11.訪れた転機 03


 そんなこんなで一週間が過ぎた。
 メイサは王妃の言いつけ通りに布を取り、髪も少し鮮やかな栗色に染め直した。元々赤い髪を隠すだけのためだけに染めていたのだけれど、泥色とでも言っていいようなくすんだ茶色は、メイサの心も沈ませていた。
 柔らかい艶やかな色に染め直すと、瞳の色とも相性が良く、顔色も少し明るく見えた。
 これならば布で隠さずとも見苦しくないかもしれない。もう春まっただ中で、水も冷たくはないから、染め直すのも苦ではない。それどころか洗髪という贅沢な行為は、心の澱みを洗い去り、軽くして、浮き足立たせる。
 染め直したばかりの茶色の髪を背に下ろして、新しく支給された服を纏う。そうして沈み行く夕日に赤く輝く城の中を、足取りも軽く歩いていると、妙な視線を感じた。
『──あれ、誰だ?』
『知らない』
 遠くでそんなひそひそとした囁き声がする。
 それを背に受けながら、ルティの部屋の前へと辿り着くと、後ろから追いかけて来ていた声が言う。
『あの方の新しい女か?』
『そうかもしれないな』
『名簿にあったか?』
『いや……確認するか』
 後ろで兵が『おい』と声をあげると、部屋の前の衛兵が頷く。
「お名前をどうぞ」
 おかしくなりながら、メイサは兵を見上げた。布を被らないと分からないのかもしれない。メイサの目印みたいになっていたのだろう。
「メイサです。いつものように報告書をお持ちいたしました」
 僅かに笑うと、兵は名簿を取り落とした。慌てて拾い上げると、彼はメイサを食い入るように見つめる。検分しているのか、随分長い。気まずくなって声をかける。
「あの?」
「え……あ、ああ」
 声をかけると、兵ははっとした。そして名簿で名を確認する。名を見つけた後、変な間があった。
「メイサ……って、ああ! あの──」
 ようやく、ずっと前からいる何度も出入りのあった女官だと、気が付いてくれたらしい。
「入ってもよろしいでしょうか?」
「ど、どうぞ」
 間違いに気が付いたせいか、彼は赤くなり、変に吃りながら、メイサを部屋に通す。ルティは肘掛け椅子に背を預けて書類を読んでいたけれど、メイサの登場に気が付くと唖然としてその書類を落とした。
「なんで、そんな恰好してる──目立つなって言ってあるだろう」
「目立つな?」
 そんな命令は初めて聞いたとメイサは首を傾げる。
「でも、髪の色を変えただけよ?」
「顔を出すな」
「え?」
「それから胸も出すな!」
 彼は珍しく怒っている。胸? メイサはぎょっと目を見開く。そして自分の体を見下ろしてほっとしつつ首を振る。「別に何も出してないわ」
 王妃が支給してくれたのは襟の詰まった服だ。衣装を合わせているときに王妃が確認しにやって来たのだけれど、色々検討した結果、この綿で出来た地味な茶色の服に落ち着いた。襟刳の開いた美しい絹のドレスも用意されたのだけれど『虫が付きすぎる』と却下された。たしかに言われた通り、手入れが大変そうだったのだが……あれは体の線が美しく見えて、とても似合っていたのに。ご馳走を目の前でかっさらわれた気分だった。好きな男の前で着飾りたいというメイサの乙女心など当然汲んでもらえなかった。言えないから分かってもらえるとも思わなかったし、無視されても文句を言える立場でもない。選ばれた綿の服も前に比べれば十分に似合っていた。絹の前ではものすごく霞むけれど、実用第一だとメイサは自分に言い聞かせた。
 そんな訳で、支給されたこの服には、肌の露出など手と顔を除いてどこにも無い。どこかボタンでも掛け違えていたかと確認するが、特に何も不自然な点はない。
「寸法が合いすぎてるだろう」
「はあ?」
 寸法が合うのは当たり前のこと。何を怒っているのか分からなかった。
 前着ていた服は確かにメイサの体には合っていなかった。ふくよかなところも、細いところも無駄に布が余って──つまりは凹凸の無い、締まりの無い体に見えていたとは思う。動けないほどではなかったから、文句は言わなかったけれど、こうして体に合うものを思い出してしまうと、前の服はもう着れないと思う。メイサだって、まだうら若き乙女として最低限自分らしくいられる恰好をしていたいし、──何といっても、新しい服は動きやすかった。
 そう言うと、ルティは腹を立てたまま、近従に何か言付ける。そして彼が何か大きな箱を持って来ると、急にメイサに向き直った。
「それは脱げ。それから、髪は元の色の方がいい」
「──馬鹿じゃない」
 ルティはメイサの言葉を無視して、前にメイサが着ていた服と同じもの、それから使っていた染め粉と同じものを箱の中から取り出す。
 既に処分したはずだった。手に取ってみると、まったく同じものではないみたいだけれど……なんでルティがこんなものを持ってるのだろう──そんなことを考えながら、メイサは首を振る。
「いやよ。私にはそれ、似合わないもの」
「似合ったら駄目だろ、馬鹿はお前だ! ここをどこだと思ってるんだ! 王宮・・だぞ? どうせ、ここまでふらふら歩いて来たんだろ。いいから俺の言うことを聞いて、大人しくしてろ」
 そのあまりの横暴さにメイサは目を丸くする。しかしすぐに反発した。
「いやだってば。言われたことを鵜呑みにするな、自分で考えろって言ったのはあなたでしょう。私、今のままの方が動きやすいし仕事もしやすいと思うもの。要はあの家の娘ってバレなければいいんでしょう。私は幸いシャウラ様とも似ていないし、髪さえ染めていればバレることは無いと思うもの。──じゃあ聞くけど、一体何が問題なのよ?」
 ルティは珍しくぐっと詰まった。そしてメイサから目を逸らすと、僅かに小さくなった声で言う。
「……面倒ごとが増えるに決まってる」
「なんで」
「お前、この間、女たちが揉めてたの知ってるだろう?」
「ええ」
 数日前、ルティの周りの女二人が暇を出された。
 メイサはそれを聞いて、自分の説得が功を成したのだと喜んでいたのだけれど、──残念なことに、そうではなかった。
 ミュラという女官はあれでもうまく女官を纏めていたらしい。彼女がいなくなって以降、ルティの周りで頻繁にもめ事が発生するようになっていた。それらは多岐に渡り、最初女官たちの間の苛めに始まったごたごたは、なぜかミュラの後釜を狙っての争いに発展した。彼女によって、良く言えば統率、悪く言えば抑圧されていたものが一気に噴出したのだ。彼女の地位にいれば自分の立場をより良くできると思った人間が沢山居たらしい。そしてその闘争は、最後、一歩間違えれば殺生沙汰、というところまで発展した。
 さすがに手を焼いたルティが、問題を起こした女官をクビにして、ひとまず騒ぎは治まったのだけれど、まだ火種はたくさん潜んでいそうではある。妃の座を皆狙っているのだから仕方が無い。
 メイサは例のごとくその輪に加われずに雑用を淡々とこなしていたため、その喧騒の火の粉を被ることは無かったが、噂を耳にしてはルティの身の安全を憂いていた。今は矛先が女に向かっているけれど、いつかは彼自身に向けられてもおかしくないと思っていたのだ。
 いくら彼が腕が立つと言っても、閨の中で狙われれば、この間のかすり傷くらいでは済まない。
 そう心配するメイサに、ルティは苛ついたように言う。
「で、それを知っていても分からないのか?」
「あなたが私の助言通りに自分の心配をした方がいいってこと?」
 この際言ってやろうと、ちくりと漏らすと、大きな溜息が帰って来た。
「──俺のことはいい。お前は鈍過ぎる」
「はっきり言わない方が悪いのよ。何が言いたいのかさっぱり分からないもの」
「お前は──」
 そこまで言うと、ルティはメイサをまじまじと見つめて口をつぐんだ。今日はこの手の視線を良く受けると思いつつ、メイサがきょとんとしたまま答を待つと、ルティは諦めたような声を出した。
「お前は、やっぱり──馬鹿だ」
「なんですって」
「とにかく鏡を見て、自分がどれだけ馬鹿なことをしてるか良く考えろ」
 部屋の姿見を指差してそう言うと、彼は例によってメイサを置いたまま外へ出る。メイサがやって来たときは必ずそうして途中で部屋を出て行ってしまうのだ。皆が寝静まる頃に出て行って、そうして朝まで帰って来ない。彼が出て行ったその後のことはあまり考えたくないが、どこかの女官の部屋に潜り込んでいるのだろう。メイサとここで寝ることは考えもしないらしい。彼女の方にもその覚悟は全くないけれど。

 残されたメイサは言われた通りに鏡を見て、視界の端に入った近従に視線をやる。いつからいたのだろう。彼はメイサが見る前から彼女を見ていたようだった。手元にはルティが飲み残したままの酒の器があるけれど、片付けはまだ途中のようだ。鏡越しに目が合うと急に我に返り、焦ったように目を逸らす。
「ねえ、殿下が言われていたのってどういう意味だと思う?」
 会話を聞いていたのかを確かめたくて、そして、聞いていたのなら、意見を聞いてみたくて、振り返りながら尋ねると、彼は突然向けられた言葉に飛び跳ねた。メイサも初めて会話をするかもしれない。
 彼は何かあると先ほどのようにすぐに駆けつける。だからいつも隣室に控えていることは知っていたけれど、普段は全く気にすることもなかった。気にさせないのも彼の仕事のうちなのだろう。
(そういえば、他の女のときもこの子ずっといるのかしら? まさかね?)
 メイサもさすがにルティの寝台で眠れるほど神経は太くない──というより、彼がいつもここで何をしているのかを考えれば絶対眠れない自信がある。自分の部屋──ルティの部屋からは結構な距離がある──に戻るには夜が更けすぎているので、毛布だけ頂いて、長椅子を拝借して眠るのだけれど、そのときには隣室から気配が消えた。おそらくはルティが部屋から出た後か、出る前か、その辺りに茶器や酒器などを片付けてすぐに出て行くのだ。珍しいこともあるものだ。今日はなぜ残っているのだろう。
 よく見ると、ルティやメイサより幼い感じがする顔立ち。しかし立場を考えれば歳は割といっているかもしれない。濃い茶色の髪に同色の瞳はこの国では珍しくない。しかし少し垂れ気味の大きな目が印象的で、意外に可憐な容貌だった。ルティの傍にいたため迫力負けしてまったく目立たなかったのだろうが、改めて見ると、なんとなく小動物のような愛らしさがある。妙に頼りなさそうに見えるのはその童顔のせいだろうか、それともメイサとさほど変わらなそうな背のせいだろうか。
「あなた、名前なんて言うの?」
 とりあえず名を知らないと何かと不便だ。それに仲良くなっておけば、いろいろと有益な情報を得られるかもしれない。
(将を射んと欲すればまず馬を射よ、って言うわよね)
 その言葉を見たのはシトゥラの指南書だっただろうか。メイサはいい機会だと彼の方に身を乗り出した。
「え、ええと、せ、セバスティアンです」
「へえ、素敵な名前ね。私はメイサっていうの」
「あ、……あのっ」
 彼が顔を赤くして何か言おうとしたときだった。
 足音が近づいたかと思うと、大きな音を立てて部屋の扉が開く。
「──忘れ物だ」
 顔を出したルティがセバスティアンの襟をしっかり掴んだかと思うと、一瞬後には二人の姿は扉の向こうに消えていた。まるで猫を連れ出すかのようなその様子にメイサは唖然とする。
「いったいなんなの。──忘れ物?」
 その割に何も持っていかなかったじゃないと不思議に思いながら、残されたメイサは壁際に立てかけられていた姿見に近づく。
 そこには地味な服に身を包んだ、顔色のさえない、自信のなさそうな女が佇んでいた。以前、シトゥラの鏡で見た自分と比べると、鈍った刀のようだと思う。磨くことを忘れ、いつの間にか切れなくなってしまった本当の〈役立たず〉。そんな樟んだ色の自身の姿を見ると、思い出したくなくても、どうしても光が溢れるような恋敵を思い出す。自身の魅力だけで輝いていた、あの恒星のような少女。
(まあ、……どうやっても敵わないわね)
 シトゥラで着飾っていた時は何とも思わなかったけれど、もう今はなかなか手の届かない絹のドレスに少しだけ焦がれてしまう。あれを着れば、まだましに見えるのかもしれない。でも、ルティの傍付きである今は、そんなものを着る意味はまったく無いけれど。
(『馬鹿』だって。三回も言われちゃった)
 鏡を覗き込みながらメイサは彼の言葉の意味を考えるけれど、そう言われた理由はやっぱりよく分からなかった。

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2010.09.28