棄していたけれど……どうせ血の濃いメイサは従弟である彼の妃にだけはなれない。いくら彼女が切望しようとも、これ以上の近親婚が無理なのは、カーラに言われなくとも……よく分かっていた。そして王太子である彼はいつか必ず正式に妃を娶らなければならない。
 いつか恋の終わりを告げる女が来るとメイサは覚悟していた。──それが巡り巡って結局はスピカであるだけの話だ。
 皇子の気持ちや、スピカの気持ちや、メイサ自身の気持ち、諸々を考えなければ、彼が愛を知ること自体は好ましいことだと思う。そうして彼が人間らしい暖かな感情を取り戻して、昔のような彼に戻ってくれるのならば。それはメイサの望みに限りなく近いはず。そうしてそんな彼が心を込めて接すれば、もしかしたらスピカも皇子を忘れて好きになってくれるかもしれない。……どうしてもどこかに無理を感じてしまうけれど。
(とにかく)
 メイサは小さくため息をつく。
 ひとまずそのことは置いておいても、今回のような痛ましいことを繰り返さない為には、彼が一人の娘を愛して大切にすることは必要なことだとメイサは思った。
 もちろん彼に惑わされている娘たちの為でもあるけれど、それよりも、先ほどの血の色がメイサの胸に迫っていた。──こんなことを繰り返していれば、いつか彼は身を滅ぼしてしまうに決まっていた。メイサは何よりそれが怖かった。
「その女官は……気の毒だったわね」
 せめて花くらいは手向けようとメイサは思う。しかし手向けるにも骨はジョイアにあるのだ。両親も悔やまれてしょうがないだろう。妃にするつもりで傍に置いていたというのに──多少の利得もあるだろうが、それもきっと娘に不自由をさせないため。娘の幸せを思ってのことだろうに。──その娘は異国の地で名も無いままに葬られる。逆上しても仕方が無いと思った。
 しかし、「自業自得です」ルイザは鼻息も荒くそう言う。「ルティリクス殿下の任務をないがしろにして、ジョイアの皇子を選んだのですから!」
「……ふうん」
 それはまた、物好きもいるものだわとメイサは憂愁の中にもぼんやりそう思う。しかし、女を利用して別の女スピカを手に入れようとしたという、ルティの仕打ちを考えると、その反応の方が随分健全だと思った。現に、メイサはあの皇子の魅力を何となく理解していた。ぱっと見るだけでは美しさに誤摩化されて分からないけれど、よく見れば気が付くのだ。あの皇子の純粋さ、一途さ、そういうキラキラした眩しいものに。その女官も、それに気が付いたということは、ルティが思うほど、馬鹿ではなかったということだ。
 そうして近くにいながら気が付かなかった哀れで愚かな娘に想いを馳せる。
「その……ミネラウバという娘はどうなったの」
「彼女は罪を暴かれて、刑に処されることになりました」
 やはりルイザは何の心痛もみせずに、当たり前のように答えた。
 今度はその顔から嘲弄は消えていた。そしてその代わりに少々の賛嘆が加わる。
「彼女は立派です。ミュラ様とは比べ物にならないくらいに。もともと前回の功績を評価して、シトゥラで引き取ることになっていたのです。殿下が脱出の手はずを整えられていらしたのですが──そのことをお伝えしましたら、固辞されました。犯人が逃げれば殿下に累が及ぶからと。決してお名前は出しませんからと。今はシトゥラの娘でもあそこまでの覚悟を持つ娘は少ないというのに──」
 ルイザは感心したように息をつくと、メイサに手紙らしきものを渡す。開いてみるけれど、それは計画の詳細が書かれた書簡だった。
「『証拠品ですから、確実に処分して下さい』と渡されたのです」
 ふいにその意図に気が付いた。──『見ろ』ということなのだろうか。ルイザは未だにメイサが力を失ったことを知らないから。
 久々で不安もあったけれど、僅かな力を振り絞る。するとメイサには見たことも無い女の強い眼差しが見えた気がした。こんな目を最近見た、そう思って記憶を探ると、王宮を去っていくリダの顔が見えた。──ルティに心を奪われ、駒と知っていても彼の為に働いた娘の顔が。
 ミネラウバの漂わせる悲壮感はそれよりさらに激しい。でも、傷つき倒れそうになりながらも、力を振り絞って立っている。悲しげではあるけれど、凛とした青い瞳に確かな覚悟を見て、息が詰まる。
 ──私は、殿下を信じているのです。
 そんな声さえ聞こえそうだった。
「この、ルティのこと、守ったんだ」
 騙されたと知っていたのであれば、それは、本物だったのかもしれない。少なくともこの表情に浮かぶ覚悟は本物に見えた。
「ええ。実は、グラフィアスという男は、益が無いと思ったのでしょうね、捕縛後あっさりと口を割ったようなのです」ルイザは、顔をしかめると付け加える。男は損得だけで動くので使えませんね、と。
「そんな訳で……彼女一人が口をつぐんでも仕方が無いのですが……しかし、私でもそうすると思います」
 そう言ったルイザは力強く、メイサは初めて彼女が人間らしく輝いて見えて驚いた。
 彼女の力強さの原因は、この書簡に映る娘と同じものなのだろう。そのことに気が付くと、やはり胸が痛くて、メイサは辛うじて微かに微笑むと同意する。
「そうね、私でもそうするわ」
 ルイザが眉を上げるのを見て、メイサは彼女から目を逸らす。思わず同調してしまったけれど、従姉としては不自然な感情だったかもしれないと発言を後悔する。追求を誤摩化すように茶器を持ち上げ、茶のおかわりを注いだ。
 茶椀に張った薄い茶に映る自分の顔を見つめる。彼女たちとは違って振り出しにさえ並べていない女の顔を。自信のなさそうな表情に、細い溜息が出る。
 今のメイサは彼女たちのように役目を貰うことは無いだろう。けれど、これから先、もし万が一彼から何かを頼まれたら、それか、役目を勝ち取ることができたならば。その時は、全力で応えたいと思うだろうし、万が一失敗したとしても、それは自分の力不足のせいだと思うだろう。そして、彼には迷惑をかけたくないと願うに決まっていた。
 ミネラウバとルイザ、メイサの想いの形はよく似ていた。そのことがひどく辛い。誰も報われることが無いことが分かっているから。

 ルティは愛を知らないくせに、愛で女たちを縛っている。そうして世界を操っている。──じゃあ、もし彼が愛を知ったならば?
 均衡が崩れる音がどこからか響く。メイサは世界が回るような、ひどい目眩を感じた。

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2010.09.15