スピカは怯えるようにメイサの顔色を伺った。そして諦めたような顔をして、口を開いた。
「あたし──ルティの子を産んだの」
(こ、ども?)
スピカがぶちまけた過去はメイサにひどい衝撃を与えた。その一撃で意識が遠のきそうだったけれど、辛うじて自分を立て直す。
そして、その事実をじっくりと噛み締める。
(ルティの子? ──ああ)
ルティが、スピカの妊娠を喜んだ訳はそういうことだったのだろうか──
体がどんどん冷たくなって行く。目の前が真っ暗になりかけたけれど、一つの謎と、僅かに残る理性がメイサを支えた。
(あれ? え──でも、それはいつのこと?)
スピカの妊娠は、新年。つまりスピカが皇子の妃になった儀式からスピカがシトゥラに攫われていた時までの時期のはず。ルティがスピカをシトゥラに連れて来たときには、確か──カーラがひと月は手を出すなと言っていて、彼はそれに従っていた。『味見をしただけだ』と。その理由は少し考えれば分かった。つまり──万が一妊娠して、どちらの子か分からないようでは困るから。
だからこそ、メイサはその可能性に付いて考えもしなかったのだ。
よく分からなくなって、もう一度しっかりと考え直す。
スピカがルティの子を? まずそんな機会があっただろうか? そして、もしそんなことがあったならば、まずあの皇子は子を産ませただろうか? スピカも知っていて産もうとしたのだろうか? それはどうしても不自然な気がした。
「産んだ子供は赤い髪と茶色の目をしてたの。シリウスに全然似ていなかったの。なのに、シリウスの子だって、皆を騙して、名前まで貰って。あたし、子供が可愛くてしょうがなかったの。だからルキアのために、ルキアが生きていけるようにって彼を利用した。あたしはシリウスじゃなくて、ルキアを選んだの。それなのに、シリウスは──。あたしは妻と母親の役割を他の貴族の娘に押し付けてジョイアから逃げたの。シリウスとルキアを、捨てたの。──最低なの、あたし」
ルキア──というのが、彼女の息子の名なのだろうか。そんなことを頭の隅で考えながらも、メイサは謎の究明を続ける。そして彼女の言った言葉の一部に引っかかりを覚えた。
(え?)
彼女は、
(あぁ、そうか)
スピカはシトゥラにいなかったから、息子が外見を受け継ぐなど知らないのだ。そういえば、息子の髪が赤いというメイサの言葉に彼女は首を傾げていた。──彼女の無知をルティは利用したのだ。
他に彼は何と言っていた? そしてその結果はどうなった?
(岩塩の輸出規制、赤い髪の息子、オルバース領主ヴェスタ卿の娘とその母親の髪の色──)
岩塩のことは正直よく分からないけれど、他はなにか繋がりそうな気がした。彼女は赤い髪の息子を産み、他の貴族の娘──それはあの話によると彼女の侍女のことになる──の母親の髪は赤い。
それらをメイサは必死で組み立てた。目の前の少女は、子供が可愛くて仕方なかった──そう言った。皇子を利用して守ろうとするくらいに。
『まだ分からないか? 黒髪と金髪からは、赤い髪の子は産まれないだろう?』
ルティの声が頭の中に突如響いて、メイサはようやく回答を導き出す。
(ああ──そうだ、ラナはもういない。そして、彼女が妊娠したのは、新年だった)
スピカが赤い髪の子を産んだら──高い確率で疑われるのだ。
攫われた時の子供だと。──スピカを攫ったルティの子供だと。彼はジョイアにそんな疑いの種を蒔いて来たに違いなかった。
だからこそ、彼女は愛する子供の血筋を疑われないように。──ルティの子供だと疑われないように、赤い髪の子を産んでもおかしくない母親を別に用意して──彼女は妻と母親の役目を明け渡して国を出たのだ。おそらくスピカが邪魔だった貴族に脅されたか唆された──そんなところだろう。彼女がいれば皇子の妃の座はいつまでも一つしかないのだから。そしてその首謀者のジョイアの貴族──オルバースのヴェスタ卿は、裏でルティと繋がっている。
(それから難民──)
今聞いた話では、アウストラリスの難民の暴動でジョイアが国境を閉じたことをスピカは知らない。そして皇子がスピカの裏切りを怒って国交を閉じたと彼女は勘違いしている。追い出されたと思っている。──だからこそジョイアには帰れないとここまで苦しんでいるのだ。
メイサは、なんとか辿り着いた答えに、思わず脱力する。
「……あーあ。ようやく色々分かった気がする。しっかり術中に嵌っているのね。なんていうか、さすがね。あれだけの材料しかなかったっていうのに……よくもここまで。ある意味見事だわ」
「どういう、意味」
メイサは答える気にならなかった。知りたくなかったことが増えてしまったため、少し落ち着く時間が欲しい気分だった。
とにかくスピカがルティの子を産んだと思い込んでいるのは確か。だから
聞きたくないと思いつつ尋ねる。
「あなた、ルティと寝たんだ?」
「……」
まずそこをはっきりさせなければ話は進まない。色んなものをぐっと堪えて核心に迫ると、スピカはその問題となった夜のことをメイサにぽつりぽつり、打ち明けた。遭難して、凍傷を起こしかけて、──起きたら傍にルティが居た、と。
なんとも不確かな情報だった。それだけでは、どっちとも言えない。
(私はそのとき確か皇子と一緒だったのよね)
だから詳しいことを何も知らないのだ。侍女にでも聞けば分かるかもしれないけれど、もしそうならばさすがに部屋の中にいたとは思えないし。
頭を抱えつつ考える。ルティが? あのルティが、弱って意識の無い女を抱く?
メイサの中では、即座に答えは出た。
──あのルティがそんなケチな真似をするはずが無い。彼は卑怯者だけれど、小物ではないのだ。抱くのなら、落としてから後に決まっている。世の中の女が全部自分の手に落ちると思っているような自信家なのだから。
「私の意見を言っていい? ──まず彼が意識の無い女を抱くとは思えない」
「でも……ルティなら」
その疑いにまみれた視線に、メイサは思わずカッとなる。
「ルティならって、何よ。彼が何? 彼ははっきり言って女に全く不自由していないの! いくらでも相手が居るの。あの皇子さまと一緒にしないで!」
「──シリウスだって不自由してない……」
「ふん、そうかしら?」
メイサはぴしゃりと遮る。確か、ルイザは、スピカが皇子のキス一つで婚約を破棄して城を飛び出そうとしたと言っていた。そんな潔癖な婚約者を持つ皇子が浮気など出来るわけが無い。
図星だったらしく一通り顔色を変えたスピカは慌てて部分的に否定する。
「と、とにかく、シリウスがそんな事するわけないじゃない!」
「ルティだってしないわよ」
どうしても期待が混じってしまうのを止められなかった。半ばむきになって否定している自分が分かった。それはスピカにも伝わったのかもしれない、彼女はいつしか目をまっ赤にして泣きそうな顔をしていた。
「でも、でも! ルティが言ったんだもの。あの時の子だって!」
スピカが血を吐くような声で訴える。
その声はメイサの胸を刺して、スピカが抱える傷と同じ傷をメイサに付け始めた。
今まで決して子を作らなかった彼が、子を作った。それは、彼の流す数々の浮き名を必死で堪えて来たメイサにとどめを刺すような事実だった。
だからこそ、スピカはメイサには言えなかったのだろうと同時に知る。メイサがルティを好きだと言っていたから。だからどうしても言えなかったのだ。きっと彼女はメイサが追いつめなければずっとそれを一人で抱え込んでいたのだろうと思えた。
メイサは絶望の縁に立っているのを感じていた。隣にはスピカが壮絶な表情を浮かべてこちらを向いて立っている。彼女も、メイサとは別の裏切りという名の重しをつけて横たわる闇に飛び込もうとしていた。愛してもいない男の子を身ごもってしまった、そしてそのことで心から愛する男を傷つけた──それは、どれほどの痛みだろう。
メイサはようやくスピカの気持ちを理解した。それならば、確かに、ジョイアからも、アウストラリスからも逃げようとするだろう。こうしてアウストラリスに捕われていること自体が、皇子への更なる裏切りだ。耐えられないほど苦しいに違いない。
『あたし、死んだ方がいいの』
あの時の彼女の言葉は本気だったと、初めてメイサには分かった。誰に見せつけるわけでもなく、心の底から死にたかったのだ。
(この子は──いろんなものを抱えすぎている)
メイサが何も持たないのとは逆に、華奢な体にあまりにも色んなものを抱えすぎて、重みに押しつぶされそうになっている。
一つでもその背から荷物を降ろしてあげたい。メイサはそう思った。出来ることなら、一つでも引き受けてあげたかった。
二人の間に子がいる──そうなると、どうなる? もう二人は一緒になるしかない? でもそれだと、今彼女のお腹にいる子供は? そしてもし彼女が産んだ子──ルキアが真にあの皇子の子だったならば?
メイサはいつしかスピカの抱える深い闇の中に一緒に飲み込まれそうになっていた。こんな深い溝があれば、ルティとスピカは一緒になっても絶対に幸せになれない。それはメイサの望みとはあまりにかけ離れている。
(ああ、だめだわ)
メイサは現時点では全て〈憶測〉なのだと思い出した。彼に話を聞かなければ──真実を知らなければこれは答えを出せないことなのだ。そして問題なのは──
「彼は嘘つきよ。知ってるでしょう?」
そうだ。彼は嘘つきの天才なのだ。現に、スピカをおびき寄せた罠はほとんどが嘘にまみれている。メイサはそこに僅かな希望の光を見た。もしかしたら、子供のことも彼女を手元に置く為の嘘かもしれない。
「それに、あなた夢でって言うけれど──ルティはそんなに優しくないわよ?」
そういうとスピカはぎょっとした顔をする。もちろんメイサは現在の彼が実際がどうなのか──そんなことは知りたいけれど知らない。ただ、噂では優しいと聞いていた。つまり、今のははったりだったけれど、メイサにはスピカが言っていることがどこか釈然としない。ある可能性を除けば。それは、つまり──
「ああ、分かった。皇子さまは生温いんだ? 眠ってられるくらいに?」
(それか、あの皇子様が眠っているスピカに手を出すような男であれば、そう思っても仕方がないわよね)
メイサは少し悩む。あの夜を思い出せば、そんなに下手とも思えなかったし、寝込みを襲うような小物とも思えなかったけれど、どうもスピカの尻に敷かれてそうな気もするし。全く有り得ないこともないような気がした。
「──な、な……?」
スピカは真っ赤になって絶句したけれど、メイサは真剣だった。これは冗談で言っているわけではない。
「どうなの?」
スピカは真っ赤な顔のまま項垂れると微かに首を横に振る。どうやら皇子は卑怯者ではないらしい。そのことにほっとすると本筋に戻す。
「覚えが無いのは──本当に無かったからじゃないかしら?」
スピカははっとした顔をした。
「でも──」
「あなたには、『力』があるじゃない」
まごつく彼女に、メイサは重要なことを思い出させる。彼女がなぜかすっかり忘れているそのことを。そして、同時にルティの先ほどの言葉を思い出す。
『立ち入り禁止だ』
今までのことを思い出せば、彼が何かを禁止するには必ず〈訳〉があるのだ。それはきっと──
「────あ」
背を伸ばし、顔を上げたスピカに、メイサは頷く。
「ラナの部屋でしょう? でも、あの部屋は今封鎖されてる。あなたを絶対に入れるなって。私、それが気になってた。何を今さら隠す事がある? あの部屋に何があるって言うの?って。ようやく分かった。──多分、あなたが知りたい『その事』が、部屋を閉じる理由なんじゃないかしら」
そう言ってメイサはラナの部屋のある方向を見る。スピカもそれに続いた。
──スピカとメイサ、二人を救うかもしれない〈真実〉が、そこにはある。