その日は風が凪いでいた。砂埃は地に落ち、空は澄み切っている。風の強いムフリッドにしては珍しかった。
冬の真夜中の空気は刺すほどに冷たく、窓は凍って触れれば張り付くほど。メイサは廊下に出て窓の外を眺める。家はようやく寝静まったというところ。廊下の火は全て落ち、階下の厨房に僅かな明かりが照らされているだけ。
メイサが自由に動き回れるのはカーラが眠っている深夜だけだ。彼女が起きている間は、メイサはずっと監視されているような気がした。
暖炉の火の届かない廊下は空気も凍るよう。彼女はガウンの胸元を押さえて、体温を保とうとする。毛布を持ってくれば良かったかもしれない。
いくら寒くても、逆にどれだけ暑くても、星明かりを求めてメイサは部屋を抜け出す。たとえ小さな光でも、彼女にとっては得難い美しいものの一つだった。
突然玄関の扉が大きく開き、メイサはぎょっとする。慌てて壁に寄り添って姿を隠すと、階下では小さな騒ぎが始まろうとしていた。
『至急カーラ様を!』
『なにごとだ』
その張りつめた声に嫌な予感がした。そしてメイサは次に屋敷に響いた声を聞くと、ずっと身に着けていた壜を取り出して、握りしめた。
『ルティリクス様が〈スピカ〉を手に入れられたと。国境を越えられて明日中にはこちらへご到着です!』
*
どこかから、探していた声が聞こえた気がした。
彼女はずっと閉じ込められていたせいもあり、人の気配に敏感だった。特に祖母のカーラの気配とルティの気配は読み違えることは無い。昔からそれはそうだった。
メイサは〈スピカ〉を探していた。先ほど表が急に騒がしくなったから、きっともう着いている。身を隠し、耳をそばだてて、いつものように気配を探った。きっとルティの傍に居るはず。そうして探し当て、覗き込んだのは、浴室だった。
『ルティ、ひと月は待てと言っただろう』
階段の影から覗くと、カーラに呼び止められて、ルティは忌々しげな顔をしていた。
『少し味見しただけだ。ま、正直アレじゃ、やる気が起きないね。――なんとかしろ』
ルティがカーラに文句を投げつけて上に上って行くのが見えて、メイサは身を隠しつつ、どうしたんだろうと思った。あの不満げな表情は、昨今のルティからすると有り得ない。
ルティが階段を上る音を聞きながら、目を細める。カーラが開け放った浴室の扉の奥に光。驚くほど綺麗な色が見えてはっとした。
金色。この国で、その色を持つ人間は少ないはず。メイサの知る数少ない外部の人間は、大抵は茶や褐色の髪をしていて、皆枯れた大地の色に馴染んでいた。
(あれが……〈スピカ〉)
スピカは裸のまま、脱力して天井を見上げてぼうっとしていた。アウストラリスの風呂に慣れていなかったのだろう。アウストラリスには水が無い。そのため、風呂と言っても他国と少々勝手が違った。小さな小部屋で火をたいて、石を熱する。それに少量の水をかけ、蒸し風呂にする。メイサはどの国も同様だと思っていたけれど、それは間違いだと書物から知った。おそらくジョイアとは似ても似つかないはず。
カーラが彼女の体を確かめるようにしながら水をかけていく。当主は家の戦力である娘をああやって把握して行くのだ。メイサは昔を苦々しく思い出しながら、スピカを観察した。
細くはあるものの、胸も腰も柔らかそうに膨らんでいる。十六という歳を考えると、まだ未発達なのだろうが既に十分魅力的な体だった。ほんのり桃のように染まった健康的な肌の色。背中の中程までの金色の髪を服の代わりに纏っている。遠くから見ても〈美少女〉というに相応しい風貌。メイサは自分の容貌に自信がないわけではなかったけれど、この娘の持つ輝きは特殊だった。暗いはずの室内を照らすよう。綺麗だ、と不覚にも見とれてしまっていた。
同性のメイサでもそうなのだ。きっとジョイアのその皇子を始め、男はこぞって彼女を欲するのではないかと思えた。瑞々しく綺麗な輪郭を羨ましく、少々ねたましく思いながら、視線を顔に向け、その表情を見て固まった。
(え――?)
それはあまりにも空っぽだった。表情と呼べるものが無い。意識はあるみたいなのに、見開いた灰色の目には何も映されていない。
確かに整っていて、愛らしいはずのその顔なのに。美しいからこそ、そこに生気がないことが恐ろしい。メイサは背筋が冷えるような気がした。
そしてそういえば、と思い出す。さっきここから出てきたのは――
『まるで人形だな』
先ほど拾った言葉を思い出す。〈人形〉というのはそういう意味なのか……その空洞の瞳に、拒まれたということ? そう思って、抱いていた殺意が一瞬薄れる。
(かわいそうな子)
代わりになぜかそんな感情が沸き上がり、メイサは浴室に近づいた。
一歩。直後、メイサは息を呑む。
(あれは)
胸元の一点に目を凝らし、そして目を見開く。
――微かな赤い痣が、その白い肌の上に、まるで虫に食われたかのように残っていた。よく見ると、首筋や胸、――体のあちこちに。まるで春の淡い色の花びらが舞うように。
目眩が襲う。
彼に抱かれた女たち――もちろんルイザもだ――は、彼との夜について、自慢話のように話していた。私の方が愛された、いえ、私の方が、などと競うように。しかし、今までに彼がそんな痕を付けたという噂は拾っていない。
それはそうだろう。彼にとってあれは遊び。愛のない行為に、所有の印など、必要ではないはずだった。そのことだけがメイサを救っていた。それなのに――
つまり――〈スピカ〉は、彼にとって、特別なのだ。