ジョイアの皇子が両国の和解の為にやって来る──シャウラにはその知らせが唯一の希望の綱に見えていた。
アウストラリスは今回のルティの策によって、かの国に大きな条件をのませようとしていた。
あのよく出来た息子は、スピカを手に入れるのと同時に、かの国の内政に混乱をもたらした。
今万全な状態のジョイアに攻め込まれれば、アウストラリスはひとたまりも無い。
彼の皇子が一人の女の為に兵を挙げる──そんな馬鹿なことをするとは、ルティは考えていなかったようだが、万が一ということもある。その場合に備えて、もしくは、そうさせない為の一つの布石だったのだろう。しかし彼はそれをただの保険にはしておかなかった。
彼がジョイアという
ジョイアは虚偽の情報を鵜呑みにして塩と水を取引しようとしていたが、裏をかかれ、不利な立場に陥っている。塩の代わりに何を差し出すか、考え直さなければならなくなっているのだ。
アウストラリス側の要求は、予め決まっていた。
それは──ジョイアの皇太子妃と、水の都オルバースの二つ。アウストラリスが切望している二つの宝をルティはこの際手に入れようとしている。
王太子としての初めての仕事だ。そしてもしかしたら、それを手みやげに、彼は父親を退けて王になるつもりなのではないか。国内に、そして国外に、手に入れたその力を見せつけて、そして全てを牛耳るつもりなのではないか。シャウラはそう考える。だが──
その計画には、彼の知らない致命的な欠陥があった。
*
厨房には潮の香りが漂っていた。北の海で獲れる海の幸を使ったアウストラリスの贅を尽くした料理は、シャウラがせめてと準備したものだった。なぜなら、わざわざやって来た皇子は今、とても苦しんでいるはずだから。
会談が粛々と進む中、シャウラは晩餐に備えていた。
彼女がかの皇子に接触できるとすれば、この時を逃せば無かった。王妃との会談など、今回の彼の訪問にはまったく関係がないことだから、予定に組み込んでもらうことは叶わない。まず、夫は許さないし、シャウラには弱い息子もさすがに今回ばかりは渋るはずだ。シャウラが少々の勝手を許されるのは、その二人が王宮にいない今だけだった。
侍従に言いつけて、使用人用の制服を取り寄せ身につける。特徴的な髪はベールで覆う。部屋の裏口から抜け出すと、女官長を脅して配膳の係の中に紛れ込む。そしてその時を待った。
会談は晩餐と共に続行されていた。
皇子シリウスは青い顔をしたままだ。会談では岩塩の流通とオルバースの利権に付いての話が進められているが、その内容は耳に入っているのか、相槌さえ打たずに呆然としていた。
それも無理の無い話。彼が会いに来たのは、ルティリクスであって、アウストラリスの文官ではなかった。
そのルティリクスは王の手から逃れるためシトゥラに移動したまま、王宮にはまだ戻って来ない。そして王でありシャウラの夫であるラサラスも、そのことを知るなり今朝、スピカを追ってムフリッドへ旅立ってしまっていた。皇子の来訪を知りながら、だ。
だからこそ、シャウラは切羽詰まっていた。
(あのひとは──思い出してしまったのかもしれない)
シャウラはもう逃れられないと思っていた。〈あの日〉から、ずっと記憶の底に沈んでいた秘密は、壊れた檻から漏れ出ようとしていた。
(ラナ。あなたに全てを返すときが来たのかもしれない)
シャウラは恋敵の名を胸に抱きしめる。奪われるのではない。そもそも彼女からすべてを奪ってしまったのはカーラとシャウラだった。
シャウラは寝台に横たわるラナの縋るような目が今でも忘れられない。──この子を頼むと言ったあの声が忘れられないのだ。
もうこの世に居ないラナには何も返すことは出来ないけれど、だけど、残された者たちには、ラナを返してあげるべきだった。いくらカーラが押さえ込もうとも、もう限界だった。
もともとその方法しかなかったのだと、心を決めてみれば明らかだった。偽りの土台の上に造られた関係など、いつか脆く崩れ去ってしまう。一度壊して、それからやり直す。許してもらえないかもしれないけれども、これ以上彼らを騙すことはシャウラには出来そうになかった。
「皇子!」
男の声にシャウラははっとする。
見ると、皇子の傍に付いていた中年の男──確か、彼が今の皇子の側近だと聞いた──が血相を変えて皇子の手元を覗き込んでいる。つられてそれを見ると、皇子は握りしめた貝の欠片で手のひらを怪我していた。ぽつりぽつりと床に血が滴るのを見て、シャウラは思わず駆け出す。
(今しか、チャンスは無い!)
一介の使用人の姿である彼女は王妃の立場と同じくらいに彼に近づき難かった。だけど、万が一の機会はこの姿でないと得られないと思っていたのだ。
「大変!」
皇子の近くで同様に駆け寄ろうとしていた侍従がシャウラの大げさな牽制に身を引いた。運が味方した──シャウラは皇子に駆け寄りながらそう思った。
*
「──時間がありません。夫も息子も居ない今のうちに、あなたにお願いしたい事がございます」
シャウラは怪我の手当を理由に隣室に彼を連れ込むと、人払いを皇子に申し出る。素早く察した例の彼の側近が「治療は私が行いますので」と声を掛けると、部屋にはシャウラ、皇子、側近三人だけが残された。
皇子は「夫、息子」の言葉でシャウラの正体に思い当たったようで、やや呆然とした顔をしていたけれど、側近に傷口をやや乱暴に消毒されて我に返っていた。
「気持ちは分かりますが……もうちょっと御身を大切にして下さい」
少々情けないうめき声が部屋に響くが、側近はぶつぶついいながら全く遠慮無しに傷の手当を続けていた。その妙な力関係に呆れつつシャウラは手当が終わるのを見守る。
やがて皇子はその美しい顔に苦痛を浮かべたまま、シャウラに向き合った。
「まさかそちらから接触していただけるとは思いもしませんでした。──シャウラ王妃」
「初めてお目にかかりますわね。シリウス様。お会いできて光栄です」
丁寧に礼をとり、噂通りのその顔に見惚れながらも微笑むと、彼は再び呆然とした顔をした。そして愛しくてたまらないというような──初対面の人間に向けるには全く相応しくない熱の籠った目でシャウラを見つめる。
まるで今にも抱きしめられるのではという気になって、シャウラは僅かに後ずさった。けれど、皇子はシャウラが下がった分、距離を詰める。
その原因には心当たりは十分にあったけれども、さすがにその美貌でその熱視線を向けられては、いくらシャウラが鉄の鎧で心を覆っても、かなり動揺してしまう。年甲斐も無くときめきそうになって焦った。
結局顔が少々赤らむのに耐えられず、シャウラは茶化して誤摩化した。
「そんな目でご覧にならないで下さいな。穴があいてしまいます」
「皇子、失礼ですよ」
側近が鋭く突っ込む。
「あ、あぁ……」
皇子はようやく目の前の女がスピカではないと理解したらしい。が、やはりその瞳には熱が残っている。
(ああ、まったくもう、なんて子なの)
顔をあおぎたいような気分になりながらも、その様子を見てシャウラはようやく本題に入れると思った。が、先に息子の代わりに謝罪しなければと思い直した。
「息子がやったこと──許してもらえるような事ではございません。あなたの何よりも大事なものを──本当に申し訳ないと思っております」
「……あなたは、どういうおつもりなのです」
スピカのことに触れたせいで、皇子は完全に自分を取り戻したらしい。尖る声に目線を上げると、彼は責めるような目をしていた。当然と言えば当然だけど、責めたいのはシャウラも同じだった。
「私には力がありません。しかし、私はルティリクスとスピカ──あえてスピカと呼ばせていただきますわね──彼らの結婚は許せない。もう母が何と言おうと、これだけは。ゆがみを元に戻さねば、国が破滅に追い込まれてしまいます。あなたが使者としていらっしゃる事を耳にして──もう、あなたにお縋りするしかないと。どうして手放してしまわれたのですか。本当に、どうして。スピカがジョイアに居ることで安心していたというのに……」
皇子は落ち着いた顔で相槌を打つ。そして、鋭く核心を突いて来た。
「どうして、
「──それは……」
打ち明けようと覚悟はしていたものの、いざとなるとシャウラは戸惑った。長い間隠し通して来た秘密。
(これを暴けば、ラサラスの心を失うかもしれない)
悩むシャウラの背中を押すように、皇子は優しい声で諭した。
「その理由はラサラス王に言えないのですね? だからこそ、僕に頼るしかない。──あなたは、いえ、シトゥラは、長い間、王を裏切り続けて来た」
皇子の声に確信が含まれていることに気が付いて、シャウラは目を見開く。
「あなたは──知っていらっしゃるのですか?」
「『ラナ』のお産に立ち会った産婆に会いました。そしてラナの過去を聞きました。僕には彼女が産んだのが『誰』の子なのか、見当がついています」
「……ああ」
シャウラは肩の力が抜けるのを感じた。
皇子は皇子なりにスピカを取り戻す算段を立てていたのだ。力でなく、別の方法で。戦を起こさない方法を必死で考えて、やって来た。
(この子。この子ならルティを止められるかもしれない)
彼の目の奥に希望の光が見える気がした。皇子はシャウラがまだ迷っていると思ったのか、続けた。
「あなたは先ほどゆがみを元に戻すとおっしゃった。それには──すべてを明らかにするしか無いのではないでしょうか。こうしてあなたに話を聞く事が出来たのは幸運です。僕は、この事はあなたの母上──カーラ殿に聞くしかないと思っていました。そして彼女はきっとそう簡単には口を割らない。しかし、あなたは違う。──『子』が可愛いのでしょう? 愛しているのですね?」
「どうしてあなたはそこまで……」
今度こそ、シャウラは倒れそうになった。シャウラの胸の内を、今まで誰に理解してもらえると思っただろう。そんな人はいないと思っていた。それなのに、こんな少年に見透かされた。
彼の目は『大丈夫です、任せて下さい』そう言っているように見えた。
シャウラは観念して、全てを彼に託そうと思った。こんな風に誰かに何かを任せるのは、ずっと心に壁をつくり続けて来た彼女にとっては初めてのことかもしれない。
(ずっと、苦しかったの)
シャウラは、泣きたくなりながら、ずっと戒めて来た心の内を吐露しはじめる。
「──その通りです。私は、弱かった。大きな流れに逆らえず、あの子の前で泣いてばかり居た。愛しているからこそ、あの子を見ているのが辛かった。あの子の向けてくる愛情を受け止めるのが辛かったのです。今さらなんだと思われるかもしれません。でも私は、──あの子が壊れてしまうのは、嫌なのです。私は、今まであの子に何一つしてやれなかった。あの子は誰にも頼らずに何でも自分で手に入れようとしてしまうから。頑張りすぎて、壊れそうになっても、それでもまだ歯を食いしばって堪えている。そうして必死で手にしたものが何かを知ったら──きっとあの子は壊れてしまう。私は──それだけは嫌なのです」
結局堪えきれずに、涙が流れる。泣くのなど何年ぶりだろう、そう思うシャウラの前で、皇子は同じ痛みを分け合うような顔をして、頷いていた。
「分かります」
(ああ、そうか)
そこで思い出した。この皇子には息子がいる。そして──今は、シャウラと同じ苦しみを味わっていると。
ルティの策略によって、スピカの産んだ子供が、自分の子供ではないと信じ、苦しんでいるのだ。
それが実のところどうなのかは、シャウラには分からない。けれど、彼は今、シャウラとともに戦おうとしてくれていた。
(確かまだ十七だと……こんなに若いのに──この子も随分重たいものを背負っている)
シャウラは涙を流しながら、目の前に現れた強い味方に縋る。
「どうか──スピカをジョイアへお連れ下さい。力の無い私にはこれ以上あの子を止める事が出来ません。どうか──」
シャウラは、そこで急激に焦りを感じ、「急がなければ」思わず呟いた。
「ええ」
皇子はシャウラの証言が得られれば、ルティからスピカを取り戻せる、そんな算段が付いたことにほっとしている様子だった。
しかし、その前に──
シャウラは青くなる。夫が万が一スピカを手に入れたら。それは皇子が今手にする作戦では太刀打ちできない。それは
シャウラが愕然としていると、側近が何かに気が付いたようで、静かに問うた。
「そういえば────なぜ国王陛下は会談にご出席なさらなかったのですか?」
シャウラは震えながら訴える。皇子がそれを聞きながら驚愕で目を見開いた。
「スピカは、ラナに似すぎています。外見だけではなく──内に秘める苛烈さが。王は──スピカをお求めになられています。あなたのご訪問を餌にルティリクスを呼び寄せられて、ご自分は今朝、シトゥラへ向かわれました」