13.一番星の名 02


 呼ばれはしなかったけれど、ひどく辛そうなうめき声が聞こえたため、メイサは思わず部屋に飛び込んだ。そして直後、扉のすぐ傍で固まった。
「──!」
 そこでは、ルティがかがみ込んでスピカに顔を寄せていた。
 しまった、と一瞬青ざめたけれど、すぐに頭を切り替える。彼の行動は吐きそうになっている女の子には相応しくないし、メイサは絶対に見たくない場面だった。むしろ今は進んで邪魔をしてやろうと思った。
「ルティ、止めときなさい、今は」
 声が裏返りそうになるのを必死で抑えながら駆け寄ると、彼は鬱陶しそうにメイサを睨む。
 スピカの顔が見えるところまでメイサが辿り着くと、彼は口を開いた。
「君の世話を任せることになった」
(ああ、スピカは〈お前〉じゃないのね)
 メイサの助言でも気にしているのか、妙にお行儀のいいルティに、黒い想いを抱えつつも「よろしくね」と友好的な挨拶を心がけた。相手はか弱い病人なのだ。弱っているのだ。虐めたら死んじゃうかもしれないのだ。自分にいい聞かせつつスピカを覗き込んだけれど、メイサは言い聞かせる必要がなかったことが分かる。
 薔薇色だった肌は、今は青白くくすんでいる。目の下は隈。もとは桃色のはずの唇は、今は紫色で乾いてひびが入っている。ものすごくやつれてしまっていて、本当に可哀想だった。今にも吹けば消えそうなくらいに儚い。
 それなのに彼女はメイサの挨拶に応えて律儀に起き上がろうとする。だけど途中で目眩がしたらしく、再びベッドに沈み込んだ。メイサは慌てる。
「貧血もあるようだから、無理しないで寝てた方がいいわ!」
 ルティはメイサの様子を少し観察して、任せても大丈夫だと安心したらしい。立ち上がるといそいそと部屋を出ようとする。新妻を前にまるで逃げるような態度だった。
「じゃあ、くれぐれも逃がすなよ」
 あと──間違っても死なせるな、と強調して、部屋を出て行く。

 二人だけで部屋に残されて、メイサは大きくため息をついた。
 さて、どうしよう。青い顔の少女はひどく気分が悪そうに大きく息を吐いている。悪阻となれば経験が無いので想像できないけれど、メイサも馬車に酔いやすいので、気持ちは少しだけ分かった。とりあえず額に浮いた汗が可哀想で、足元の桶から濡らした布をとって拭ってやる。
 少しだけ気持ち良さそうに表情が和らいで、メイサも安心する。そして、顔色を少しましにして楽になった彼女を見れば、とたんにメイサの胸は苦しくなった。
 目の前に横たわるのはやつれてはいるものの、それを差し引いてもやはり美しく愛らしい少女だった。ルティが愛するただ一人の少女。彼がジョイアの檻から攫って来た、麗しい姫──メイサの持っていないすべてを手に入れた女だった。
 メイサの頭の中を過去から現在までの様々なことが駆け抜ける。止めたかったけれど、それは無理だった。
 そして皇子の腕の中で幸せそうにしていたあの夜のことを思い出す。本当にあれだけ深い絆を捨てて、どうしてここまでやって来てしまったのか。
 あの皇子の腕の中から自ら抜け出し、この国にやって来て捕われている。夫も、ひとつに満たない子供も放り出して。ルティを愛してやって来たのならまだ分かるのに、そういう訳でもなく拒み続けている。彼女の行動の理由が全く分からなかった。
「あなた、また捕まっちゃったのね」
 色んな感情が押し寄せて泣きたくなりながら、それを必死で抑えて口を開く。相手は弱っている、出来るだけ労りたいと、理性が言い聞かせるものの、言葉は僅かに尖る。責めては駄目だと思っているのに、精一杯抑えても漏れ出てしまう。
「駄目じゃない、ちゃんとあの皇子様のところに居ないと。迷惑よ、はっきり言って」
 結局初めてかける言葉にしては厳しいものになってしまった。反省したものの、彼女がメイサの平和な日々を壊したことは事実。そしてあの皇子もスピカを失った。どれだけ彼は悲しんでいるだろう。
「きっと今頃泣いてるわよ、あの子」
 まなうらにはその像が浮かぶ。黒髪の幼い男の子が泣いている。迷子になって母親を捜す子供のように。
「シリウスは……泣かないわよ……」
 スピカはそう言って嘔吐いた。悪阻は相当なものらしい。胸を抑えて、苦しそうにする。
 その声は掠れていたけれど、相変わらず鈴のような音。その声で呼ばれた名は〈あのとき〉と変わらずひどく印象的に響いた。
「そう言えばシリウスっていう名だったわね、あの皇子様は。そして、あなたは彼の妃で、真名も知ってる、それから──……シトゥラの娘であるだけでなくって、いろいろ付加価値が多いのね。それじゃあ狙われても当然かしら」
 話題を探して何気なくそう言っていると、先ほど聞いた『王がスピカに目を付けた』という話が頭によぎった。それは、その付加価値のせい? それとも──ラナの娘だから?
 しかし〈真名〉──その言葉に彼女は過剰な反応を示したようだった。びっくりした顔をして起き上がろうとする。
「死んでも言わないわ!」
 メイサは怯える彼女を見て失敗したと思いながら、スピカの肩を抑えて寝台に押し付けた。どうも、どうあつかっていいか分からない。多分その外見のせいだ。見かけは可憐で優しげなのに、中身が結構過激、しかもおそらくかなりの頑固者。その差異に、全然違うタイプなのに──なぜかルティを思い浮かべる。外見と中身がひどく違うのだ。猫かぶりとでも言えばいいのか……いや、この子はわざとじゃないみたいだけれど。
「あぁもう。聞かないわよ。私には必要ないもの。無理はしないで。あなたに何かあれば、ルティに怒られちゃう」
「死ぬの? あたし……」
「今、無理すればね。──お水飲める? 薬も」
 水と薬──お腹の張りを抑えるらしい──を差し出すけれど、彼女は受け取らない。
「あたし死んだ方がいいのよ、きっと」
 スピカはルティが言うように『死にたがって』いた。だけど、理由は弱っているからではない。自分が嫌いで堪らない──スピカはそんな顔をしていた。その感情は、メイサにも覚えがある。何度このまま消えてしまえれば、そう思っただろう。
 そして、スピカは今、放っておけばそのまま朽ちて果てそうな様子だった。
(このまま死んでくれたら──)
 思わずそんな冷たい考えが沸き上がりメイサはぎくりとした。スピカがこのまま死ねば? そうすればルティを渡さずにすむ?
(──馬鹿だわ、私)
 その思考のあまりの愚かしさにと空しさに、メイサも自分が嫌いになりかけた。こういった感情は移るのかもしれない。自嘲して、頭を切り替える。
 それにしても、初対面の相手を真剣に止めるのも白々しい。こういうものは本心から思っていなければ伝わってしまうものだし……そう思っていたら、結局ぽろっと本音が出た。
「まぁ、止めはしないけど。でも今は止めといた方があなたのためかも」
「どうして」
「きっと後悔するわよ」
「後悔なんて、死んだあとにどうやってするの」
 確かにそうだ。強気の反論は重い空気を破る。メイサは面白いことを言う子だなとおかしくなる。
「父さんは? あなた何か知ってる?」
 メイサはぎくりとしつつ首を振る。「ん──……ごめんね、教えられない」
「ルティに口止めされてるから?」
「それもあるけれど、……別の意味でもね」
「別の意味って?」
 立て続けの問いと、真っ直ぐな瞳がメイサを追いつめた。その強く輝く緑色の瞳を見ているとなんだか誤摩化すのが難しく感じた。第一、メイサはなぜレグルスがここにいたのかもよく分からない。情報を持っていないから、下手なことは言えない気がした。
 それにしても──本人は弱っているはずなのに、どうしてこの子の瞳はこんなに強い光で輝くのだろう。
 苦し紛れにメイサは問いを問いで返す。
「さぁ。……どういう意味でしょう?」
 スピカの顔が一気に曇る。あっという間に心を閉ざすのが分かって、メイサは慌てた。塞がれては治るものも治らない。自分が彼女の体調を左右していることを思い出す。
「ああ、あまり深く考えないで。こっちも事態を把握できてないだけなのよ。あなたすぐ無茶するタイプみたいだから、みんな慎重になってるの。私もあなたの事よく知らないから……どう扱っていいか分からないのよね。ルティがとにかく何も知らせるなって言うから。納得いかなかったけれど……よくよく思い出すと確かにその方がいいかも」
「思い出すって?」
 メイサは過去に想いを馳せる。するとそれは不思議なくらい鮮やかな色で蘇った。
 地下の暗い部屋で、あの美しい皇子と二人。燃え盛る暖炉の焔。闇色の髪と瞳。思えばあれもメイサの転機だった。
「昔、ここから逃げ出したでしょう。冬だったのに無謀よね。あの皇子様がどれだけ心配したか」
 メイサはあの皇子が見せた男の表情を思い出す。今もきっと同じ顔をしているはずだった。
 スピカは、なぜメイサがその話を知っているのか本当に分からないようだった。
「皇子? 心配?」
(やだ、この子、あの皇子の話になると顔が変わる)
 その反応はまるでルティのようだった。彼の場合は不機嫌になるのだけれど、彼女の場合は顔が輝くのだ。そのあまりの分かりやすさに、メイサはほんの少しだけからかいたくなる。
 なにより彼女にとって皇子の話題は力の源のように思えた。
「いやね、なにも聞いていないの? 〈あのとき〉、私、隣の部屋にいたんだけど。それまで二人っきりで居たのに追い出されたも同然っていうか……あ、実際は出て行ったのはあの子だったけど」
「二人っきり?」
「そうよ、あれ? 言っちゃまずかった?」
(何? 言わなかったって事は、あの子、何かヤマシイ事でもあったのかしら……?)
 しどろもどろになっていた皇子を思い出しながら思わずぼそっと呟くと、それが聞こえたのか急に緑色の瞳がぎらりと輝いた。
(うわ……えっと)
 正直顔が恐い。可愛らしい顔にその苛烈な瞳は似合わないと思う。雰囲気ががらりと変わるのをまるで手品のようだとメイサは思った。
(でも、ちょっと……この子、おもしろいんですけど)
 あの皇子が犬なら、この子は猫かもしれない。少しだけ変則的な反応がどうも可愛すぎる。思わず虐めたくなるくらいに。皇子の相手をしたときのことを思い出さずにいられない。これは──この二人は、やっぱりお似合い過ぎるような気がする。
「〈あのとき〉って?」
 膨れた顔のままスピカは尋ね、そんな可愛らしい・・・・・顔をされると、メイサはやっぱり意地悪をしたい気分を抑えられなかった。
「あなたと皇子様が地下の部屋で仲良くしてたとき」
 さらりと言うと、スピカは一瞬きょとんと間の抜けた顔になる。そしてみるみるうちに頬が強ばり、愕然とした表情に変わった。その差異がまた堪らなかった。
「え、────えぇっ!?」
 叫び声に似た声をあげるスピカがあまりに面白くて、メイサは笑いながらあの夜のことを説明した。
「さすがに覗きはしなかったけれど、ぜんぶ聞いちゃったわよ。若いのに、いや、若いからかしら? 結構彼、情熱的だったわよね。あ、あの状況がよかったのかしら? 敵陣でっていう……」
 これはちょっとした逆襲だった。あの夜メイサが味わった気まずさを少しは分かって欲しい。……逆襲する相手を多少間違っている気はするけれど。
「…………」
 スピカはしなびた花のように力を失って寝台に潜り込むと、メイサに背を向けた。金色の髪からはみ出た耳が真っ赤でさらなる笑いを誘う。この子たちは、なんで二人して同じ反応をするワケ。
(だめ、この子、どうしても憎めない。──恋敵なのに)
「そうそう、そうやって寝てなさい」
(……そっか、この子はこうやって大人しくさせればいいのね。元気も出るみたいだし一石二鳥だわ)
 スピカを黙らせるには皇子との恥ずかしい話題──そんな風に頭の中に刻むメイサに、スピカは向こうを向いたまま尋ねた。
「あなた……誰? シリウスとはどういう……」
『あなたは──敵? 味方?』
 そんな声が聞こえた気がした。ふと見ると、彼女はこちらを見てメイサの様子を注意深く伺っていた。
「私は、メイサ。ルティの従姉で、あなたの再従姉はとこ。あなたの皇子様とは」
 どんな関係かしら? 一瞬の躊躇の後、ピッタリの言葉が見つかった。
「そうね、──戦友よ」
「戦友?」
「まあ、共通の敵を持ってたってところ」
「共通の敵って……ルティ?」
 即座に敵がルティと思うってところが、おかしかった。彼が逃げるように部屋を出た理由が突然ひらめいて吹き出しそうになる。つまり、まったく・・・・受け入れられていないのだ。彼としては初めての敗戦なのではないだろうか。スピカは、──なんというか、男を見る目に関しては、周りの女たちに比べてあっぱれな感じだった。
 彼が少々気の毒になって、メイサは首を振ってその話を打ち切る。今シトゥラの話をしても仕方が無い。
「とにかくあなたは今は眠る事。聞きたい事は元気になったら話してあげるわ。万が一何かあれば皇子様が泣くわよ?」
 そう言うとスピカは頬を僅かに膨らませて、ムッとした顔をした。
「何度も言うけれど……泣かないわ。シリウスは」
 どうしてそう思うのだろう。メイサにさえ彼がどれだけ苦しんでいるのか分かるというのに、一番近くにいた彼女が分からないという理由は一体なんだろう。
「頑固ねえ。私、あのときあなた達の会話も聞いたんだけど、あの皇子様があなたの事そんなに簡単に諦めるなんて思えないんだけど──『僕は、君以外と、こんなこと、したくない』でしょ? 今でも覚えてるんだけど、あれ。強烈すぎて。若いっていいわねえって思っちゃった。あ、言っておくけれど、私、そんなに歳じゃないわよ?」
 スピカの暗い表情が気になった。元気づける為にもわざと軽く言ったのに、どの言葉がまずかったのか、スピカは黙り込んでしまった。ややして小さな声が漏れた。
「簡単じゃないわ……あたし、彼を裏切ったんだもの」
「裏切る? あなたが?」
「……」
 スピカは打ち明けない。さっき初めて会ったばかりで、まだそこまで信頼を得ている訳ではないのだから当然かもしれない。もう少し時間をかけるしか無いような気がした。
 メイサは話を切り替える。ふと見ると彼女の具合が少し悪くなっているように思えた。せっかく少し気が紛れたところをどこか間違ってしまったらしい。この子はあの分かりやすい皇子よりもほんの少し難しい。
「まぁいいわ。とにかく──水だけでもいいから飲みなさい。唇がカサカサ。脱水起こしかけてる。死なせるわけにはいかないのよ」
 再び水を突き出すけれど、スピカは顔を背ける。
「だめ──」
「ルティに飲ませてもらう?」
 もちろんそんなことはメイサも嫌だったけれど、少し反応を見たくて言っただけだった。しかしスピカにとってはそれは『最悪』の部類に値したらしい。
 彼女は慌てて水の入ったカップを奪い取ると一気に煽った。
「わ!」
「────」
 直後、彼女が真っ青になったかと思うと、口を押さえて傍にあった紙袋を探った。でも間に合わず──シーツが一枚駄目になる。
 メイサは慌てた。水も飲めないというのはかなり深刻だった。
「ごめんなさい。意地張ってる訳じゃなかったのね。もう一度医師を呼びましょう」

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2010.10.17