あれから、スピカはメイサの顔を見る度に、何か言いたげな目を向けて来る。
そして、いくらルティがあなたを好きなのだと訴えても、聞き入れてくれない。それはあなたの役目だと目で訴えて来る。いままで考えもしなかったことを訴えられて、メイサはひどく動揺していた。
だから以来、部屋に入るときには、必ず自分に言い聞かせている。
『お前は結婚できない』カーラの言葉を思い出して、わざと自分の心に鍵をかけるのだ。
(そう、私は恋をして幸せになることは叶わない)
スピカの部屋に向かう途中だった。彼女の目を思い出して足を止めると、後ろから突然「おい」と声がかかる。
必死で自分の心を戒めていたところだったから、メイサはその低く甘い声に思わず飛び上がった。
「何をしているんだ?」
階段を上り切った廊下の端にルティが立っていた。彼は不審そうに、扉の前で固まっているメイサを見ると近づいてくる。メイサは慌てて誤摩化す。
「な、なんでもないの、ちょっとぼうっとしてただけで……」
「その部屋は立ち入り禁止だ」
「え?」
メイサがふと部屋の扉を見ると、扉には厳つい錠前が取り付けられている。それを見て思い出す。──ああ、この部屋は……ラナの部屋だ。
以前スピカを攫った時は当たり前のようにここに詰め込んだのに、今回はなぜか使用しないらしい。昔逃げ出されたせいだろうか? でもそれならばどの部屋でも同じなのに。
「立ち入り禁止? どうして?」
ルティは答えずにメイサの一歩先へ進み、冷たい目で睨んで部屋から離れろと促した。そして切り捨てるように一言。「スピカの調子は?」
メイサは答えが気になったけれど、彼が答えてくれるわけは無い。あとで調べてみようかと思いつつ、彼の後を追いかけた。
「冷たいものなら食べられるって言うから、氷を用意してもらったの、いいのよね?」
そう答えながらメイサは手に持った器に視線を落とした。器の中には氷とそれに埋められた果物と牛の乳入りのグラスがあった。氷は当然贅沢品だ。夏の今、冬に蓄えておいた氷がシトゥラ家の氷室には眠っているが、特別な時にしか使わない。だけど、『なんでも用意してやれ』という彼の指示に従った。
「もちろん」
ルティは当たり前のように頷いた。
ふと見ると、彼は出かけるのか、旅装を整えている。砂漠越えの恰好。嫌な予感がした。
「どこか、出かけるの?」
「ああ、王都に戻る。母上を説得して来る。父上がスピカを側室を迎えるよりはいいに決まっているから、今度こそ認めてもらえるだろう。スピカが身ごもっているのは……逆に都合が良かったかもしれない。子が居ればさすがに父上も手を出さないだろう?」
そう一息で言うと、ルティは満足げな表情を浮かべた。
(都合がいい? 恋敵の男の子を身ごもった恋人が?)
メイサはどうしても複雑な気分になる。先日あんなに取り乱していたのが嘘のようだ。そんなに簡単に気持ちが切り替えられるのが信じられない。それに、子供は確実にスピカの中で育っている。無かったことにしないつもりなら──もちろんメイサは無かったことになどさせないけれど──他の対策が必要になるはずだ。
「で、でも、子供はあなたに似ないでしょう?」
「そうか?」
逆に問われて、メイサは思い出した。そうか、確率は半分。男の子だったら確実に彼に似るのだ。それならば問題が無い。そのまま息子としてしまえばいいと思っているのか。
「じゃあ女の子だったら? 黒髪かもよ? どうやって誤摩化すの?」
「黒髪か……ま、どうとでもなる。策は考えておくが。おい……溶けてるぞ、それ」
言われてメイサは氷が水になりかけているのに気が付き、慌ててスピカの部屋に飛び込んだ。
部屋に入ると、寝台にはスピカがぐったりした様子で横になっている。金色の髪は寝乱れてしまっていた。そうなるとやわらかそうな耳たぶに付いている黒い点がどうしても目につく。
「それ、似合ってないわよね。……あの皇子さまの?」
黒い艶のある石で造られた耳飾り。その色はあからさまにあの皇子の色だった。指摘するとスピカは慌てて耳たぶを押さえて叫ぶ。
「──ルティには言わないで!」
相変わらずな拒絶反応に呆れて、思わずメイサはため息をついた。
「さすがにもう気づいてるんじゃない? それ、すごく目立つし、彼、目ざといし。──ふぅん」
「何?」
「いや、知ってて取り上げない辺り、ルティらしいわねって」
「ルティらしい?」
スピカはきょとんとし、メイサは苦笑いする。スピカから見れば、彼の優しさなど無いに等しいのだろう。だから実際に優しくされても先入観が邪魔をしてそうされたと気が付かない。とにかく、どうしてここまで嫌えるのかがメイサには分からない。彼が普段通りに振る舞えば、惚れはしても、嫌われることは無いはずなのに。「彼は優しいでしょう? 特に女の子なら誰にでも。ジョイアでもすごかったはず。帰って来てからも来るもの拒まずで、しかも優しいからみんな勘違いしちゃって……。だから周りが勝手に揉めて大変なのよ。殺生沙汰まであったくらいで」
スピカは不思議そうにメイサを見つめている。スピカはメイサと逆で、どうして女たちがルティを好きなのかが分からないようだった。どうも偏見に筋金が入っている。メイサは少しずつ誤解を解きにかかる。
「皆、最初は気が付かないのよ。彼が想うのは自分だけだと信じてるのね。そのくらいに情熱的じゃない? ──だけどある時ふと気が付く。彼にとって自分が特別では無い事に。だから、一番になりたくて必死になる」
それはメイサも含めてのことだった。メイサは皆と並ぶことも出来なかったのだけれど、もし競える立場にあるのならば、同じように必死になっただろうと思った。
「去年もね、あなたを手に入れようってルティが画策してるのを知って、どれだけたくさんの人間がジョイアに潜り込もうとした事か。あなたを手に入れれば、目をかけてもらえるとみんな張り切っちゃって。結局はまだジョイアにも彼が昔作った味方がいたから、一人だけしか潜り込ませなかったけれど……」
「一人だけって──エリダヌスのこと?」
そんな名だったかなと思いつつも、メイサは頷く。
「ルティの取り巻きの一人だったわ。上手くやれば王妃の座を得られるかもって張り切っていたわね。良くも悪くも野心が過ぎたのよ、きっと。──死んじゃうなんてね」
「え? そういう風にミネラウバに指示をしたんじゃないの?」
スピカはひどく意外そうな声を上げる。
それを聞いて、こんなところにも誤解があるとメイサはげんなりした。
ルティはどれだけの誤解を振りまいて、放置しているのだろう。それはスピカに対してだけではないのだけれど、これでは嫌われても仕方が無いのではないかと思った。
「まさか。こちらが指示したのは『皇子とあなたの間に亀裂を入れること』。ただそれだけ。皇子はあなたを手放さないように見えたし、あなたが皇子を見限ればそれでよかった。『スピカは、口では殊勝な事言ってても、浮気は絶対許さない。確実に根に持つ』ってルティが言うもんだから。皇子さまの趣味はよく分からないから、スピカが妬きそうな女を送ろうって。だから
少し嫌みかなと思いつつ、そう言うと、スピカは顔を強ばらせて言葉に詰まる。どうやらルティの作戦は見事成功していたらしい。
やれやれと思いつつメイサは続ける。
「彼女がやった事を聞いて、まただわって思ったわ。その子にとって、エリダヌスは邪魔だったのよ、きっと。恋敵だもの。功を競ったのかもしれない。彼女を殺してあなたを手に入れれば、ルティが手に入ると夢を見たのかもしれない」
メイサにはやはりその想像は容易かった。
「ルティには女の子を駒にするのは止めなさいって散々忠告はしてるんだけど、……恋が絡むと女は過激だから。彼にはその辺理解できないみたい。でもね、あなたが手に入れば、もうそんな争いも無くなる。あなたは誰がどう見ても『特別』なんだもの」
メイサがそう結ぶと、
「……そうかしら」
スピカは首を傾げた。そして窺うようにメイサを見つめる。
(ああ、この子、やっぱりルティと私がお似合いだなんて思ってるんだ……)
メイサはひやりとして急いで心に鍵をかけ、分かりやすい視線から目を逸らした。スピカにとってはルティはただの邪魔者らしいし、誰か他の女が引き取ってくれたら、都合がいい。だけど、それをメイサに求めるのは無理だと思う。スピカの代わりなど、誰も無理だ。この少女はどれだけ自分が特別かを全く分かっていなかった。
メイサが取り合わないと知ると、スピカは諦めて視線を下に下ろす。そして、お腹を撫でると物思いに耽る。
「ルティは……この子をどうする気なのかしら」
もう存在を感じることができるのだろうか。全く膨らみのないお腹を見て、メイサはさっきつらつらと考えたことを口にする。
スピカを守りながら、子も守る方法。産まれた子はどんな姿をしているだろう。
「もし男の子だったら、そのまま息子として公表するでしょうね。でも──女の子で皇子さまに似ちゃったら、可哀想ね。王女としては公表できないわ。もし力を持っていたら、お祖母さま辺りが欲しがるだろうし」
「──男の子なら?」
スピカは不思議そうに問い、
「だって髪が赤いでしょう?」
メイサは当たり前のように答えた。
「?」
スピカが納得いかないような顔をしているのが気になって口を開こうとしたとき、扉が開きルティが顔を出す。とたん、スピカは口をつぐみ視線をぎらりと尖らせる。メイサとのおしゃべりで和んだ雰囲気は一瞬で険悪なものに変わった。
「今から
ルティはメイサに冷たく指示をすると、直後人が変わったかの様にスピカに優しい声をかけた。
「随分顔色も良くなって来たな。なるべく食えよ。何でも用意してやるから」
「……」
スピカは彼に答える事も無く、表情も無いまま俯いていた。
ルティはスピカのそんな態度にも、腹を立てること無く、仕方なさそうに息をつくと部屋を出て行く。
(私が相手だったら、喧嘩になるわ、これ。ああ、でも──)
彼がスピカのどんな我が儘も許そうとする様子が、一瞬何かに重なった気がして、メイサは考え込む。しかし、
「なんで戻るのかしら……」
ルティがいなくなると同時に開くスピカの口にそれは遮られる。
「意地張らずに、本人に聞けば良いのに」
そう呆れつつも、これは彼女なりのメイサへの甘えなのだろうと許す。本当に猫のよう。慣れれば急にすり寄って来る。
それを可愛いと思いつつ、彼がエラセドに行く理由を言うのは……やはり少し勇気がいった。
「──あなたたちの結婚の、最後の壁を取り除きに行くのよ」