第四章
11.訪れた転機 01


 恋の終わり──それは若い娘にとっては、死に値するくらいの重さを持つことがある。特にその恋だけを支えに生きて来たメイサにとっては。

 いつか恋敵が国にやって来る。そうすればメイサの恋は終わる。そうしてメイサの生きる意味は全て彼女に奪われて、そこで潰えてしまうのかもしれない。
 それは一体いつになるのだろう────

 下働きなどを必死でやっている昼間はいいのだけれど、夜一人部屋で考え事などを始めると──なんだか、人生の終わりが近づいているような気さえしていた。
 一度どんなことがあってもルティを支えていくと覚悟をしたものの、その機会はなかなか与えられることは無かった。
 玉砕を待ち、鬱々と過ごす日々が何日も過ぎる。恋を失う恐怖に負けるものかと逆らう日々は彼女の精神を蝕みかけた。

 そうしてメイサが自分を奮い立たせることに疲れたころ。
 転機はようやくやって来た。──それは、例の事件から一週間後の夜だった。


 あまりに辞令が下りないのでメイサは〈そのこと〉を忘れかけていた。突然の王妃の指示で、メイサは心の準備をする間もなく彼の部屋に派遣された。
 入れと許可を得て入室したメイサを見て、ルティはまず目を見開き、そして直後怒りを滲ませた声を出した。
「なんでお前がここに来るんだ」
 彼はすでに就寝の準備に入っていて、寝台の上でうつ伏せて寛いだ恰好をしていた。部屋にあるもの──特に布類は茶に限りなく近い落ち着いた赤で統一されている。寝台の上のシーツも同様で、ゆとりをもったたっぷりの布が均整のとれた体に纏わりついている。滑らかな襞が彼の動きに合わせてゆらゆらと波打つと、その体のラインが露になりメイサの心臓はどくどくと音を早めた。それどころか、布の間からは日に焼けた素肌が覗く。筋肉の絶妙な付き方に思わず見とれかけて慌てて目を逸らしたものの、布の下の彼の体が頭の中でどんどん形を作っていく。メイサは払っても払っても沸き上がるその像に顔を赤らめるのを抑えられない。必死で首を振って妄想を追いやると色々なものを堪えてルティに向き直った。
 彼が待っていたもののことはメイサもよく知っていた。部屋全体が夜伽の〈女〉を待っているのが分かった。
 メイサだけが異質だった。漂う場違いな雰囲気に酔いそうになる。しかし、
(だって、命令なんだもの)
 メイサは気まずい思いをしながらも部屋の入り口付近に立ったまま「──王妃様に頼まれて」と口を開いた。寝台の上の獣は牙をむいてメイサを威嚇している。まるで縄張りを荒らされた牡のヒョウのようだ。とても傍に寄れる雰囲気ではなかった。
「ここにいても仕事は何も無い。帰れ」
 メイサは首を横に振る。
「女が減ったから、相手をしなさいって……新しい人、探していたんでしょう?」
 もちろんメイサとルティは従姉弟だから、相手をするといっても、王妃もそういう意味で言ったのではないと思う。彼女が頼まれた仕事は別のことだ。なぜ夜に、しかも就寝前に派遣されたのかは謎だったけれど。
「──馬鹿か、あのくそババア。よりによって一番使えないヤツを」
 彼が王妃をそんな風に罵るのをその時初めて聞いて、メイサは目を丸くする。これは遅く来た反抗期だろうか。
(ああ、でも)
 使えない──相変わらずの評価だった。それでも、メイサは王妃の言葉を思い出して食い下がる。

『あの子、見た目より参ってると思うの。なんとしても傍にいて、様子を知らせて頂戴』

 彼を遠巻きに見る限りは、女にはとことん優しく、男には傲慢で不遜。その態度はいつも通りで、メイサには彼が参っているようには感じなかった。だけど実の母親がそういうのであれば、きっと何か感じるものがあったのだと思う。なにより、メイサは彼と話すことも出来ないし、近づくことさえできないのだから、それも当然だった。
あんなこと・・・・・があったから……今は信用できる人が傍にいる方がいいって、王妃様が心配されているの。私でも……話し相手くらいにはなれると思うんだけど」
 胸を痛めつつも、メイサは努めて明るく言った。言葉に含まれたものを感じ取ったのか、それとも本音で話せる相手だと思い出したのか──ルティは起き上がって、渋々のように口を開く。

「──今回は失敗だった」
 急に疲れた表情を浮かべるルティは、乱れた髪をかきあげながらため息をついた。上半身にはまだ半分シーツが纏わりついている。メイサの視線を気にしたのかどうかは知らないが、一応露出は彼女が我慢できるくらいのものに抑えられていた。そんな中、露になっている左腕の傷に巻かれた白い包帯がまだ痛々しいが、本人はそれについては全く気にしていない様子。痛みは他のところにあるように見えた。
「ひとまず座れば。そこで話されると落ち着かない。外に聞こえる」
 彼は左手で寝台から少し離れた場所の肘掛け椅子を指差す。メイサはそろそろと扉を離れると椅子に腰掛けた。そして話を続ける。
「──今回は、って?」
「死人を出すつもりは無かったんだ」
「……」
 その言葉に驚いていると、ルティは物わかりの悪い子供に言い聞かせるようにあきれ顔で言った。
「当然だろ。俺だって出来ることなら部下は減らしたくない。男を使えばすぐ死人が出るから、出来るだけ使わないつもりで──女ばかりに任せてたんだが」
「待って。なんでそんな心境になったの」
 確か以前は人を傷つけることを憂いては居なかった。王子である上に、シトゥラの人間から出る言葉とは思えない。シトゥラは──手段を選ばない。カーラのやり方と大きく異なる方法にメイサは戸惑っていた。
「スピカが言ったんだ。『俺自身の力を使えば、なんでも出来る』ってな」
「それで、女を誑かしてた訳?」
 いつ言ったのだろう、その言葉は。もしそれが彼が派手に女遊びをし出した原因ならば──そう考えて、メイサはスピカを恨みそうになる。
「まあ、そういうこと。俺は男だから。男を女のように使うわけにはいかない。この間のグラフィアスがいい失敗例だろ。結局男は力を求める。それが手に入らないとなると、案外簡単に寝返る。シトゥラには金も力も無い。シトゥラの力も継げない俺にあるのはこの体一つだ。──実際うまくいってた。今回は失敗したけど」
 そこで言葉を切ると、ルティは面倒くさそうにため息をつく。
「やっぱり処女は駄目だ。すぐ入れあげて面倒くさい。仕事だと割り切らないから使えない」
 直後、手が痺れた。
 自分のことを言われたのかと思った。気が付いたらメイサは彼の頬を打っていた。
「女を──そんな風に駒にするから、痛い目を見るのよ」声が震えるのが分かったけれど、止められなかった。「自分がどれだけ最低なことしてるか、分かってるの?」
「……最低、ね。俺はそれでも構わないけど」
 低く静かな声。怒りも悲しみも感じられない。ルティはメイサの目も見ない。言葉は届かない。赤い髪の下で口元が笑っているのが見えてメイサは悲しくなる。
 なんでなんだろうと思う。この男は、どうしていつもメイサの前でだけ、こんな最低なことを言うんだろうと思う。沸き上がってくる熱く鋭い痛みを無理矢理押さえつける。涙を飲み込むと、後ろを向いた。
「なんで分からないの。彼女たちの気持ちが。あなたの心が欲しくてたまらないのに」
 まるで告白みたいだとメイサは思う。耳まで熱くなる。彼女たちに名前を借りて、必死で伝えようとする。しかし、彼の答えはあっさりとしたものだった。

「俺が欲しいのは──スピカだけだ」

 それはメイサがこのところずっと恐れていたことだった。いつかこんなことが訪れるとは思っていたけれど、こんなに早くとは思わなかったし、まさか彼の口から直接聞くとも思わなかった。
 一瞬の間。その間にメイサの心は凍り付いた。必死で暖めようとするけれど、直前まで心に灯っていた暖かいものは今の彼の言葉に冷やされて、小さくなっていく。
(お願い。まだ消えないで、わたしにはもうそれしか残っていないのに)
 メイサは泣きそうになる。
(覚悟、したはずなのに。彼女を手に入れるのに協力しようって決めたはずなのに)
 実際聞いてしまえば、そんな覚悟など全然出来ていなかったことに気が付いて愕然とする。
 メイサはみっともないと思いながらも言葉を止められない。聞かずにいられなかった。
「どうして、スピカなの。あの子はあの皇子が好きなんでしょう。私、知ってる。彼女がどれだけあの皇子のこと好きなのか」
「そうだったな……お前は、アイツを知ってるんだった」
 〈アイツ〉という声にムッとした響きがあった。
「そういえば、逃がしたのは……そうやって絆されたからだったか。じゃあ、お前にも分からないか。アイツにはあの女は勿体ないことが。あの頼りない子供には、スピカは幸せに出来ない。絶対に。シトゥラの初代の当主を知っているだろう? 力を増やすために、何十人も子を産まされた。死ぬまで、まるで動物のように。そんな風に──ジョイアにいれば、ぼろぼろになるのが目に見えているのに、放っておけるはず無い。俺はスピカを守ってやりたい」
 その言葉に含まれる熱には嘘は無いようだった。ルティはメイサの前ではいつも本音だった。そんな嘘を言うはずも無い。言う必要がないのだから。
(守ってやりたい、か)
 それが恋なのかはメイサには分からない。しかし、そのルティが語る想いはメイサが抱いているものとよく似ていた。メイサはルティを守ってあげたい。ルティはスピカを守ってあげたい。少なくともメイサはルティに恋をしているという自覚はあった。そして、ルティの持つ熱は恋の熱にとても良く似ているような気がした。
 とにかく、彼の口からここまでしっかり聞いたからにはメイサは観念せざるを得ないと思った。この間の言葉をもう一度しっかりと胸に刻む。──相手が私でなくても、構わない。
「本気なの」
「ああ」
「どうしても、手に入れるの」
「ああ」
「分かった……じゃあ、協力してあげる。〈従姉〉として」
 顔を上げる。後戻りしないために言った言葉は胸を刺した。メイサは精一杯笑ったが、ルティはきょとんと目をしばたかせた。
「は? 何言ってる、協力はいらない」
 そう言われると思っていたから、メイサはすぐに切り返す。
「あら、そうかしら。今のままで、スピカの心まで手に入れられると思ってるの? あの皇子様に敵うと思ってるの?」
 軽い挑発にルティは心底気分を害したらしい。でもメイサは気にしない。本当のことだから。今のままでは彼はスピカを手に入れられない。
「……俺が、あいつに敵わないっていうのか?」
「あなたはお気に召さないみたいだけれど、私はそうは思わないわ。だって、あの子は腐ってもジョイアの皇子よ。しかも、あの美貌。少々無神経で、甘ったれなところも、まあ可愛いと言えば可愛いし。幼いけれど、純粋で綺麗な子だった」
(それから、想いの形がスピカとよく似てて──お似合いだと思ったのよね)
 だからこそ引き離したくないと思ったし、そう簡単には離れないようにも見えた。
 ルティはさらに顔を険しくしている。あの皇子のことが本当に嫌いなんだなあとメイサは物珍しく思った。彼が特別な感情を持つという意味では、愛と同じくらいに珍しいと思う。
 そんなことを感じながらも、メイサは自分を励ますかのように続ける。さっき協力と言ったからには、力にならなければ。女心の分からない彼に、さっそくの助言だった。
 あの二人は似合いなんだから、諦めなさい。本音はそれだから厄介だった。余計なものが滲み出ないように慎重に口を開く。
「無理矢理攫って来て忘れろっていうのはちょっと無謀なんじゃないの?」
「今回は無理矢理じゃなかっただろ。浮気をさせて、アイツから手放させる予定だった。実際はどうか知らないが、事実、スピカは牢に移された。どんな理由があれ、俺だったら守るべきものを手元から離したりしない。あんな風に簡単に奪われること自体、守り切れてない証拠だろ」
「う、ん……」
 何か腑に落ちないような気がした。その原因がどうも彼の持つ皇子への複雑な感情にある気がして、そこに考えを巡らせようとすると、ルティの声が遮った。
「──今度は上手くやる」
「何? もう次を計画してるの」
 一瞬彼は迷う。計画を分け合うのには躊躇いがあるらしいが、すぐにメイサに言っても害がないと判断したようだった。
「妊娠したらしい」
「は?」
「だから、確率は二分の一。皇子だったら、貰ったも同然」
 ニヤリと笑うその様子は、何かの試合に勝ったかのようで、メイサは激しく混乱した。
「え? 妊娠って、…………スピカが?」
 話に置いて行かれている。確認すると、ルティは力強く頷いた。
(え? じゃあ、なんでそんな平気な顔してるの──おかしいでしょ)
 愛する女が他の男の子を孕んだ。その場合、もうちょっと苦しむはずではないかと……メイサはやはり全く理解できない。ルティが子を作るかと思うと引き裂かれそうに苦しんだ、自分を思い返すと余計にだった。
「国内視察がオリオーヌで止まって、その後皇子だけで続行されたと報告が来た。妃の体調不良と言っているが、随分怪しい。病気の妃を置いて、あの皇子が視察を続けるはずが無いだろ」
「あ、ええ、まあ」
「どちらにせよ、ここ一、二年の間が勝負だ。子が産まれるまでに、準備だけは整える」
「ああ、うん」
(勝負って何が? 準備って何を? だから、なんでそんなに冷静なの?)
 ぐるぐると質問が頭の中を駆け巡る。相槌を打つものの、分かっていない様子はすぐさまルティに知れた。
「分かってないだろ」
「ええ」
「──だから、お前に頼むことは何も無い」
 これで分からない馬鹿は要らない──そんな風に切り捨てられて、メイサは焦った。
(でも、わかるわけないでしょ、今ので!)
 メイサに分かるのは一つだ。
「で、でもね、はっきり言わせてもらうけれど。もしスピカがアウストラリスに来たとしてもね! スピカはあなたを好きにはならないわ」
「なんでそう言いきれる? あいつは、俺を嫌ってはいない。他の女と一緒で、すぐに俺に夢中になる」
 どこまで自信家なんだろうと呆れる。にやりと笑う顔が魅力的なだけに余計に腹が立つ。
(これだから振られたことの無い男は!)
「馬鹿ね」メイサは怒りを抑えて鼻で笑うと言い返した。「なんで分からないのかが分からないわ。嫌ってないのは、〈友人〉だからでしょ。〈恋人〉ましてや〈夫〉なら話は全然別に決まってる。──これだけ女を囲ってたらね、普通の女──ましてや、あの潔癖そうな子が許す訳無いの! 自分で皇子の浮気をけしかけておいて何よ!」
 ルティの表情が固まる。今ようやく思い当たったらしい。顎にその長い指を当てると、眉をしかめた。
(ああ、どうやら計画し直してる)
 メイサはその前に、と、どう考えても一番いい案を提案する。
「スピカが欲しいなら、清算しなさいよ、全部・・
 この際、全部でいい。とにかくこの間みたいな騒動はもうまっぴらだったし、なによりメイサの心の平安の為には重要なことだった。何と言ってもメイサはこれから暫くこの男の傍付きなのだ。今度は声を聞くどころか、うっかり情事の場に出くわしてもおかしくない。そうなったら……立ち直れない。
 自分がその相手になれないことが分かり切っている今、メイサに出来るのはこのくらいだった。
「……」
 難しい顔をして考え込んだルティに、メイサはもう一押しする。
「あの皇子様は誠実だったわよ。結局、誠意のある男・・・・・・には敵わないんだから。絶対に」
 皇子とあえて比べると、ルティは急に傍にあった服をとると纏い始める。そうして寝台から立ち上がり、メイサを避けるようにして扉に向かった。今のはものすごく気に入らなかったらしい。怒りが背中から燃え上がってるように見える。
「お前は……」
 しかし、何かを恐れるようにルティは問う。
「何?」
「いや、……分かった」
 僅かに首を振ると、それだけ呟いた。そして、彼は逃げるように自ら部屋を出て行く。彼の部屋には、メイサだけがぽつんと残された。

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2010.09.20