15.壊れかけた檻 02

 真夜中。メイサはこっそり自室を抜け出すと、寝静まった廊下を忍び足で急ぐ。
 向かうはラナの部屋。メイサは鍵を探したけれど見つからなかった。だから別の手段を考えた。錠前は後から取り付けられたものだった。木の扉と壁に金具が釘打たれ、その金具同士を鎖が繋ぎ、そしてその先端に錠前がかかっている。もちろん鎖をちぎるような力など無い。だけど──
(釘なら抜けるんじゃない?)
 とメイサは観察していて思ったのだ。
 力仕事だ。向いていない。だけど地味に力を加えば。
 メイサは金具と扉の僅かな隙間にナイフを差し込むと、梃子を利用して静かに力を加える。手が滑りでもすれば怪我をするのは必至。これ以降の作業も難しくなる。
 作業を続けて数日で随分隙間が開いた。今日くらいには外れる予感があった。
(とにかく急がなければ。彼が帰ってくるまでには、絶対に)
 メイサがもし力を使えたならば、こんな方法ではなく、窓から忍び込むことができただろう。だけど力を持つのはスピカだ。身重で、しかも数日前まで絶対安静だった彼女は歩くのが精一杯。体力を消耗せずに部屋に入れるようにするのはメイサの役目だった。
 ふと僅かな気配を感じて後ろを見ると、階下から足音が聞こえて来る。メイサは慌てないようにこっそりナイフを隠すと、体の向きを変え、表情を取り繕った。
「メイサ様ですか。こんな夜更けに何を?」
 見ると侍従長だった。近づいて来て、彼はメイサを見下ろした。その昔は赤かっただろう髪は既にほとんどが白く色が抜けている。確かカーラと同じくらいの歳のはず。随分高齢のはずなのに、屋敷を切り盛りしている手腕は相変わらずだ。歳を感じさせるのはその髪と顔に刻まれた深い皺だけだった。
「スピカの部屋から戻る途中なの」とメイサは澄ます。
「ああ、そうですか」
 彼は特に疑いもしない。メイサのスピカへの献身的な看病はもう屋敷中に広まっていた。この数日は自分の部屋に戻ることも少なかった。彼女を励ましつつ、ラナの部屋を暴く段取りを二人で練っていたのだ。
 じゃあ、と足を進めようとしたメイサの背中に彼は一言かけた。
「あの──」
 振り返ると、侍従長は言いにくそうにメイサを見つめていた。
「なに?」
「ルティリクス様がスピカを妃にというのは、本当でしょうか」
「さすがにあなたは聞いているでしょう? お祖母様から」
「ええ、ですが、信じられずに。私はてっきり……」
 侍従長はそこでメイサをじっと見つめた。
「なに?」
「いえ──なんでもありません。ああ、お引き止めして申し訳ありませんでした」
 彼はそのままメイサの傍をすり抜ける。今度はメイサが気になって呼び止める。そんな中途半端なままで去られると気持ちが悪かった。
「何か知っているの?」
「──いいえ」
 侍従長は振り向かずにそう言い、その場を立ち去った。
 その後ろ姿が消えるのを確認すると、メイサはひっそりと作業に戻る。
(侍従長は何を言いたかったのかしら?)
 メイサは彼もカーラの人形だと思っていた。だけど、今会話を交わした彼はほんの少しだけ人間の暖かさを取り戻したようで。
 メイサはこのシトゥラにかけられているカーラの呪いのようなものが、少しずつではあるけれど解けかけているように思えて仕方が無かった。シャウラのことといい、今の侍従長のことといい、そういえばルイザもだ。
 カーラの束縛を最初にくぐり抜けたのは、間違いなくメイサではあるのだろうけれど、それが皆の勇気に繋がっているのだとしたら、どれだけ嬉しいだろう。
 そんな夢みたいなことを考えながら、メイサはナイフに力を入れ続ける。
 部屋には昼間の熱気が僅かに残っていた。少しの動きで体温が上がる。額に汗が浮かぶ。
 やがて、手応えがあった。金具が扉から溢れるように、床に落ちる。メイサは慌ててそれをスカートで受け止め、寸でのところで、金具は音を立てることは無かった。
(やった……!)
 心の中でつぶやくと、メイサは外れた金具に少々の細工をして、再び扉に取り付けた。


 翌日、スピカはようやくベッドから起き上がることを許された。それを聞いてさっそくと張り切る彼女をなんとかなだめたのは今朝のこと。カーラが出かけるという情報が急に耳に入った為だ。本当ならば、カーラの目が届かないうちの方が安全だった。
「お祖母様はどこに?」
「お客様が急遽いらっしゃるということで、お出迎えに」
「お客様? ってことは、ルティじゃないわよね?」
 侍女は首を縦に振る。ルティでなければ誰でも問題ないし、屋敷が騒がしいのはかえって良いかもしれない。そう安心して、メイサはスピカの部屋に滑り込んだ。

 *

 階下の騒がしさを気にしつつ、メイサは見張りの目をかいくぐってスピカをラナの部屋へと促した。急がなければ、祖母の外出もそんなに長いわけは無い。今を逃すと次にスピカから注意がそれるのはいつになるか分からない。
 焦る自分を必死で落ち着かせる。ここでメイサが取り乱せばスピカも巻き込んでしまうと思った。
「いい? くれぐれも無理しないこと。一人の体じゃないんだから。分かってるわね?」
「ほんとうに大丈夫かしら」
「ルティの方は大丈夫……のはず。いくら急いでも王都まで往復すれば十日はかかるもの。あと五日は帰らないわ。問題はおばあさまの方。おばあさまが出かけてるなんて、こんなチャンス滅多に無いんだから」
「大叔母さまはどこへ?」
「お客様がいらっしゃるとかで迎えに出られたみたい。こんな辺境の地に誰が来るのかしらね。──とにかく、急ぎましょう」
「うん、そうね」
 壊した鍵は無事だった。見た目にはがっちりと鍵がかかっているように見えるが、ナイフで引っ掛けて手前に引くと、金具は簡単に外れた。扉を開ける。中から埃っぽい空気が流れ出し、一瞬スピカは嘔吐感に顔をしかめる。だけど吐き気をぐっと堪えて、部屋の中に入って行った。
 メイサはそれを見送ると、ほっと息を付き、鍵を再び元に戻す。しっかり閉じているように見えるか確認して、スピカの部屋へと戻ろうと体の向きを変えた──その時だった。
「何をしている」
「きゃっ」
 後ろから声をかけられてメイサは思わず飛び上がった。
(今までに気配を感じないことなどなかったのに、どうして)
 後ろを振り向いて、理由が分かる。そこにいた人物は王宮の近衛隊の制服を身に纏っていたからだ。近衛隊員は、精鋭中の精鋭だ。気配を消すことなどなんでもない。しかし、どうしてここに。そしてなぜ気配を消す必要が。
 兵は振り向いたメイサを見ると、感心するような顔をした。
「美しいな。お前がスピカか?」
「え?」
 スピカの容姿は兵にまでは伝わっていないのかもしれない。しかし、そのあまりの間違い方にメイサはあっけにとられた。が、よくよく考えるとシトゥラで侍女の恰好をしていない女もそう数がいないのだ。若い女に限れば、今はスピカとメイサ二人しかいない。そう勘違いさせたままにしていれば良かったと直後気が付いて、機転の利かなさを悔やむ。
 その間に、兵は胸元からメモを取り出して確認する。
「いや違ったか。金髪緑眼だったな。じゃあスピカはどこだ。当主の言った部屋にはいない」
 それには絶対答えられない。首を振る。必死で振った。
「知らないのか? それとも言わないのか?」
「あなたは──」
 誰の指示で──と問いかけたけれど、確認するまでもないことに途中で気が付いた。
 ルティは近衛隊の兵をここムフリッドまで連れてくることは無い。となると、この兵を連れて来た王宮の人間、そしてカーラが出迎えに行くほどの人物となると──一人しかいないのではないか。
 そして、がここにやってくる目的は。
『スピカが父上に目を付けられた』
 ルティは、そんな風に言っていなかったか──
 メイサは血の気が引くのを感じた。今、もしスピカが王に襲われたら──子が流れてしまう。皇子とスピカを繋ぐ大切な命が、消えてしまう。
(──スピカ!)
 ちらとラナの部屋へと視線が動いた。兵はその動作で察したらしい。「ここだ!」と大声を上げて、階下の兵に告げる。
「スピカ! 逃げて!」
 声が届くことを祈るだけだった。
 メイサは、直後捕らえられる。廊下を引きずられながら、メイサはスピカの名を呼び続けた。

copyrignt(c)2008-,山本風碧 all rights reseaved.

2010.11.10