メイサは投げ込まれた階段下の狭く暗い倉庫の中で、剣のぶつかり合う音を聞いていた。表だろうか。一体何があっているというのだろう。
扉は堅く閉ざされ、開こうとしても表にいる見張りの視線に竦み上がる。抜け出そうと機会をうかがうも、廊下をウロウロしている十名以上いるであろう近衛兵を前に、ナイフを持つ非力な手がブルブルと震える。足は固まってどうしても動かなかった。
どう考えても助けられない。
結局、ただスピカの無事を祈りながら、涙を流すしか出来なかった。どうか、どうか。王がスピカに情けをかけてくれますように。そう祈るしか無かった。
どれくらい時間が経っただろうか。「くそっ」といううめき声と共に、扉の前から気配が消えたかと思うと、どこか──おそらく玄関だろう──扉に体当たりをするような音が数回響いた後、それが開け放たれたのが分かった。直後「お覚悟!」というかけ声と剣戟の音が響く。
そして複数のうめき声が聞こえた後、ドカドカという複数の足音が屋敷に入り込む。さすがに何事かとメイサは扉を少しだけ押しあけた。扉は見張りの重みを失って難なく開き、目映い光がメイサの目を刺す。僅かな隙間から急に白く開ける視界に、見知った影が映るのを見て、メイサははっと息を呑んだ。
『スピカは!?』
『──ラナの部屋か!』
二つの声には聞き覚えがあったけれど、メイサは聞き間違いだろうと思った。そして目に映る像はきっと見間違いだ。願望が見せる夢だ。
しかし耳にははっきりとその名が届き、目の中には嫌でもその特徴的な色が焼き付く。
『ルティ、君は上を通れるようにしてくれ! 僕の剣じゃ厳しい』
『お前、足手まといになるつもりか』
『弓なら得意なんだけどさっ、室内じゃさすがに不利だ』
『結局俺の腕頼みか。だからさっき助けたのか』
『まあね、それもある。君と一緒で、この際利用できるものは全部利用するよ』
『一緒にするな、馬鹿』
『とにかく──急げ!』
有り得ないと思った。有り得ないと思ったけれど、恐る恐る扉を開ける。玄関前の広間に広がるのは、いつの間にか倒された近衛兵たちの山。そしてその先に、赤い髪の青年と──黒い髪の少年。
「なんで……」
つぶやきながら表に出る。目の前に広がる惨状も手伝って、夢かもしれないと思った。
一方は王都に行っているはずで、あと五日は帰らないはずだった。そしてもう一方に関しては、どうしてこの国のこの家にいるのかさえ分からない。
しかも二人はなぜか協力関係にある。そのこと自体有り得ない。一人の女を巡って争っているはずなのに。
(ああ、もしかして──今は協定を結んでるってわけ?)
王に対抗するために。王がスピカを狙っている、そのことが二人を一時的に結びつけているのかもしれない。二人とも政治的に一人でラサラス王に対抗することは出来ない。一方は逆らうならば今この時に王位をかけなければならないし、もう一方が手を出せば戦になる。今は時機ではないのだ。
なるほどと納得しつつ二人のあとを付け、階段を駆け上がった。
階段の上では赤髪の男が最後の兵を殴り倒し、黒髪の少年がラナの部屋の扉を蹴破っているところだった。
ばりっという木の割れる音と共に、ルティが先に部屋に転がり込んだ。
「父上────!」
ルティは血相をかえている。手に持った剣は刃こぼれしてボロボロ。だけどその手はまだ戦おうと力を込め始める。メイサは部屋の中に当然壮絶な絵があるものかと覚悟した。しかし、
(あれ? え?)
一歩進んで部屋の中を覗き込み、メイサはやはり夢を見ている気分になった。
恐る恐る見た先では、ラサラス王は──まるで少年のように泣きじゃくっている。そして彼は『ラナ』と繰り返しつぶやきながら、スピカの胸にしがみついていた。スピカはまるで母親のような顔で、彼の金色の髪を撫で続けていた。
「どういうこと?」
メイサは部屋の入り口によたよたと歩み寄ると呆然とつぶやく。その脇をすり抜けるようにして黒い影がルティの横に並んだ。
「え、あの、ルティ、違うの!! これは──」
スピカはルティの形相に恐れを成したのか、王を離して立ち上がり、言い訳をし始める。が、そこまで言って隣の少年を見て、固まった。
「う、そ」
「──なにが? スピカ」
黒髪の少年──皇子シリウスはスピカを睨んでいた。
鋭い視線に圧されて、スピカが一歩下がると、皇子の眉はぴくりと跳ねた。
「し、し、シリウス!? な、なんで、こ、こ、ここに居るの!?」
全く同じことを問いたかった。それから……一体その態度はどうしちゃったのかとも。
メイサは、もし皇子がやってくるのならば、自分の非を必要以上に悔いて、そしてスピカに許しを乞うような気がしていたのだ。「僕が悪かった、だから戻って来てくれ」とそんな風に頼むのかと想像していた。実際〈あの夜〉に彼がスピカに言ったのは大抵が謝罪の言葉だったから。
だけど今の彼の瞳は、スピカを激しく責めている。
「うそでしょ。だってそんなはず無いもの。──あなたはあたしを忘れたんだもの。じゃあ、これは……夢?」
スピカがそうつぶやいた直後だった。メイサは腰を抜かすかと思った。
パチン
何の音? 目の前で皇子がスピカの頬を打ったのをしっかりと見たというのに、メイサにはその映像がまったく現実のものと思えなかった。
スピカも驚愕の表情を浮かべて頬を押さえている。
(え? なぐった──)
目を見開くメイサの前で、皇子はスピカを抱き寄せたかと思うと、今度は彼女に口づけた。
「ん────!?」
周りは展開にまるで付いて行けない。先ほどまでスピカの胸の中にいた王は糸が切れたようにぼんやりと座り込んでいるし、様子を見にぞろぞろ集まって来た侍女たちも呆然としている。当のスピカでさえ皇子に付いて行っておらず、メイサのはす向かいにいた中年の男だけが呆れたように大きなため息をついた。ジョイア風の服を着ていることといい、妙に落ち着いた様子といい、皇子の側近かもしれない。スピカが彼に気が付いて、目で助けを求めているけれど、全くの放置。清々しいほどに。一体どういう力関係なのかと頭を抱えたくなる。
「──僕は、怒ってる」
引きはがすように顔を上げた皇子は涙を含んだ声でそう言った。彼はぼろぼろと泣いていた。そして涙を拭おうともせず、その濡れた黒い目でスピカを食い入るように見つめ続けている。
「僕の気持ちが分からないんなら、いくらでも読めばいいよ。この二月──僕がどんな想いで」
「ご、ごめんなさ」
スピカの謝罪の言葉など要らないのか──それとも欲しい言葉は別にあるのか──、皇子はすぐにまた口を塞いでしまう。スピカは彼の口づけを受けて、ようやく彼が彼であることを実感したのか、目の端からぽろぽろと涙を零していた。
(良かった……)
なんだか胸を打たれて泣きそうになっていたが、メイサはふと気になって隣に立っているルティをちらと見上げる。彼は不愉快そうな顔をしているものの、止めようとはしていない。好きな女が、目の前で恋敵に口づけされているというのに、だ。
(……?)
さすがに彼の真意を疑わずにいられなかった。
「ねぇ、ルティ?」
思わず問おうとしたとき──
「ぅうう」
といううめき声とともに、急にスピカがもがき始めて、メイサは焦った。それなのに皇子は彼女を離そうとせず、そのままベッドに押し倒してもおかしくないくらいのキスを続けている。人前でするには情熱的過ぎるキスに、メイサは皇子が『スピカは誰のものか』を周りに見せつけているのだと思い当たる。暗に皆に「出て行け」と言っているのだ。もちろん、それは不可だけれど。今彼に好きなようにさせれば、それこそ子が流れるに決まっている。
慌てて飛び出したメイサはその勢いで、皇子の頭を叩く。叩いた後に、そういえばこの子はジョイアの皇太子だったとはっとする。けれど、メイサはそれでも一言でも二言でも言わずにいられない。ともかくスピカの親戚として、一言は絶対言わせてもらう。この男はスピカと違って弱ってないから遠慮は全く要らなかった。
「──このイロボケバカ皇子」
皇子は頭をさすりながら迷惑そうに振り向いた。そしてメイサを見て、なあんだと張りつめていた表情を少し緩ませる。
その顔がやっぱり昔と変わらず美しくて──メイサはうっと一瞬息を詰まらせた。
「あぁ……メイサだ、久しぶり」
その色気に負けないようにと拳に力を入れると、メイサは口を開く。
「久しぶりじゃないわよ。何してたのよ、今まで」
皇子は答えずに、黙ってメイサを見下ろした。必死で怒った顔を保とうとしているみたいだけれど、どうやらそれは形だけで、内心は全く別のものだろうというのがメイサにはすぐに分かる。やっぱりメイサと同類で、惚れた相手にはとことん弱いのだ。
(──あれ? この子こんなに大きかったかしら?)
そういえば前会った時は背の高さはそんなに変わらなかった覚えがあった。なのに、今は確実に見下ろされている。そのことが気になると、肩幅も広くなっているし、頬のあたりも随分柔らかさを失って──少年を卒業して、男になっていることも続けて知ってしまう。前に会ったとき──一年半前──と雰囲気がまるで違った。
もうどうやっても子犬には戻ってくれなさそうだ。急に落ち着かない気分になったけれど、メイサはそれを怒りで誤摩化すように続けた。
「ああ、それから──もう! スピカを離しなさい! そんなどろどろの恰好で──体に障るじゃない。いい? スピカはね──」
言っていいのよね? とスピカに確認をとろうとして、ぎょっとした。スピカが今にも倒れそうな顔をしていたのだ。「スピカ? そう言えば、顔色悪……」皇子が覗き込んだ直後、
「う、わ────!!」
スピカがかがみ込み、彼女を受け止めた彼の埃だらけの服は、これ以上無いくらいにドロドロになった。