それ以降、しばらくはまともな会話をさせてもらえなかった。彼はメイサの顔を見ると始終機嫌が悪く、会話さえ厭うた。それでも、王妃から派遣されているメイサを無下には出来ないらしく、部屋から追い出されることも無かった。王妃はメイサに彼の様子の報告を義務づけたから、彼女は彼と話をしようとし続けた。彼の顔を間近で見ることができるのは嬉しかったが、彼の態度には胸を痛め続けていた。
それでも会合を繰り返すうちに、メイサのしつこさのせいか、次第にルティの態度は軟化してきた。彼女の頑固さを良く知っている彼は、言っても無駄だと割り切ったのだろう。──といっても、以前よりましになった、その程度だ。
「はぁ」
朝焼けの空を横目で見ながら、一睡も出来ずにふらふらの体を引きずって自室に戻る。彼の部屋から戻るときは大抵そうだった。そのまま寝台に横になると、溜息が出た。原因の一つである報告書に目を通す。その報告は、最近ルティがジョイアのオルバース領主と密に連絡を取り合っているという内容で、これは意外にも重要な情報だった。
彼は先日も南部カルダーノにてジョイアのオルバース領主ヴェスタ卿と会談をすませて来た。拾い聞いたその話を例の就寝前の世話話でちらりと出したら、鬱陶しそうにしながらもルティは素直に認めた。別に会談自体は隠すようなことでもないらしい。内容は二国間の交易に関することだったようだし、少し聞いただけでは、それは通常の公務で、スピカとは特に関係ないような気がした。
しかし、そうではなかった。繋がっていないようで裏で繋がっていたのだ。
彼はメイサ相手ではすることが無いから暇なのか、少しの時間、昔みたいにメイサの話相手をしてくれた。そして、メイサが色々尋ねると、決して答えを教えることはないけれど、考える為の〈材料〉は与えてくれた。昔言ったように、「自分の頭で考えろ」という方針は変わらないらしい。メイサの鈍った頭を鍛えて楽しんでいたのかもしれない。メイサもそれはそれで楽しんでいた。彼の出題は難問であることには変わりがないけれど、自分なりの答えを出すことはなかなかに刺激的だった。
彼がその件に関して出した〈材料〉は大まかに分けて五つだった。
一つ。ジョイア南部の都市オルバースは交易都市であること。そしてそこでの主な取扱品は、岩塩。ジョイアでは岩塩、その他鉱物はほとんど生産されず、アウストラリスからの輸入に頼っていること。
二つ。皇太子妃スピカは国内視察の途中で体調を崩したまま、ジョイア北部オリオーヌ州の皇子の別荘にて、相変わらずの静養中。皇都へ帰る気配がないということ。
三つ。そのオリオーヌ州ではアウストラリスの難民を受け入れているが、あの国の北部では元々職が少なく、同様に難民を受け入れている南部オルバースに比べて、受け入れ態勢が整っていないということ。
四つ。オルバース領主ヴェスタ卿は娘をジョイア宮に仕官させていて、その娘はスピカの傍付きで、現在主とともにオリオーヌにいるということ。
五つ。ヴェスタ卿の奥方の髪は〈赤〉だということ。
ルティはそこまで言うと、そこで言葉を一度止めた。
「これだけ言えば、シトゥラ出身なら分かるだろう。──俺はどうやってスピカを手に入れる?」
それを聞いて初めて、今回の会談がスピカに繋がっていると知ったメイサは、答えを待つルティの期待をしっかりと裏切った。
(無理)
岩塩? 静養? 難民? 侍女? 髪? ──どこがどう繋がってスピカを手に入れられるのかさっぱり分からなかった。そもそも、難民など政治的なことは、勉強はしているものの、メイサにはよく分からないのだ。突然ポンと言われても頭が付いて行かない。それでも頭を絞って一つ答を告げる。
「ええと……そのスピカの傍付きの侍女に攫わせるとか?」
溜息が一つ。答えの出来の悪さに、彼ががっかりしたのはあきらかだった。
「侍女は、スピカの親友だ。そういうわけで、俺もさすがに手を付けられなかった。口が軽いし、女っていうより母親みたいな顔してた。俺はああいう
(だから、どうしてそっちに頭がいくわけ)
今度はメイサの方が溜息だった。それに、おせっかい──その言葉が耳に痛かった。自覚はあったのだ。
「だから、侍女がスピカを裏切ることは無い。他に案は?」
「……分からないわ」
「ふん」
メイサがあっさり降参すると、ルティはつまらなそうに鼻を鳴らし、そして独り言のようにぶつぶつと言った。
「こうして考えると……回るヤツはあんまりいないもんだな。その割に……アイツはそこそこ頭は回ったか。それから……最近付いた側近が気になるな。前の件でも絡んでいたらしいし。あれは注意しておく必要がある、か」
「頭が回るって、誰のことよ?」
そう問いつつも、頭に浮かんだ顔があった。
(アイツ?)
彼がそう言う場合、それはあの皇子のことが多かった気がする──そう思い出して、
「あの皇子のこと? あの子見た目より随分賢いわよね」
そう率直な感想を言うと、ルティは少し気まずそうに口をつぐんだ。そして、
「そんなことは無い」
ぼそっと否定するルティに思わず吹き出した。いくら嫌いだからといっても、これはあまりに変だった。
(なんだか子供みたい)
その様子が昔みたいで楽しくて、くすくす笑いながら、言葉を継ぐ。
「何? さっき頭が回るって自分で──」
「もういい。──お前には関係ないことだった」
突然冷たく切り捨てられて、メイサは自分の立場を思い出してはっとした。楽しい夢から急に目覚めたような気分だった。
それでも横暴とも言える会話の打ち切りを不満に思って睨むと、ルティはその茶色の瞳で鋭く睨み返して来た。自分が向けた怒りよりも大きな怒りを向けられて、メイサは驚き、戸惑うしかない。
(……私、そんなに変なこと言ったかしら?)
「時間だ。──余計な話をしすぎたな」
冷たい声はそれまでの会話を思えば嘘みたいだった。なんだか、急に部屋が冷えた気がしてメイサは僅かに体を震わせる。侍従が部屋の扉を計ったように開いて、ひゅうと夜の冷えた風が吹き込んで足元を冷やした。
どうやら就寝の時間だ。扉の向こうで廊下の明かりが落とされ始めて、彼はメイサに背を向けると、部屋を後にした。
メイサは報告書を閉じると同時にその記憶の中から抜け出した。
頭の中には二人を分けていた、重たい色をした扉だけが残っていた。
いくら傍に寄っても、その扉のような厚い壁に拒絶される気がした。あんなに傍にいるのに触れられなかった。もちろん──触れようとしてもいけなかった。
メイサの居場所はいつもぽつんと置かれた肘掛け椅子だった。ほんの少し近づけば、寝台がある場所。でも、その場所からメイサが動くことは、これからも、きっと無い。
*
「それで。進展は?」
王妃は、メイサがさぼっていると思っているのだろうか。どうも報告が気に食わないらしく、毎回こんな感じの意味の捕らえ辛い質問を投げかけた。彼女は一生懸命ルティの近況を探って報告しているのだけれど、肝心なものが足りないらしい。王妃が何をメイサに期待しているのか──メイサはよく知っていたつもりだけれど、それに応えることはなかなか出来なかった。
しかし、今日は重要な情報が手に入ったからと、メイサは多少意気込んで持って来た例の報告を読みあげる。
「ふうん」
ドキドキしながら反応を見守るが、王妃の反応は薄い。
(ああ……今回も、だめかも)
急に自信を失って、声が小さくなる。そうしているうちに、王妃がとうとう苛立ってメイサの報告を遮る。
「そんな見当違いなことはいいから……あなた何をやってるの、本当に。あなたのシトゥラの娘としての武器はどうしたの」
丁寧な物言いではあったけれど、すこぶる不機嫌だった。どうも、また、失敗だ。
「申し訳ありません。力不足で」
怒られて悲しく思いつつも謝るしか無かった。
メイサは自分の武器を『耳』だと思っていた。どんな小さな音でも拾えるこの耳は情報収集にとても役立つはずだった。シトゥラの娘としてメイサは力を発揮できない。けれど代替の力としては使えるはずだった。だから、頑張って色々情報を拾って来たと言うのに……見当違い。──喜ばれていない。
「スピカを諦めさせて欲しいのよ、私は。あの子はルティには相応しくないの」
「──力不足で申し訳ありません」
再び謝る。
その要望は前々から聞いていた。ルティの気持ちを聞いた後、一度メイサは王妃の説得も試みた。だけど、王妃は逆にむきになってしまった。それ以降、いくら言っても、なんとか諦めさせてと懇願されるばかりだ。
『王妃様、それは私には無理です。最初から頼む人間を間違っていらっしゃいます』
そう訴え続けているけれど、あなたになら出来るとなぜか力一杯説得される。しかし、メイサは彼女がなぜそこまでスピカを嫌うのか理解できなかった。メイサなりに考えて、王とラナの過去が頭に浮かぶけれど、いまいちピンと来ない。恋敵の娘に息子を渡したくない──なんていう理由は、普段の彼女を見ていると何となく似合わない気がしたのだ。
とにかく王妃の言葉には何か含みがある。それが分かればすっきりするのにと思う。……けれど彼女には何か口には出来ない理由があるようだった。そこに触れようとすると、いつもするりと逃げられる。
メイサは仕方なく、撥ね付けられた報告書を丁寧に布に包むと、部屋から下がろうとする。これを元に、王妃がその聡明な頭脳で作戦を練って下されば──、メイサが出せなかった答えを出して下されば。そう期待していただけにメイサは残念でならない。彼女にはメイサの行動は全部無駄に見えているようだった。
(ああ、なんだか切ない)
そう思いながらメイサが例の布を深々と被り、髪を全て隠してしまうのを見て、王妃は何かをひらめいたようにぱちんと手を打った。
「ああ、そうだわ。──あのね、メイサ」
「はい、なんでしょうか」
「その服、あまりに似合っていないでしょう。もっと別のものは持っていないの」
「いえ、支給されたものしか」
なんといっても追放されてる身なのだ。贅沢は敵だった。
「そう、じゃあ後で届けさせるから、それを着て頂戴。寸法は以前と変わっていないわよね? それから髪の色は……そうね、もうちょっと似合う色にした方がいいわ。元の色はさすがにまずいけれど、同じ茶色でももうちょっといい色があるでしょう。それも一緒に渡すわね。あとそのかぶり物はもう要らないわ。どうせあの子の差し金でしょ。女官長にも話を通しておくから」
「え、ええ、はい」
立て板に水のように言われて、メイサは目を白黒させる。
今の今まで何も言われなかったことなのに、気にもしていなかったようだったのに……一体突然どうしたというのだろう。
(あの子の差し金? あの子ってルティ?)
戸惑いを僅かに表すと、王妃は嬉しそうに笑う。
「せっかくの武器なのだから、磨かないと勿体ないじゃない」
「はぁ」
メイサは武器とは何のことだろうと首を傾げながらも、そのまま部屋を出た。