13.一番星の名 03


 慌ててルティを呼びに行くと、彼は一階の廊下で老いた医師と話をしていた。
「産婆はまだ来れないそうです」
「急がせろ」
「しかし、ムフリッドには産婆は一人しかおりませんし」
「何とかしろ……──おい!」
 彼は駆け下りて来たメイサを目ざとく見つけて睨んで来るが、今は喧嘩をしている場合じゃない。メイサは思わず大きな声で呼びかける。
「ルティ!」
「なんで降りて来た。見てろって言っただろ、離れるなよ!」
「スピカが大変なの! 水を飲んだら吐いちゃって」
 駆け寄りながら話しかけると、ルティは顔色を僅かに変えた。
「また吐いたって?」
「ええ」
 老医師は隣で深刻そうな顔をしていた。彼はメイサも昔よく世話になった、ムフリッドの町医者だった。
「水も飲めないとなると……深刻です。なんとか飲んでいただかないと、体力は落ちるばかりです」
「あいつはワガママを言ってるだけなんだ。死にたがってるんだからな──そうはさせない。死のうとしたら、くくりつけてでも」
 さすがに頭に来る。あのスピカを見ていてそんな言葉がよく出て来ると呆れた。
「ちょっと、あなた何考えてるのよ! あなたが無理に連れて来るからこんなことになっているのでしょう? あの子、皇子様のところに居ればこんなに苦しまなかったに決まってるのに!」
「アイツは自分でシリウスから逃げて来たんだ」
「だから、どうして」
「教えない。自分で考えろ」
 けんもほろろといった様子でルティはそう言うと、ふいに目線を上げ、はっとした顔をする。メイサもつられて振り向いて、思わず胸が跳ねる。視線の先は、あの地下の部屋への入り口。よく見るとスピカがふらつきながら地下へ降りようとしているところだった。
「あ、あの子ったら!」
「だから見てろって言ったろ!」
 ルティは小さく叫ぶと気配を消し、壁に沿うようにしながらそっと彼女に近づく。メイサも忍び足でそれに続く。そして、ルティは跳ぶように一気に距離を詰めると後ろからその腰を抱きかかえた。
「え──ルティ?」
 スピカの体が驚きで跳ねる。
「油断も隙もないな。大人しくしてろ。本当に──死ぬぞ?」
 ルティは女の子に向けるには珍しく苛立った表情で、でもまだ抑えた声で言い聞かせる。スピカはそれを無視して彼の腕から逃れようともがきながらルティに懇願する。
「ねぇ……父さんは? おねがい、父さんの事教えて。──父さんに一目会わせて!」
「駄目だ」
「父さんだけがあたしの生きる望みなの。お願い!」
 悲痛な叫びがメイサを突き動かした。
「──逃げたわ。だから会えないのよ」
 見ているだけなのも我慢の限界だった。静かに割り込んだメイサに、ルティが凶悪な目を向ける。
「おい、言うな!」
「だって、可哀想過ぎるでしょう、この子。あなた情けってものが少しもないの? ──好きなの? 本当に?」
 その答は聞きたくないのに、思わず問うて、はっとするけれどもう遅い。
 ルティはその言葉に一瞬虚をつかれたような顔をしたけれど、すぐに自分を立て直して言い返した。スピカへの苛立ちも全て纏めた火だるまのような怒りをぶつけられる。
「──馬鹿野郎! 俺には俺の考えがある。スピカのことは俺がよく知ってる。こいつはな、守るものがあれば生きようとするんだ。レグルスを守らなくていいと知れば──」
 メイサも負けない。自分が間違っているとは思えなかった。どう考えても、今回はルティの失敗だと思ったのだ。皇子に負けを認めたくなくて、向きになっているせいで、こんなことになっているのに。まだ意地を張っているのは馬鹿だと言ってやりたかった。
「だから、変な意地は捨てて教えてあげればいいのよ。──悔しいのはよぉく分かるけれどね。そうすれば絶対に死のうなんて考えないんだから」
 喧嘩はひどくなるばかりのような気がして来た。そんな時だった。ルティがスピカの変調に素早く気が付き目を剥く。続けてメイサもスピカのしようとしていることに気が付いて真っ青になった。
(──な、何してるの!!??)
 メイサとルティが喧嘩をしている隙に、スピカは安心した顔で、──ひっそりと舌を噛もうとしていた。
「──スピカ!?」
(ああ! 間に合わない!)
 メイサが彼女の口に手を伸ばすより一瞬早く、ルティのその指が彼女のあの世への逃亡を阻んだ。
「ぐぅっ!」
 ごりっと骨を断つようなひどい音がしたけれど、ルティは指を彼女の口から抜かなかった。彼の指にスピカの小さな歯が食い込んで、既に血が滲み出ている。血の味に嘔吐きながらも、彼女は噛むのをやめようとしなかった。首を振って指を外すと、またもや舌を噛もうとする。そしてルティは顎を押さえつつも、またもや指で阻んだ。既に指も口も血に塗れ、壮絶な絵はどこか魔に取り入られたかのようで、メイサは青ざめて震えるだけ。
 このまま彼の指を食いちぎり、そのまま舌を噛み切るかのような過激さを前にして、メイサは自分の浅はかさを思い知る。
 今度もルティが正しかった。この子は過激過ぎる。予測不可能、とても手に負えない!
「スピカ! ──馬鹿! 死ぬな! お前は今、──妊娠してるんだ!」
 さすがのルティも切り札を出すしかない。しかし、スピカはその言葉にももう反応しない。この世に未練などないといった様子で、すでに舌を噛んで死ぬことしか考えていなかった。
「スピカ! おい! やめろ!」
 焦ったルティが叫ぶけれど、その灰色の目は既に何も映さない。
(──ああ、聞こえてないんだわ!)
 ルティの声を完全に拒んでいるのが分かった。だとしたら、ルティの声でなければ届くかもしれない、それか、もっと心に響く言葉があるかもしれない──必死だった。
 彼女の目を覗き込むと、メイサはルティの代わりにと大声で叫んだ。
「あかちゃんがいるの! あなたのお腹の中、今、赤ちゃんがいるのよ! あの皇子様・・・の子なの! お願い、死なないで! ──死なせないで!」
 直後、スピカが食いしばっていた歯を緩めるのが分かった。ルティが指を外すと、乾いた血まみれの唇が、「あ、かちゃん?」と小さく動く。そうして目を見開いて、僅かに光の戻った視線を彷徨わせて──手を必死で持ち上げようとする。
 メイサは涙ぐみながら頷くと、彼女の手を一瞬強く握り、彼女のお腹に添えさせる。しかし、そこでスピカはお腹を庇うように体を丸め、顔を苦痛に歪ませる。
「つっ────!」
「おい、医者!」
 ルティが叫び、医師が慌てて駆けつける。その間、抵抗をやめたスピカをルティがそっと持ち上げ、急いで元の部屋に運んだ。メイサはただ祈りながらすぐ後を追った。その間、スピカは青ざめた顔に今度は恐怖の表情を浮かべたまま、祈るようにお腹を押さえ続けていた。

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2010.10.23