14.昔見た夢 01


 それから一日スピカは眠り続けた。
 その間、ずっと夢を見ていたのか、うなされてばかりだった。
「──とりあげないで」
 聞こえて来た微かな声に耳を傾けると、彼女は泣いている。「お願い、とりあげないで、あたしからその子を取り上げないで──」
 悲痛な叫びにメイサは胸が痛くてしょうがなくなった。「大丈夫よ、心配しなくていいの」
 メイサはその度に慰める。それでもスピカは悲しそうに顔をしかめたまま、涙し続けた。
 お腹の子供のことで気が病んでいるのだとは思ったけれど、何かが違うような気もして、メイサはずっとそのことが気になって仕方がなかった。一体、ジョイアでスピカに何があったというのだろう。裏切った、と彼女は言っていたけれど、皇子を裏切るとなると──まさか浮気だろうか? このスピカが? いつ、どこで?

 その日の夕方、様子を見に来た天敵ルティの声に反応したのだろうか、スピカはようやく目を覚ました。
 目を開けるなり、スピカは恐れ戦いた顔でメイサに尋ねて来た。
「──あかちゃん、赤ちゃんは!?」
 顔色はまだ青く、頬には涙の後が残っている。数日食べていないため、柔らかいはずの頬の線はさらに鋭くなってしまっていた。痛々しさはどんどん増してくるような気がした。
 本能なのだろうか、気の立った野良猫の様に周囲のものを無差別に引っ掻きそうなそんな様子だ。
「興奮しないで──大丈夫、大分落ち着いたみたいだって」
「──どうして。何で教えてくれなかったの」
 スピカがルティを睨み、震える声で訴えると、彼はふいと目を逸らし、メイサに目配せをし、そのまま部屋を出て行く。さすがに自分の存在が刺激が強いことは分かっているようだった。
 メイサはほっと息をつくと、スピカの頭の下の汚れた枕をそっと引き抜いて、新しい枕を入れる。もう彼女が吐きすぎて替えがないのだ。寝ながらでも吐くから本当に手に負えない。彼女が喉を詰まらせて死んだら困るからと、交代で見張っていた。おかげでメイサも寝不足だ。
 メイサはルティの代わりにスピカの質問に答える。彼の本音はこうだろう。
「悔しいからに決まってるでしょ。あなたたちの結婚話が余計にこじれちゃうんだから」
「でも……」
 彼女は恐怖のせいか震えて体を抱きしめる。ルティのあまりの信用のなさにメイサは呆れてため息をつく。何をしたらこれほど嫌われるのか。メイサはルティの悪いところを良く知っているけれど、これほど恐れられるような存在ではないとは思うのだ。
「あなたもねぇ、ルティを相当に誤解してるわよね。……まあ誤解されるようにしてる彼が悪いんだけど」
「誤解なんかしてないわ。あいつは欲しいもののためなら何だってするの。ひどい男、最低な──」
「──ちょっと」
 思わず言葉を遮る。さすがに聞き捨てならなかった。『最低』その言葉はルティを良く知っているメイサしか使ってはいけない。
「分かったようなこと言っちゃって。──あなたにルティの何が分かるっていうの!」
 思わず荒げた声に、スピカはぎょっと目を剥く。
「え? メイサ……あなた……信じられない──ルティのこと……好きなの?」
(信じられない……ですって?)
 メイサのこめかみが脈打った。ここまで言い切ってしまう女は今までいなかった。だって、あのルティなのだ。どんな女も一度目にすれば惹かれずにいられない男なのだ。メイサは珍獣でも見るような目で、スピカを観察し、その原因に思い当たって頭を抱えたくなる。
(ああ、もう──どれだけ皇子様しか目に入っていないのよ!)
「そりゃ『あなたの皇子様』も素敵でしょうけど、人の好みなんてそれぞれじゃない!」
 スピカはまだきょとんとしていて、それがメイサの癇に障る。これは、あの皇子以上にいい男がいるとは思っていない顔だ。ルティがまるで害虫のように扱われている気がして来て、急激にメイサは腹が立って来た。褒められてのろけられても嫌だけれど、こき下ろされるのも随分嫌だった。乙女心は複雑だ。
「大体ね。私からするとあの皇子様もずいぶんひどい男だと思うけど。昔、あなたのこと忘れちゃったでしょ? 力のせいって考えても、あんまりよね。それに今だって、妻の危機なのに、何をちんたらしてるのか助けにも来ないし。子まで作っておいて何よ。しかも二人目ですって? 自分の子を孕んだ妻を放り出すなんて、責任感のかけらも無いじゃない。これで父親なんて、十年早いわ! 子供を作る前にもっとする事があるでしょうに」
 怒りに任せて一気に本音を晒して、直後、しまったと思った。
「なんですって」
 スピカの目がまた過激な色をたたえ出していた。こうなると、何が起こるか分からなくてメイサは慌てた。なんとなく刺されてもおかしくない気がして来る。そして反省する。今のは自分が大人げなかったと。
「あぁ、もう興奮しないで! ……ごめんね。挑発するつもりはなかったの。ただ、やっぱり好きな男の事を悪く言われるとあなただって嫌でしょう」
 スピカはようやくそこで目の色を和らげ、メイサはほっとする。それでもスピカはルティの魅力について納得した訳ではないようだった。
「ルティは……だって……簡単に人を殺めるような人よ?」
 メイサは大きくため息をつく。やっぱり誤解されている。だから子も殺されると恐れているのだろうか。
「王子だから、当然そういう決断を下す事もあるわよ。でも『簡単に』っていうのは違う。誤解もいいとこよ。──大体ね、そう言うからには、あなた、彼が人を殺しているのを見たの?」
 いざとなれば、彼はそういう決断を下すだろう。だけどこの間言っていたように、彼はもう命を軽くは見ていない。少なくともメイサは、彼が誰かを殺したところを見たことも聞いたこともなかった。命令しているところも。それどころか、自分に刃を向けた罪人を今度の恩赦で密かに許そうとしていることさえ耳にしている。
「……それは見ていないけれど。……でも命令してたもの」
 スピカは僅かに動揺していた。
「なんて?」
「あたしを運んでくれてた行商人の人がルティの配下の兵士に──」
「殺されたって?」
 スピカは少し考えて首を振った。やっぱり。
 今までのことを考えると、メイサには彼の手口はよく分かるような気がした。いくつも同時進行で物事を進める上に、誰にも行動を説明しないから──一面だけを見られて誤解されやすいのだ。
(そうよ)
 実際メイサも何度も彼の表面だけを見て誤解した。
「で、でも、そうよ、父さんにも酷い事して」
「あの後ちゃんと手当てしておいたわよ。見た目はボロボロだったけど、傷はそんなに酷いものじゃなかったし。鎖もつけずに楽にさせておいたし……結構な扱いをさせてもらったわよ? 逃げてしまうくらいにね」
「──ルティは父さんを大事にしてくれてたの?」
 メイサは頷く。
 その後、侍従たちに問いただしたら、そういう答だった。監禁などとルティ本人は言っていたが、軟禁だ。食事もきちんと与えて、傷の手当もして。シトゥラとは思えないほどの〈お客様〉への待遇だった。スピカが悲しむから、そうしたのだとすぐに分かった。そうして、それを言わないのは、ひょっとしたら慣れないことをしたための照れなのかもしれない。そう思ってしまうのは、欲目が混じっているかもしれないけれど。
「彼は変わったのよ。あなたの言葉でね。ちゃんと手段を選ぶようになったの。恰好つけだから言わないけれど」
「変わった? あたしの言葉で?」
 スピカは訝しんでいる。
(それも伝えてないの?)
 メイサはさすがに呆れる。恰好付けて、肝心なことを伝えようとしないから、そうやっていつまでも理解されないのだ。言えばいいのに、愛しているんだって。理解されるまで何度でも。
「一年前、何か言ってくれたんでしょう? あれ以降ルティは変わったわ。シトゥラとはやり方を変えて、継承権争いでも一滴の血も流さなかった」
 ようやくスピカはルティへの見方を変えようとしているようだった。メイサは自分が何をしているのか分からない。不思議な気分だった。スピカがルティを好きになったら──全てが終わるのに。
 そう思いながらも、メイサは何となく理解し始めていた。ルティがこの子のどこに惹かれたのか。メイサが憎めなくなるような子なのだ。純粋で真っ直ぐ。愛されて育った者特有の輝き。メイサやルティが持たないそのキラキラしたものが眩しくて──欲しくてしょうがないのだ。
「あなたの事だって、そう。どうしても欲しかったから策は随分練ったみたいだけど──。結局あなたはあなたの意志であの皇子様の元を離れたのでしょう? それは本当にルティのせいだったの?」
「でも……」
 スピカは髪をいじりながら口ごもった。それを見てメイサは思い出す。そういえば、彼女の産んだ子は髪が赤いとルティは言っていた。
(もしかしたら、それが理由なの? だとしたらなんて下らないの。子が祖母に似るなんていくらでもある話なのに……)
 メイサはジョイアの事情なんか分からない。ラナがいない今、実際は大変なのかもしれない。でも、そんな些細な理由はこの二人を引き裂くには全然納得いかなかった。何より、今彼女が皇子の子を身ごもっていることがそれを証明している。やっぱりあの皇子が彼女を手放すとは思えない。
「最初の子供の事? あなたの皇子様は髪が赤くてもいいって言ってくれたんでしょう? なんとかしてくれるって言ったのでしょう? それを信じなかったのは一体誰? 所詮そのくらいの気持ちだったって事じゃない。付け入る隙を与える方が悪いわ」
 厳しいことを言っていると思った。でも、皇子がそう言ったのが目に見えるようだったから、言わずにいられなかった。
(この二人は離れるべきでないのに。誰の目にも明らかなのに)
 スピカは全てを捨てて、──そしてそれを誰かのせいにしようとしている。ルティのせいにしようとしている。確かにルティのせいでもあるかもしれないけれど、彼のしたことは本当にささやかなことだったはずなのだ。二人がお互いを信じていれば、スピカが皇子を信じていれば──こんな風に皆が悲しむような事態にはならなかったはずなのだ。
 いくら手の中に引き止めても逃げていってしまう少女にあの皇子は今どんな想いを抱えているのか。いつも追いかける立場の彼は、やはり戦友なのかもしれない。同じ立場のメイサが贔屓してしまってもしょうがない。
 メイサはいつしか目の前のスピカにルティを重ねてしまっていた。どうして、どうして、私の気持ちを、皇子の気持ちを分かってくれないの。
 ぽろぽろと涙を流すスピカの手にメイサは自分の手を重ねた。スピカはすがるようにメイサを見つめる。その目を見て気が付いた。この子は慰めてあげるだけでは、足りない。誰かに──本当は皇子に、こんな風に叱って欲しかったのだと。スピカの目にもメイサと皇子がどこか重なっていたのかもしれない。
 メイサは幾分優しさを取り戻して、労った。もう責めることはしなかった。
「子供がもし居なくなってしまったら……あなた、またさっきみたいに死のうとするのでしょう? あなたを死なせたくないから、あなたが大事だから、恋敵の男の子供でも大事にしようとしている。それってあの皇子様と似ていないかしら? ──愛し方が分からないだけで、愛そうとしていない訳ではないの。愛された事のない人間は、どうやって愛していいかなんて分からないのよ」
 そう言いながらメイサは自分のことを振り返る。
(愛し方が分からないのは私も同じ、ね)
 何も出来ず、ただ見守るだけの自分をメイサは悔しく思った。
 メイサの言葉が終わる頃、スピカは涙を振り切って真剣な表情を浮かべていた。まるで祈るような仕草でメイサに訴える。
「彼には──あなたが居る。あなたがルティを──」
 スピカのその口が信じられないことを言おうとしていた。誰も今までメイサに求めたりしなかったことをこの子は言おうとしている。
 ルティにはあなたが相応しい──スピカの口は開いていないのに、そんな声が聞こえたと思った。メイサは驚いて、スピカの言葉を遮る。
「昔はね、そんな夢も見たわ。だからあなたに嫉妬もした。……でも結局私たちは従姉弟なのよ──しかも、私は産まれて来てはいけなかったの。ただでさえシトゥラは血縁で婚姻を繰り返してるのに──私と彼じゃ血が近過ぎるの。どうしようもないのよ」
 心を殺したまま、自分にもう一度言い聞かせるように淡々と説明した。スピカはメイサとルティの間に横たわる溝や、シトゥラ家のしがらみを深くは知らないからこんなことを言えるのだろう。あまりにも甘い言葉に、メイサは揺れずにいられなかった。
「あたしにだって、血の繋がりはあるわ」
 しかしスピカは諦めるつもりのない顔をしていた。
(その顔は、やめて。あなたが、全てをもっているあなたが、私に希望を持たせないで)
 これ以上この話を続ければ、メイサはスピカを嫌いになりそうだった。
「あなたには新しいジョイアの血──レグルスの血が流れている。そしてルティには陛下の。母親が従姉くらいなら問題ない──でも私は……」
 痛みを耐えきれずにとうとうメイサは話題を打ち切った。
「おしゃべりが過ぎたわね。──何か食べられそう? とにかく今はお腹の子供のためにも元気になってもらわないと」

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2010.10.28