シャウラの機嫌は日差しが夏に向けて強くなるにつれ、日に日に悪くなっていた。
窓から差し込む強烈な光を嫌って、カーテンを閉じる。せっかくの硝子も夏のアウストラリスには不要なものだと思える。
先ほど呼びつけた姪はまだやって来ない。少し相談しなければならないことがあったので、呼びつけたのだけれど、こういうときに限って間が悪いのだ。
彼女は本当に可愛い姪だけれども、あまりに鈍く、あまりに使い物にならない。彼女はシャウラの頼みの綱だったのに、その役目を全く果たさない。はっきり言わないシャウラが悪いのも分かっている。だから表立って責めたりもしないが、あの子はそういう負の感情には妙に鋭いのだ。だから可哀想だと思う。
──それもこれも息子がなかなか落ちないせい。
シャウラの打った手はことごとく躱された。
新しい愛妾を迎えたという──あの噂を聞いて、作戦はうまくいったかに思えた。しかし娘の方に確認すると、どうやら本当に噂だけで、その事実は無いそうだ。つまり彼女の周りの男を牽制するための〈嘘〉を虫除けとして自分からばらまいたのだ。彼女が彼の部屋に行く日、そういう関係だと匂わせる為に色々工作していることは彼の近従から聞いている。そして、そのことに娘本人は気が付いていない。
それが男たちから彼女を守る嘘。
そうして女たちから守る嘘もついている。怒りの矛先が彼女に向かないようにと、円満に暇を出させる為の工夫。少しずつではあるけれど本来の愛妾たちと距離をとり、不安を煽って、また同時に近衛兵──大抵はメイサに目を付けた男だが──の欲も煽って娘の方に浮気をさせている。向こうに責任を背負わせて、体よく追い出したのだ──とシャウラは踏んでいる。一見分かりにくいけれど、そう穿ってみれば、あまりにも分かりやすい。
(昔からあの子の行動はすべて──分かり切っているのに)
それなのに、自分のものにする気は全くない。そのくせ、どうやっても他の男に渡す気は無いようだった。このまま今のような付かず離れずの距離を保ち続ける気なのか。シャウラは彼らの穏やかな関係に投石し続けているのに、なかなか波は立ってくれない。立ったとしても、その波は別のところに押し寄せていくだけで。
歪んだ独占欲が産まれたその原因はよく知っているのだけれど、ここまでしっかりと根付いていると厄介だ。根付かせたカーラの野心に対する執念のようなものを感じる。
となると、シャウラはルティの牽制が効かない高位の男に照準を合わせるしかない。そしてそれはシャウラにも随分な危険が及ぶ。〈夫〉はまず黙っていないだろう。それを、息子は計算に入れているのだ。
いつも出遅れる。あの頭脳は父親譲りなのかもしれない。そして諦めの悪いのは──一体誰に似たのだろうか。
「ああ、〈彼〉には勿体ないと思っているのだけれど、背に腹は代えられないかしら」
シャウラは窓の外を眺める。
先日、直々に問い合わせが来たと近従から報告があった。
どこで聞きつけたのかメイサの出生を知っているらしい。
『あの
その問いには確信が含まれている様子だった。しかし丁寧なもの言いだったし、裏で力が動いていると言うよりは、純粋にメイサに興味を持ったのだろう。シャウラに一言入れてくること自体、かなり本気なことが分かる。
(一体いつバレたのかしら……髪のことだけは、あれだけ注意しなさいって言ったのに)
今日はその件でメイサを呼びつけたのだ。
シャウラは焦っていた。シトゥラに持ちかけられた縁談としては全く不足はない。どちらも曰く付きであることを考えれば。しかし、まだその時期でないのに、こちらの準備が整っていない今、切り札を手放す訳にいかなかった。彼女はシャウラがカーラに対抗する為の最後の武器だった。
(シトゥラの将来を握るのはやはり〈メイサ〉よ。絶対に〈スピカ〉であってはならないの)
「母上」
振り向くと、先ほどまで頭の中を占めていた息子が入室して来ていた。彼女が呼び出したのはメイサなのに。呼び出してもいないのにこのところよく訪ねて来る。用件はよく知っている。
「スピカのことで話がある」
(ほら、スピカのことだったらこんな風に冷静でいられるくせに)
今日もしっかりと王子の顔をしている。うっすらと笑顔を見せる余裕もある。以前メイサを使うと言ったときとの違いはどうだろう。血相を変えて子供のような態度で接して来たあのときと。しかし本人は気が付かない。その不自然さにあまりに慣れすぎている。
「何? 今更かしこまって。話すことは何も無いわ」
苛ついていると自分でも分かっていた。不安定でこの頃は眠れない。悪夢に現れるのは幼子の涙と悲鳴。
うなされて嫌な汗をかいて起きる日々。
「スピカだけは許さない」
答えはいつも同じ。ルティの計画についてはメイサから聞いていた。メイサはシャウラを説得しようとしたが、彼女はそれをまたもや撥ね付けた。諦めの付くはずのないものをなぜあんな風に諦められるのかシャウラには分からない。それがあの娘の強さなのかもしれないが、強さの使いどころを間違っているとシャウラは思う。
とにかくシャウラにとって今は正念場だった。
スピカが産んだ赤い髪の皇子、オルバースとの交易に関する密な会談、岩塩の輸出規制、主に北部に流布されている干ばつの予兆と国外逃亡者の急増。そして、先日発生した暴動と、ジョイア国境の閉鎖。
それらはシャウラの中で繋がって一つの形となっていた。
緊張状態にある隣国の皇太子妃、それを
彼に与えられたのは僅かな好機。スピカの妊娠という情報だけだった。それなのに一年でここまで組み立ててしまった。そして確率は半分だったというのに、見事運まで味方に付けた。
──そしてとうとう、数日前、彼の思惑通り、スピカはエラセドまでやって来たのだ。
まだ到着後誰にも披露されてはいない。宝箱に仕舞い込まれた宝石の様に軟禁されているという塔の先端は、シャウラの部屋の窓からも見ることができて、彼女はそれを見る度に胸を突かれ続ける。あの塔からスピカが降ろさないために、シャウラは今必死なのだ。
侮っていた訳ではないが、この一年という短い期間で本当にやり遂げるなどと、誰が思うのだろう。
その歪んだ執着が恐ろしい。押さえつけられて、行き場を失った水は出口を見つけると勢いを増すのかもしれない。その執着が向けられるべきは別の女なのに。
手に入れた後、彼がそのことを知るのが何よりも怖かった。だからこそ、何としても阻止せねばならない。絶対に認めるわけにはいかない。
シャウラだって出来ることならば何も失いたくない。だから最後まであがくのだ。この方法が通用する限りは。
「だからなぜ。当主の許しも得た。父上は俺に興味は無い。今さら何も言わないだろう。シトゥラの力を継ぐ娘で、ジョイアの
「会わないわ、絶対に。どれほどスピカが優れていようと、認めないから」
甘い声で誘われるけれどぴしゃりと撥ね付ける。それは甘くとも毒でしかないのだ。自分にとっても息子にとっても。シャウラ自身はずっと飲み続けて来た毒。だが、息子には絶対に飲ませられない。
「母上」
その呼ばれ方は昔から嫌いだった。だから余計に苛立った。
「母と呼ぶのを止めなさい」
そんなことを言う自分が
「母上」
なのにこの息子は敢えて呼ぶのだ。シャウラの胸の内を探ろうとしながら。そういうところがシャウラはずっと
「出て行きなさい」
頑な態度にも彼の表情は柔らかなままだ。
「スピカはラナではないんだ」
その茶色の瞳でシャウラを見透かすように見つめる。
息子が、スピカがラナの娘だから、恋敵の娘だから、と誤解していることを知っていたけれど、シャウラを蝕む秘密はそれではなかった。しかしどうしても答えられない。彼女にも決して手放したくないものはあったのだ。たとえ、それが偽りの愛だったとしても。
沈黙が流れる。やがてルティは夫とよく似た低く甘い声で宣言する。──己の意志は変えないと。
「……また来る。認めてもらうまで何度でも」
さっと身を翻す後ろ姿に向かって、シャウラは「待ちなさい」と引き止める。これでだめなら、もう他の手を打つしか無いかもしれない。
「アルゴルがメイサを欲しがってるわ。そのうち正式にシトゥラに申し込みが来ると思うの」
「……?」
唐突な話にも、ルティは〈その名〉に反応して足を止めた。扉に手をかけたまま、ゆっくりと振り向く。
「だれだって?」
「第一王子のアルゴルよ」
病がちなため、王位継承争いに加わらなかったが……有能さでは数居る王子の中で一番だと噂されていた。性格は温和で真面目。身分だけを考えればメイサの伴侶には申し分なく、もし正式な申し込みならば、おそらく相応な理由が無ければ断ることは出来ないだろう。メイサの嫁げない理由も、噂通りであれば──彼には通用しないのだから。
「……どういう風の吹き回しだ?」
「さあ。でも、髪の色を知っていたわ。どこかで見られたみたい。まさか浴場だとは思いたくないけれど……でも浴場なら欲しがる気持ちは分かるわよね」
部屋の空気に僅かに殺気が混じるのを感じて、シャウラはほっとする。
「どうする? ってあなたに聞くことでもないわね。あなたはまだ、メイサを正式に自分の女官として認めてないものね。なのに周りはなぜだかいろいろ勘違いしているみたいだけれど」
「…………」
顔色をうかがうけれど、彼は感情の色を表さなかった。シャウラは少しがっかりしながらも続ける。
「一応知らせておこうと思って。アルゴルだけじゃなくて、他にも縁談は来ているのよ。やっぱり目立つもの。本人に聞いたらほぼ毎日申し込みがあるみたいだし……、このままじゃ
シャウラは多少の嘘を混ぜて挑発した。アウストラリスの王だけにはルティは逆らえない。そのことはシャウラも重々承知だったから、メイサが目立ちすぎないようにと慎重にしていた。シャウラはその嘘を本当にさせる気は毛頭ないのだけれど、彼は真に受けたのか僅かに眉を寄せる。そのまま少し考え込んだけれど、結局「また来る」と言い残してそのまま外に出て行った。
シャウラは閉じられた扉をじっと見つめる。
(手応えは……あるのかしら)
もし駄目ならば、切り札を使っても駄目ならば──
その時のことを考えると、体が震える。冷たい水が足元から押し寄せるような、湖の底に引きずり込まれるような、そんな気分になる。
それでもシャウラは心に決めていた。最後に身を投げるのは、息子ではない。〈母親である〉自分だと。
(私はお母様の様にはならないわ、絶対に)