13.一番星の名 01


 一日後の夕方だった。ようやく目眩がとまり、世界が回らなくなったメイサは、屋敷の掃除をしていた。
 屋敷の様子を探ったところ、捕らえていた男が逃げ出したという話で、彼を捜す為に人手が足りないようで、門番も外に出るメイサを見逃した。
 ぼうっとして見咎められても面倒だったから、箒で外を掃くことにしたのだ。そうしていれば侍女としか見ないだろうと思った。
 玄関の前に広がるシトゥラの庭は白い砂の上に背の低い植物が多数植えられていたが、どれも肉厚の葉を持つ、乾燥に強いものばかりだった。ぷっくりと膨らんだ黄や赤の葉はまるで花が咲いているかの様で、美しかった。
 中庭以外の庭をはじめてじっくり見ることができて、新鮮な気分を楽しんでいると、なぜか慌てた様子で侍女がメイサを探しに来た。
「メイサ様! メイサ様ー!」
 散策があっという間に終わったものの、堪能していたメイサは手を挙げてにこりと微笑む。すると、彼女はこちらに気づいて飛び上がった。
「め、メイサ様!」
「夕方は風が冷たくて気持ちがいいわね」
「そ、そんな恰好で! 何をされていらっしゃるのです!」
 せっかくの挨拶も無視された。
 メイサは王宮で着ていた服のままだった。水浴びをさせてもらって絹の服を用意されたものの、見せる相手もいないし、その上目立つしと、なんだか今更着る気になれなかったのだ。持っていた洗い替えの女官服があったから、それを着た。だから、相変わらず地味なままだった。その上埃避けにと布を頭に被っていたから、彼女と分からなかったのだろう。侍女から見たら昔ここにいたときとはあまりに違うはずだった。
(変装すれば、これからもウロウロできるのかしら)
 メイサはそんな計画を立てていたが、侍女が口を開いた次の瞬間、それは全て吹き飛んでしまった。
「とにかくお戻りください──ルティリクス様がお呼びです」
「──え?」


 部屋に戻ると早速仕事を言い渡された。
 ──なぜか本当に目の前に現れたルティによって。
 彼の姿を見て、名を聞いた以上に驚愕したメイサだったけれど、さらに仕事内容を聞いて、卒倒しかけた。
「スピカの世話をしてもらう」
「……なんで」
 まずルティとスピカがなぜここにいるのか。そして、なぜメイサが彼女の世話をするのか。メイサが説明を求めると、ルティは面倒くさそうに言う。
「スピカが父上に目を付けられたから、ここまで隠しに来た。で、俺はやり残したことがあるから数日で王都に戻る必要がある。──今、彼女を一人に出来ないし、任せるには、お前が適任だと思った」
「適任?」
 呆れてものが言えないというのはこういうときに言うのかなどと思う。でも彼はメイサの気持ちなど知るはずも無いのだから、そこを除けば、はとこで、気が置けない関係に見えるのかもしれない。客観的に考えられないメイサは混乱するだけだった。
「出来ないのか? ようやくお前にもできそうな仕事を渡してやってるのに」
 そう言われてはっとする。「仕事?」
「ああ。出来ないのか?」
 彼はもう一度そう確認した。
「──出来るわ」
 昔誓った。彼に何かを頼まれたときは、全力で取り組もうと。ようやくその時がやって来たのに、逃すことは出来ない気がした。
「……殺すなよ?」
 そう言われて、胸の底の思いを汲まれたのかと思って飛び上がりそうになる。
「な、なんで」
「いや……母上が、そう言うから。お前がそんなことをする理由はないとは俺は思っているが」
「ああ」
 そうか──シャウラ様は知っていらしたのか。そんな風にようやく気づく。
 そして彼からの信頼の言葉に胸が痛くなった。
「それから……」
 ルティは不機嫌そうに口ごもる。
「なに?」
「スピカは…………身ごもっているらしい」
「え」
 思わず真っ青になるけれど、頭の隅でとっさに計算が働いた。妊娠が発覚するのは受胎後、大体二、三ヶ月後になる。彼がもしスピカに手を出していたとしても……スピカがやって来てまだひと月も経たない。となると、その腹の中の子は──
 メイサがおそるおそる目で問うと、
「シリウスの子だ」
 ルティは不愉快そうに言った。「ふつう、出来るか? まだ子を産んで一年経ってないぞ? アイツ何考えてるんだ、母体に負担がかかるのに──避妊しろよ」
 いつも皇子の話題となると不機嫌だったが、今日は不機嫌を通り越してあからさまに怒っている。そんなことを私に言われても、とメイサは戸惑うが、あの皇子を思い出して、なんだか変におかしくなる。ああいう手合いは、避妊の仕方も知らないのだ。きっと。というか普通は皇子ならする必要がないのだ。だって相手は愛する少女なのだから。子が出来るのはめでたいことでしかない。
(あなたが特殊なのよ)
 そう思うけれど、色々心得ているメイサはさすがに口には出さない。
「とにかく、アイツはそのせいで・・・・・今弱ってる。そして死にたがっている。絶対に──死なせるな」
「……」
 本当にそれ・・が理由? 問いたくなるけれど、彼は唇を噛み締め悔しそうに俯いている。どう突いても答えてくれそうにない。スピカ本人に聞いた方が早いと思った。
 ルティは扉に手をかけると、言い忘れたとばかりにメイサを振り向いた。
「あと──レグルスのことを聞かれても、何も言うな。子供のことも」
「レグルス?」
「地下で監禁してたが、逃げ出した」
 それを聞いて、逃げ出した男はレグルスなのだとメイサは知った。
「なんで教えたら駄目なの」
「……知ればアイツは無茶をする。レグルスは今、スピカの枷なんだ。前来た時を覚えてるだろう? 真冬のムフリッドに身一つで飛び出すようなヤツなんだ。あのときも死にかけた。今回もやりかねないし、今度やったら本当に死ぬ」
 ああ、そんなことがあったわねと思い出す。そして「今回もやりかねない?」、ぽろっと漏れたその言葉にすぐさま反応して、仮説を組み立てる。
「なに? ってことは……スピカは皇子様をまだ愛してる訳? じゃあ、あなたを受け入れるくらいなら死ぬとか言ってるんじゃないの? ──ああ、だからレグルスが枷として必要なんだ?」
「…………」ルティは微かに目を見開いて口を押さえた。図星だ。
 メイサは初めて正解を導き出せて幾分気分を良くした。しかも、その答は、メイサの胸を少し軽くするものだったから。──彼の気持ちは、まだ一方通行でしかない。
 ほっとしている自分を少々情けなく思いながらも、メイサは多少心に力を得て続ける。
「ああ、やっぱり拒まれたのね? ほら私が言った通りでしょう?」
 あの夜を知っているメイサには、彼女が皇子以外を愛するようになるとは思えなかった。二人の絆はまだ切れていない。皇子の代わりにその分身がスピカを守るなんて──まるで割り込むのは野暮だと言われているみたいだ。多分、彼もそう思っているのだ。
「だから無理矢理攫っても無駄だっていったじゃない」
「いや、攫ってない。アイツは自分で俺を選んでやって来た」
 その答を意外に思う。
「自分で? じゃあ、なんで拒むのよ」
「知るか」
 そう言ったものの、怒った顔が答えになっている。負け惜しみにしか聞こえない。やっぱりメイサが思った通り、スピカの心までは手に入れられなかったのだ。メイサは呆れつつ続けた。
「スピカが皇子様を愛しているのなら、子供のことを知ったほうが無茶をしないと思うけど」
 メイサはそう助言する。愛する男の子供が腹の中にいる状態ならば、メイサだったら全てを捨ててでもそれを守ろうとする。死ぬなんて気はきっと失せるに決まっている。自分にはそんな未来が無いと分かっているからだろうか、メイサにはふと降りて来た想像がひどく煌めいて見えた。
「とにかく、言うな。絶対面倒ごとになる」
 彼が悔しそうにしているのを見て、なるほどと思う。当然悔しいのだ。自分以外の子を孕んだ女に腹を立てているのだ。さっき自分が一瞬青くなったことを思い出せば、メイサにはその気持ちがよく分かった。さらに、彼女はその男にまだ情を残している。腹の子のことを知らせて、スピカが生きる気力を取り戻すということは、彼女の皇子への想いを認めなければならないということになる。──彼女の想い人は自分でないということを認めざるを得ないことになる。
 彼女は、子を捨てさせなければ手に入らない。だけど子を捨てれば、彼女は死ぬ。つまりは──八方ふさがりだ。
 メイサはそんな風に必死で頭を働かせた。
 でも──
(なんでかしら。前はあんなに平気そうだったのに)
 メイサは不思議だった。同じスピカの妊娠でも、前は嬉しそうなくらいだった。どうしてこんなに態度が違うのか。
 そうだ。さきほどの言葉もおかしい。『自分でルティを選んで』? スピカが皇子を愛しているのならば──そもそも──スピカはなぜアウストラリスへやって来たのか。誘拐ではないとルティは言った。それはそうだろう、皇太子妃を誘拐など、さすがに有り得ない。下手をすれば戦が始まる。しかしそんな話は聞かないし。ならば、どうして──?
 やはり何か重大なことを見逃している気がした。しかし、全ての答えが部屋の中にあることは明らかだ。
(スピカ。──まさか、こうやって会うことなど考えもしなかったのに)
 メイサは初めて対峙する恋敵への恐れを大きく吐き出すと、「呼んだら来い」と言って部屋に入るルティの背中を見守った。

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2010.10.13