2.攫われた少女 02
 突如、メイサを頭痛が襲った。その記憶を持ち出そうとするといつもそうだ。メイサはこめかみを揉むと、別のことを考えようと大きく深呼吸をする。
(感傷的になっているのかしら)
 半年前ルティがジョイアから一時帰国したときから、たまに思い出していた。あのひどい思い出は、彼の今の姿と重なり、少し色を変えたかに思えた。
 しかし、彼が再びジョイアに戻ってからは、しばらくは思い出さなかったというのに……やはり、あの報告が頭の隅に残っていたのだと思う。
「スピカがジョイアの皇子、つまり〈闇の皇子〉の事実上の妃となった――か」
 早馬が運んできた知らせ――それはつまり作戦の成功を告げる報告。〈スピカ〉が〈儀式〉を済ませたとのことに他ならない。
 もともと〈闇〉の家の力とシトゥラの娘の力は互いを補い合う。彼の家の者だけが、シトゥラの娘の力をその身に一度に受け止めることが出来る。それは昔からシトゥラに伝わる秘中の書に書かれていた。
 当の〈闇〉の家にもそのことは知らされていない。――というよりは知らしめなかった。その昔、彼ら闇の家が娘をよこさず、逆にシトゥラの娘を欲し、交換を申し出た時、彼らとの交渉をシトゥラは断った。そしてシトゥラの娘への興味を持ち続ける闇の家のものを一掃した。まだものを知らぬ子供を残して、全て。シトゥラの娘の力を国外へ知られること――それは国家機密の漏洩に繋がったからだ。
 そしてその隠蔽工作はその頃発生した戦でうやむやになった。そのため、闇の家はシトゥラとの関係を知らず今に至る。
 その秘密は徐々に漏れつつある。ジョイアに逃亡した〈ラナ〉のせいで。彼女が産んだ〈スピカ〉のせいで。ラナはその力を公にはしていないようだったけれど、その娘である〈スピカ〉は隠そうとはしていないらしい。そして、〈ラナ〉が死んだ今、それを止める人間も居ない。広く伝わる前に早急になんとかする必要があった。もしスピカの力が小さければ――シトゥラは悩む必要は無く、あっさりと彼女を闇に葬れば良かったのだけれど、その力の強大さを知った後、その道はあっさりと切り捨てられた。
 ルティの役割は、シトゥラとの細い絆をスピカに密やかに知らしめ、そして制御不能の〈力〉の制御方法を教えること。そうして〈力〉を御した〈スピカ〉を手に入れることだった。

 シトゥラの娘の〈力〉を御するためには、儀式が必要だった。メイサも当然受けた儀式は〈スピカ〉には使えないと分かっていた。それは〈スピカ〉の持つ力が強力すぎたから。〈ラナ〉の儀式のときにはどれだけたくさんの人間が犠牲になったか分からない。一時期ムフリッドでは怪事件として調査が入ったくらいだった。〈スピカ〉はそのラナ以上の力を持つというのだ。権力を失いつつあるシトゥラが〈スピカ〉を使うためには、昔のように〈闇〉の家の者を利用するしか手を持たなかった。
 その〈儀式〉とは――男と肌を重ねること。もちろん女でも良い。誰でも良いから、肌を重ね、身のうちの力を計る。その力は、〈触れ合うことによって心を読む〉力だった。
 感覚としては、自分のうちに産まれた熱を分け合うような感覚に近かった。それが相手の体に染み込むと同時に、相手の感覚を共有できる。そんな感じだ。
 メイサが持つ熱は小さく、相手の心を開かせるまでは無い。しかし、ラナやスピカの持つ熱は、相手の心を開き切り、まるでその人物に成り代われるくらいの感覚となるそうだった。それはカーラが言うのだからほぼ間違いないのだろう。カーラも一番力を持っていた時は、ラナたちほどではないけれども、そういう感覚を味わった事があるそうだった。
 ただ、問題なのは、その際に熱の渡し方を間違うと、記憶自体を消してしまうことだった。だからこそ、その渡し方を覚えるための儀式を行う。それは通常一族の男と行った。一族の男は記憶をなくさないことが分かっていたからだ。当初、スピカも攫ってきた後にその儀式を受けさせるはずだった。
 しかし――〈ラナ〉の例がシトゥラを苦しめた。〈ラナ〉の儀式にはシトゥラの男を分家を含めてすべてを集めてみてみても足りず、普通の人間を攫ってきてなんとかやり通したけれど、終わったときには丸一月の月日が経っていた。その際、記憶をなくした人間が一度に大量に出たことで、怪事件――ちょっとした事件にもなった。
 〈スピカ〉がそれ以上の力を持っていることを考えると……シトゥラのみで儀式を行うことは実質不可能に思えた。ラナのとき――二十年前よりシトゥラは没落して、もう一族の男はほとんど居ないのだから。
 そこで出てくるのが――

「闇の皇子、か」

 メイサは秘中の書を手に取るとパラパラとめくった。盗み出したあと、何度も読み返したその本は随分と古ぼけてしまった。
 ――闇の家と縁を切ってから百年ほど。その家が存続している可能性が明らかになったのはジョイアの妃としてある娘が嫁いだからだった。彼女が持つ特徴的な闇の色をした髪と瞳の話はひそかにシトゥラへと伝わり、シトゥラは彼の家の動向を探っていた。闇の家のものであれば、きっとその力――人の心を魅了する力を利用して成り上がったのだろうと、皆考えていた。
 しかし、妃の妹も、母も、その力を感じさせなかった。一族に遺伝するはずの力だから、当然血の繋がりのある彼女たちは力を持つだろうと思っていたのだ。そのため、違うのかとがっかりしていたのだけれど、結果を言うとそれは早とちりだった。彼らは力を御する方法を見つけただけだった。
 それが分かったのは、幼い闇の皇子に〈闇の力〉がかいま見れたから。幼い子供には無理だが、彼らはこの百年で、どうやら力の制御方法を習得したようだった。アウストラリスで作られる〈鏡〉によって。
 皇子が闇の力を御する前に、スピカを抱かせる・・・・ことで、光の力を御する。それが、ルティの作戦の大筋だった。


 〈スピカ〉は今頃、幸せな夢を見ているのだろうか。ジョイアの皇太子の腕に抱かれて、その記憶を奪っていることも知らずに。
 ルティはどうも、彼女を大事に思っているらしい。無理な儀式をして彼女を〈ラナ〉のように壊したくはないのだろう。それはシトゥラの将来のためだとメイサは信じたかった。そう思わないと、胸が痛くて仕方が無かった。
 メイサは儀式を受けるとき、そのように気遣ってもらえなかったから。それどころか――
(私は、どうせ)
 ルティの冷たい表情が浮かび、卑屈になってしまうのを止められない。〈スピカ〉が羨ましくてたまらない。メイサが持っていない〈自由〉も〈力〉も、ジョイアの皇太子の寵愛も――その上ルティの心まで手に入れていると思うと……
 メイサは手の中の薬瓶を燭台の火にかざす。
(これ、作ったときはしばらく部屋の中がすごい臭いで……大変だったのよね)
 歪んだ笑みが瓶に映る。茶色の硝子瓶の中で揺れるその液体は、メイサの憎しみの色をそのまま表しているかに思えた。

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2010.04.24