皇子を強制的に風呂に連行したメイサは、スピカを近くの部屋で着替えさせてから休ませる。
そして皇子がゆで上がって出てくるまでの間に、侍女を総動員して、ルティと皇子が傷つけた兵士たちの手当を指示した。それは二人に別々に頼まれたことだったのだけれども。
しかしもともと人口の少ないムフリッドでは医者も少ない。困ったメイサを助けたのは、皇子の側近イェッドだった。
彼はもともと医師だそうで、メイサはその幸運を最大限利用させてもらった。
幸い、皆の傷は浅く、ほとんどが当て身による気絶だったため、メイサは随分安心した。治療を脇で手伝いながらイェッドに聞けば、ジョイアではよく使われる戦法らしい。あの場で戦ったルティも同じ戦い方をしたと教えてくれた。
詳しそうだと試しに問えば、彼は治療の合間に、彼らの事情を教えてくれた。
皇子は現在国交の途絶えているアウストラリスとの和議に自ら出席する為にこの国を訪問したそうだ。──表向きはだが。そして、エラセドで
一方ルティは王都へ行く途中に王の動きを知り、引き返したようだと。皇子たちの到着時、シトゥラ家の門前で王の兵に阻まれていたらしい。そこを皇子が自らの弓で救ったそうだ。
「なんだか嘘みたいな話ね」とメイサがつぶやくと、イェッドは「本当にその通りです」と、妙に感慨深そうな表情を浮かべ、口をつぐんだ。どうやらジョイアでも色々あったのだろうということだけ、その顔からは窺えた。
「スピカは?」
浴室から出て来た皇子は旅の埃や戦闘での血痕など、もろもろを全て洗い流していた。背に垂らした髪の色もくすんだ灰色から元の漆黒に戻り、溜息が出るほど麗しい。呆れにも似た溜息を付きながら、メイサはスピカの休む部屋へと彼を案内する。
そして彼の『二人っきりにしてくれないかな』というようなあからさまな視線を無視して、メイサがいない間、王に何があったかをスピカに問うた。
「王は、あたしを見て母さんの記憶を取り戻されたみたいなの。場所と……それから髪の色かもしれないわ」
やはり気分が優れないらしく、スピカは吐き気を堪えながらも皇子を見て一生懸命説明していた。メイサを気にしつつも、皇子から目が離せないといった様子だった。無理も無いけれど、ちょっと寂しい。メイサは疎外感を感じつつも、今自分がここを離れるときっと彼女のお腹の子供に悪影響があると信じて、皇子の隣の席を守り通す。
「髪の色?」
皇子もメイサを半ば無視してスピカを見つめている。その声色は愛に溢れていると言っていい。
「うん。夕日がね、髪に当たって赤くなっていたの。ご自分からあたしのことを『ラナ』って呼び間違えられて、それ以降、あんな感じだったわ」
あんな感じというのは、王の覇気のなさのことだろう。メイサは人から聞いた評判と肖像でしか王のことを知らなかったけれど、ラナの部屋にいた時の王はまるで別人の様──子供のように途方に暮れていた顔をしていた。
自分が追い続けて来たものを知り、そして、それがもう既に失われていたことを直後に知ったのだ。壊れてもおかしくない中で、王が少しでもまともさを保っていたのは、元々が強い人だからなのだろうとメイサは思う。
「これから……どうするの?」
メイサは二人に割り込んだ。見つめ合っていた彼らは今はじめてメイサに気が付いたというような顔をする。最初に質問を投げかけたのは一体誰だと思っているのだろう。皇子の方は明らかにがっかりしているのが分かり、メイサはさすがに腹を立てる。
「いい加減にしてね。そんなに惚けててどうするのよ。スピカを連れ帰る算段は付いているんでしょうね?」
そう睨むと、
「当然」
皇子はにっと少年っぽく表情を緩ませた。
スピカの体調が少し回復したところで、皇子の招集に合わせて皆がまとめてシトゥラの応接間に集まった。
奥に席が設えられ、侍女たちがそれぞれの茶を用意している。
皇子の隣にはスピカが不安そうに座っている。彼女は寝かせておいた方がとメイサは訴えたけれど、今からする話はそれほど重要なのだろうか、彼女がいなければ意味が無いからと皇子は離そうとしなかった。ただ、無茶をさせたくないという心遣いはあるようで、メイサはそれに応えて、なるべく上等な肘掛け椅子を彼女に宛てがった。
皇子は集まった面子をぐるりと見回している。彼の目の前にはラサラス王とルティが並んで腰掛け、その後ろにカーラとメイサが肩を並べた。カーラはメイサをちらりと見やったが、ただそれだけ。言葉を交わすことも無く、完全に無視をされる。もう彼女の孫でさえないのかもしれないと思うとメイサは気分が少々落ち込むけれど、それも仕方が無い。追放されている身なのだから。
茶が回って来て、カーラの前に差し出されると、彼女はぶるぶると震える手でそれをとり、一気に飲み干した。
(お祖母様?)
様子がおかしいと訝しむメイサの前で、皇子は突然口火を切った。
「ラサラス王。私は、この度両国の間に出来た溝を婚姻によって埋める事が出来ないかと考え、ここへやってきました」
「え──?」
メイサは周りの人間とともに呆然と固まった。そんな中で、冷静な人間は皇子とその側近だけだった。
(こ、婚姻って?)
メイサが混乱するのも無理は無い。アウストラリス側の人間は皆一様に驚き、代表してルティが問う。
「どういうことだ? 王家には
そうなのだ。今王家には姫は居ない。となると、どこかの有力な貴族の娘ということになり、そして彼の歳に見合うような貴族の娘であれば……メイサもその一人に入っている。それどころか、かなり有力な候補になってしまうのだが。
でも先ほどの皇子がスピカを諦めるはずは無い。
(どういうこと? じゃあスピカとの結婚が両国の架け橋になるって、そういうこと?)
皇子は少し微笑むと、首を横に振り、はっきりと言う。
「王家に
(縁? そんなのどこに?)
全く繋がりが見えずにメイサはきょとんとする。前に座るラサラス王は変わらずぼんやりとしていて皇子に応えず、その隣で、ルティが「ふざけるな」と吐き捨て、一気に顔を険しくする。
「何を言っているんだか。スピカのどこに王家との繋がりがあるというんだ。──あぁ、分かった。さっき思いついたんだろう。お前、確かラナと親父が恋仲だったと知っていたな? そして今親父の髪の色を見て。スピカが親父の子で、俺とスピカが兄妹だって言いがかりをつける気か。はん、ばかばかしい」
ルティは王子の顔を忘れたように激してそう言った。
(ルティとスピカが兄妹?)
メイサはその可能性があるか、一生懸命考えてみる。確かに外見だけを見れば、王の髪は金髪で、スピカの髪も金髪。だが、その色はレグルスから引き継いだのだとメイサは考えていたし、それより、──問題は時機だ。
「親父は、ラナの代わりに俺の母親と結婚した。そして俺が生まれたんだ。お前も知っている通り、ラナは、ジョイアに潜入してレグルスと結婚した。親父もラナを覚えていなかった。それなのに、どうやって子が出来るっていうんだ? その話には無理がありすぎるな」
ルティは易々と皇子の仮説を否定した。
(そうよね。……無理がありすぎる)
ラナがレグルスに連れられてシトゥラに戻った事がちらりと頭をかすめたけれど、結婚の許しを得るために戻ったラナが王とそんな関係になるというのも不自然だし、何より、王はずっとラナを忘れたままだった。
そう考えて、メイサは首を横に振り、ルティと同じくその仮説には矛盾が多過ぎると結論づける。
(スピカは王の子では有り得ない。ちょっと──そんな無理な仮説立ててどうする気なの?)
ここまできて、そんな妄想のような話を軸に会談をされたら、スピカは手に入らないのに。そう心配になってメイサは皇子をハラハラと見つめた。
しかし皇子は余裕の笑みを浮かべている。
「確かに、スピカが王の血を引いていてくれたらどれだけ楽だったろうね。これ以上無い良縁だ。だけど──僕は『スピカは王家に縁がある』としか言っていないよ」
「どう言う事だ? 縁?」
アウストラリス側の人間は一様に──いや、メイサの隣の一人の女を除けば──首を傾げる。皇子は、睨み続けるルティから目を逸らすと、横目でちらりとカーラを見た。彼女は皇子の視線を受けて、怯えたように身を縮ませる。そんな祖母の姿は初めて見て、メイサは驚く。
「ところで陛下。シャウラ王妃がルティリクス王子を出産されたのは、このシトゥラで間違いないでしょうか?」
(シャウラ様のご出産?)
突然何を言いだすのだろう。まったく先が予想出来ない。そう思っているのはメイサだけではなく、彼の隣にいるスピカでさえ何が始まるのか全く理解できていない様子だった。
「……シャウラの出産?」
王はしばらく記憶を探るようにして、やがて答えた。
「ああ、間違いない。あやつは、身ごもってすぐに里帰りして、そして、子を産むまで王都には戻って来なかった」
「その間、王妃に会われましたか?」
「いや。あやつは体が弱い。あの時も体調がずっと優れなくてな」
「お腹の大きな王妃を誰も見ていないと?」
「ああ、絶対安静でな。私でさえ一度も会えなかったのだから」
皇子はそこまで聞くとゆっくりと頷いた。そしてルティに向き直る。
「ルティ。君の母上は、子を身ごもってすぐに里帰りして、ここで出産したと。その間、だれも彼女を見かけていないそうだって。──僕は同じ罠にはめられそうになったから、この事がどういう事か、よく分かるよ」
皇子はそこで言葉を切り、スピカをちらりと見た。彼の隣ではスピカが何か分かったのか愕然とした顔をしてルティを見つめていた。「君の本当の母親は──王妃じゃない。そうだろう? カーラ殿」
皇子はそうして突然その漆黒の瞳を真っ直ぐに祖母に向ける。
(は? え──? 何を言ってるの? ルティの母親が、シャウラ様じゃない?)
あまりに繋がりが見えず、殆ど思考が停止状態だったメイサも、さすがにその話には単純に驚く。
「言いがかりじゃ」
祖母は震える声でしっかりと否定するけれど、皇子は「下調べは済んでいるんだ」と首を振る。
「僕は、この間、スピカを取り上げた産婆に会ったんだ。彼女は言っていた。ラナは、スピカが生まれたとき『おにいちゃんに似ていない』と言って驚いたそうだ。つまり、スピカの前に一人子を産んでいる。──ルティ、君の母上はスピカと君の結婚に反対し続けている。それは、いったいどういう理由で?」
話を振られたルティは呆然としている。
「ラナはレグルスと結婚する前、間者として働いていたという。そしてシトゥラの娘はその力を最大に使って間者の仕事を行うと聞いた。だからその時は、当然だけれど、子供が出来ないようにするはずだ。仕事の内容を考えても妊婦では仕事がこなせるわけが無いから。そして、それは力の制御の儀式でも同じはず── じゃあ、なんで子が出来たのか」
(じゃあ、なんで子ができたのか?)
どう調べたのか知らないが──それともただの憶測なのかもしれないが──皇子が言うように確かに仕事でも儀式でも避妊は行うのだ。
シトゥラで行う避妊には女性が薬を飲む方法と、男性が避妊具を付ける方法がある。メイサの儀式ではどうやら薬だったらしいけれど、ラナの時は……避妊をしなかったのだろうか? そんな馬鹿な。稼ぎ頭の彼女が妊娠するなど有り得ない。確実に避妊をさせるはず──それをしなかったということは……?
(ええと、大体、皇子はどうして今ラナの話をしているわけ? 確かさっきまでシャウラ様の話をしていたのではなかった?)
皇子はラサラス王に向き直る。繋がらない話に付いて行けないメイサと同じく、彼もまだ皇子が言おうとしていることがよく理解できていない様子だった。
「王は儀式に出るラナを引き止められたと聞きました。僕はよく知っていますが、子供というのは、案外簡単に出来たりする──たとえそれが一度の逢瀬であったとしても」
(ああ、そうか!)
ふいにラナの部屋の窓から忍び込む若き日のラサラス王の姿が見えた気がした。それを見てメイサは〈その可能性〉に思い当たった。王がラナについての記憶を失った──それはつまり王がラナを抱いたことを意味するのだ。スピカを抱いて記憶を失った皇子はそのことを誰よりもよく理解しているはずだった。
そしてその逢瀬はカーラの目を盗んで行われたはず。シトゥラの娘は王にさえ出し惜しみされるのだ。王の高貴な血を誰よりも尊んでいるカーラが、シトゥラの娘──しかも異能を強く発現したクレイル候補の娘の中に、その血を混ぜるようなことを許すはずは無いのだから。
メイサは過去に見聞きした彼らにまつわる話を必死で整理する。
確か、王はラナを間者にしたくなくて、カーラからかすめ取ろうとした。しかし結局は力の制御が出来ない彼女に記憶を奪われ、カーラによってシャウラを宛てがわれた。
そうやってラナはシトゥラに取り戻され、予定通りに間者としての訓練が始まる。
訓練の手始めに行われたラナの儀式では当然避妊が行われたはずで、そして、その後妊娠発覚までの仕事中も同様だろう。
つまりは、王との逢瀬を除いて子が出来る機会は無いということになる。
(あれ? でも、ラナが子を産んだなんてそんな話、本当にはじめて聞いたんだけど)
ラナに子供が産まれているのならば、そもそも、スピカを探すまでもないのだ。メイサがクレイル候補になることも無いだろう。そうならなかったということは──……そういえば、さっき皇子は『おにいちゃん』と言っていたような。
(その生まれた子は……力を持たない〈男の子〉ってこと? ──え?)
メイサはそこまで考えが追いついたところで、かちんと、今皇子が口にした二つの話──ルティがシャウラの子ではないという話と、ラナが子を産んだという話──が繋がるのを感じた。
(え、ええ!?)
愕然として見ると、皇子は皆を見回して、話を詰めようとしていた。
「ラナが子を産んだ。そして、その子は王の血を引いているらしい。王家の血を引く、そして近年まれに見る力を持つシトゥラの娘の血を引く子を、このカーラ殿がむやみに殺すとは思えない。じゃあ、一体その子はどこに居る?」
(うそ)
メイサは貧血で倒れそうになる。
ラナが子を産んだことは確実。そして力を尊ぶシトゥラは、〈シトゥラの子〉を殺せず──それ以上に王の血を崇めるがために〈王の子〉も殺せない。つまり、もし子が生き残っているならば、そのこと自体が、子に王の血が混じっている──少なくともシトゥラがそう信じていることの証明となる。
(じゃあ、一体その子はどこにいるの?)
今、この場所でその〈子供〉に当たる人物は一人しか思い当たらなかった。メイサは皇子の問いを心の中で繰り返し、大きく息を吸うと、その〈子供〉の方向をじっと見つめた。
「僕には一カ所だけ心当たりがあるよ。産まれた子は王位を継げる子なんだ。母親が違えど、『王家』で『王子』として育てれば良い。娘を嫁がせようと王子が産まれるとは限らないのだから。──ルティ、君は今二十一歳だったよね? ラナが最初の子を産んだのは、スピカを産む四年前──つまり、今から二十一年前だ。これは偶然じゃない」
皇子が言葉を切って見つめると、祖母は強く反発する。
「憶測じゃ」
「カーラ!」
ラサラス王が激高すると、彼女は身を縮めた。その間を割るように扉が開く音が響き、入り口を見ると、そこには馬車から降りたばかりといった様子のシャウラ王妃が、はらはらと涙を流しながら立ち尽くしていた。
メイサはこんな憔悴した彼女を初めて見たと思った。
(ああ、シャウラ様。私、分かりました。なぜあなたがあんなに反対していらっしゃったのか。そしてどうして言えなかったのかも)
彼女は、自分の姉と兄──メイサの父母と同じことをルティがするのだけは耐えられなかったのだ。だけど、王に対する裏切りを口に出すこともできなかった。そして──彼女と彼が従姉弟ではないと知っていたからこそ、あんな風に〈メイサ〉に『ルティを頼む』と押し付けた。
「もう……やめましょう、お母様。このひとは……思い出してしまったのですから。今さら──隠す必要はどこにもありません。陛下──長い間隠していて申し訳ありませんでした。私とあなたの間に、子はおりません。ルティリクスは、あなたと、ラナの息子です」
シャウラはたった今、ルティの母親でないと宣言したというのに、今まで見た中で一番、強く優しい、母親らしい顔をしていた。