メイサがルティの下で働くようになって一年が過ぎていた。
五月の終わり、季節は夏に差し掛かったところだ。その間に変化があったかと言えば、あると言えばある。無いと言えば無い。
まず、新年が明けるとともにルティは二十一歳になり、春の訪れと同時にメイサは二十二歳になっていた。
メイサ自身を取り巻く環境は大きく変わった訳ではない。ルティの直属になったとはいえ、彼は彼女を必要以上に寄せ付けず、相変わらず仕事をさせることも無く、もちろん他の女官のように側に侍らせる事もある訳が無く……彼女の居場所は一年前の「肘掛け椅子」から動くことは無かった。週に一度ほどの王妃の使いを除けば、メイサは下働きの下女と同じように彼の目の届かないところでひたすら地味に生活していた。
ただ変わった点がないわけではない。
変わったのは、まずメイサの周辺に人が増えたことだ。メイサが少しまともな恰好をし出した辺りかもしれない。世話好きの年配の女性──母や祖母世代の年齢の女性たち──がよく声を掛けてくれるようになった。若い女官たちは相変わらずメイサを牽制していた。一度囲まれて文句を言われかけたけれど、その年配の女性たちが庇ってくれたのだ。それから気に掛けてもらうことが増えた気がする。
そして、増えたのは女たちだけではない。彼女たちの隙間を縫うようにして、時折、男が声を掛けて来ることも増えた。花などの小さな贈り物をもらうこともあった。彼らはメイサがルティのお手つきだとしっかり勘違いしているらしく、いつもひっそりと、しかし決死の覚悟を持って現れる。そして、もし殿下から暇を出されることがあれば、と語尾を濁す。その意味はこの頃になってようやく理解し始めていた。暇を出される女官というのは、彼らにとっては花嫁の候補なのだと。そしてそれがルティの言う面倒ごとなのだと。
以前王宮を去ったリダも、あのあと近衛兵の求婚を受けて結婚したと便りが届いた。彼女と同じアステリオンの愛妾たちも、彼が失脚した後、縁談が次々に纏まったそうだ。そういった風に、役目を終えた女の行き先というのは意外にしっかりと決まっているのだ。
妃になれない女はそこそこの身近な男で妥協する、そして男の方も出会いの無い職場で伴侶を得る──確かにそれらはよく出来ている仕組みだった。しかし、メイサにとってはとても面倒だったのだ。
メイサは他の愛妾のようにはいかない。彼女はまず愛妾ではなかったし、それどころか女官であるかさえも怪しい。それに自分が曰く付きであることをよく理解していたから、やんわりとしかししっかりと求婚を断り続けた。しかし男たちが消えることも無かった。下げ渡されるのを今か今かと待ち続けている。それは
しかし、彼らがそう言い出す理由には心当たりがあった。
なぜなら、まずルティは一年前から新しく女を囲わなくなっていた。それから最近になってから、急に今までいた愛妾に暇を出し始めた。つまり〈おこぼれ〉自体の絶対数は減るばかり。それを目当てにルティの元にいたのならば、焦るのも当然だろう。
以前の「分かった」という言葉はそれまで全く無視されていて、暇を出されたのは問題を起こした二人のみ。それ以降いくらメイサが言おうとも聞き入れられなかったというのに──突然だった。考えられない変化にメイサは最初病気でも貰ってあちらの機能が駄目になったのではないかなどと、乙女としてあるまじき心配までしてしまう。
しかしある知らせを聞いて、彼は時期を待っていただけだと理解した。──どうやらそれらは全て「スピカ」の為なのだと。
夏に入りかけたある夜のこと。日暮れの遅くなった時期、メイサは裁縫道具を持って彼の部屋を訪ねていた。
じっくりと初夏の夕暮れを楽しもうと、いつも通りに指定席である肘掛け椅子を陣取って針を急がせていたところ、突然ルティが言った。
「皇子だったそうだ。──忙しくなる」
メイサは刺繍の一つを終えて糸を切ろうとしていたところだった。膝の上に乗せていた束になった色とりどりの刺繍糸が床に転がり、花の様に広がった。
メイサは最近になって刺繍を始めていた。
ルティの部屋いる間、会話が弾まないことが多々あった。その気まずい沈黙がいやで、メイサは昔はどの様に過ごして居たか、なんで平気だったのかと記憶を探った。そして思い出した。彼がメイサの部屋で遊んでいたときは、各々好きなことをしていたものだと。その合間に会話があったのだと。それを機会に、メイサは色んなものを持ち込むようになったのだ。
先日までの趣味は読書だったのだけれど、王宮で手に入る本は数少ない上、ルティが読むような本は難しすぎて、とてもメイサには合わなかった。すぐさま睡魔に襲われてしまう。
睡眠──それはそれで有意義な時間の使い方ではあったけれど、さすがに仕事をさぼっているような罪悪感があった。色々と悩んでいたところ、例の母親代わりの女たちに勧められたのだ。
季節はまだ夏に入ったところだが、厳しい夏を超えたあと、膝元の心もとなさはあっという間にやってくる。エラセドもムフリッドほどではないが内陸部特有の冬の厳しさがあった。それに備えて冬の衣替えは早めに行われる。今から準備をしてもおかしくないのだ。
アウストラリスの人間は、冬には主に毛皮を用いるのだけれど、当然高価なものだ。王宮の片隅に仮住まいをしている状態のメイサが手軽に手に入れることができるのは主に羊毛を使った毛織物だった。そして今は地味な織物の端にせめてもと花を象った模様を入れているところだった。夏の間に練習して上達したら、ルティの膝掛けの隅にでも何か模様を入れさせてもらえないかななどと考えていた。
今の彼の言葉は、メイサのそのささやかな幸せに一瞬でひびを入れた。
「──
その言葉が不吉に思えたのは、メイサの頭の隅にはいつも彼の計画の断片が住んでいたからかもしれない。
『皇子なら貰ったも同然』
「スピカが皇子を産んで、ジョイア宮に戻っている。十月に生まれたそうだ。子供は今六ヶ月だと」
ルティは今度ははっきりと言う。やはり以前聞いたのと同じく、飄々と。メイサは全身の力が抜けるのを感じて、慌てて拳を握りしめた。
(ああ、本当に子供ができていたんだ)
働かない頭で思い出す。そして計算する。十月に産まれたということは──授かったのは新年あたりになる。となると、まさにメイサが遭遇した〈あの夜〉の子供かもしれない。
(あの時も随分仲が良さそうだったじゃない。夫婦なんだから当然なのに)
なんでだろう、何かが心の隅で小さく固まっている。
彼らの話は無意識に避けていた。皇子の話をするとルティは不機嫌になったし、メイサだって仕事とは分かっていてもスピカの話は極力したくなかったのだ。そのせいもあって二人の間では半年ほとんど話題に出なかったから、メイサの中では無かったことになりかけていた。しかし、着実に育っていたのだ。ルティの計画とともに、スピカのお腹の中で。
メイサはその時が来たことを悟る。
平和で楽しかった日々に終わりが来たのだ。彼はとうとうスピカを手に入れる。
「皇子ね……じゃあ……スピカを手に入れる算段がついたってこと?」
声が震えないよう、それだけに集中した。
血が通わず、手先がどんどん冷たくなっていく。
「ああ。アイツもさすがに諦めるしかない。色々あがいているようだが、手放すしか守れないってことがそのうち分かるはずだ。あとは、オルバースが上手く動いてくれるのを期待したいが……あの狸は油断ならないから……」
頬が引きつっているのをなんとかなだめようとするけれど、うまくいかない。「うまくいきそうで良かったわね」と笑ってあげたいのに、どうしても笑えなかった。
固まるメイサがまだ理解に手こずっていると思ったのだろうか。彼はにやりと笑うと教えてくれる。いたずらが成功して喜んでいる子供みたいな顔で。
「まだ分からないか? 黒髪と金髪からは、赤い髪の子は産まれないだろう?」
ルティは心底嬉しそうな顔だった。それは勝利を確信している顔。
窓から差し込む夕陽が彼の髪を鮮やかな赤に輝かせる。
なぜ今日は彼の髪がこんなに綺麗に、そして、なんでこんなに彼が魅力的に見えるのだろうと思いながら、メイサは彼の顔にぼんやりと見とれる。
(どういう意味?)
なぜそんな当たり前のことを強調するのだろうと微かに働いている頭の隅でメイサは思う。スピカはシトゥラの娘。だから、息子の髪が赤いのは当たり前で。
(私、何かとても大事なことを忘れているんじゃない?)
彼の言いたいことがメイサの予想とは全然違う気がして、それから先を考えようとする。だけど何か膜がかかったようになっていてうまくいかない。──これ以上を今受け入れることはできない。
「──お前……おい!」
「え?」
血相を変えた彼の視線を追って、はっとする。手元を見ると、メイサは握りしめた親指の付け根に糸切り鋏が刺さっているのが見えてぎょっとした。鋏ごと握りしめていたらしい。慌てて引き抜くと血が盛り上がり、瞬く間に赤い玉を作る。
「──つっ」
傷と血を見たとたんに急に痛覚が戻った。結構な痛みだった。それに気が付かないほど感覚がなかったことに自分で呆れる。
(ああ、……でも、良かった、助かった)
痛みのおかげで少し血が巡るようになった気がした。もし傷に気が付かなかったら、貧血で倒れていたかもしれない。
「反応、遅すぎるだろう。──おい、ぐずぐずするな」
ルティがセバスティアンに声をかけると、彼がまるで小リスのように駆けつけて、清潔な布と酒を差し出す。メイサは布を受け取って傷を拭う。幸いそこまで深くはない。このくらいの傷ならば治療も応急手当だけで済むだろう。
「だ、大丈夫ですか!」
慌てるセバスティアンにメイサが治療をと手を差し出すと、彼も素早くメイサの手を取ろうとした。しかし、ルティが横から酒を奪い、乱暴にメイサの傷にかけて、新しい布でぎゅっと縛る。
(え……?)
自分の手にルティの手が触れていた。それは本当に僅かな時間だったけれど、確かに触れた。大きな筋張った熱い手が。あの六年前の夜に触れたきり、それ以降、一度も触れなかった手が。
彼はメイサが固まったのに気が付くと、慌てたように手を離して背を向ける。
「馬鹿か。なにやってるんだ、気をつけろ」
また怒らせてしまったようだった。吐き捨てるような言葉。そして逃げるようにセバスティアンを伴ってルティは部屋を出る。
夕日が沈む。メイサの影が長く長く延びて、扉に届く。メイサは彼のいつもより随分早い退出を呆然と見送った。
混乱していた。直前まで真っ青だった顔が、既に真っ赤になっているのがメイサには分かった。まるで夕焼けに染められているかの様に。
(王妃様に……なんて報告しよう)
彼女には相変わらず彼の周りの出来事を報告する義務があった。だから、さっき聞いたスピカのことを話さなければならなかった。駒が揃ったようです。潮時です。王妃様も覚悟を決めて下さいと。
そんな言葉が胸を刺し、傷を付けていく。だけど──
指に付いた傷も、心についた傷も気に出来ないほど、彼が触れた部分が火傷をしたようにいつまでもじりじりと痛んでいた。