秋。ジョイア宮は昨年皇太子の元に産まれた第一皇子の誕生祭に沸き立っていた。
宮の隅にある生け垣には小さな赤い花が咲いていて、隣には花よりも鮮やかな色の髪を持つ背の高い青年が一人佇む。さらにその隣には頭一つほど小柄な黒髪の少年。長く黒いつややかな髪のせいで、一見少女にも見えるが、その背は少女にしては高く、肩幅も広く、まなざしも鋭すぎた。
赤い髪の青年は少年を見下ろすと、少年の名を呼ぶ。肩書きなど二人の間には何の意味も無い。
「何の話だ、シリウス」
そう問いつつも先ほど部屋から連れ出された時から、この皇子が何を話したいのかは察していた。──彼の
「ルティ、」
親しげに名を呼ばれてルティ──ルティリクスは僅かに構える。あえて自分からは何も語らないと決めていた。それがこの皇子に奪われたものに対する、ささやかな復讐だ。自分と同じだけ苦しめばいい。正直、一生苦しめばいいとも思っていた。それだけのものをこの男は手に入れている。
女たちはこの男にとにかく甘い。それがまず腹立たしかった。すぐに味方につくのだ。ルティが一人で頑張っているのがバカらしく思えるくらいに。
スピカは当然のこと。彼の叔母も、彼の侍女たちも、ルティの母親であるシャウラも、そして、──メイサも。
メイサ。あれから、あの夢を見てから、ルティの心の中はこの名前で埋め尽くされていた。
あれだけスピカスピカと言っていたのが嘘みたいだった。妹だという事実を知ったあとに残った感情はなぜか、安堵だったのだ。そんな訳無い、なんでだろうとずっと酒を飲みながら考えた。夢とうつつが分からなくなるくらいになっても答えは出なかった。
けれど──
答えに気が付いたのは本物を思い出したからだ。
自分が求めていたものはなんなのか。あのキスで胸の中の何かが壊れた。嫌というほど思い知らされてしまった。
あの朝、一人で寝台で目覚めた時ほど絶望を感じたことは無いかもしれない。──ひどく現実味のある〈夢〉だった。夢だったというのが信じられないくらいに。
夢なのに、ひどく甘いキスだった。今までしてきたどんなキスとも違う。もちろんスピカのとも。彼女とのキスをずっと待ち望んでいたのだ。ずっと。そう思えてしまった。
〈あのとき〉──あの最初の夜、唇は奪わなかった。奪えなかった。それは、あまりに似合わない行為だった。ルティとメイサは従姉弟であって恋人同士ではなかったし、儀式として割り切りたかった。何より、欲望に負けてしまうような気がした。
全てを奪うつもりではなかったのだ。最初は。
だから必死で抵抗していた。
しかしカーラはそんなルティに囁いた。その言葉がずっと耳に残っていた。『お前がやらなくても他の男がやるだけだ。あの子の父親でも別に構わないんだ』。それで頭に血が上ってしまったのだ。他の男が彼女を傷つけるくらいなら、ましてや叔父──メイサの実の父親が相手など。自分がやった方がましなんじゃないかと思い込んでしまった。
一通りの知識はあった。でも経験は無かった。けれど、十四歳の──あのときのルティは自分なら優しくできると思っていた。泣かせることは無いと──自分相手なら泣くことは無いと、なぜか思い込んでいたのだ。
だから結局少しの誘惑に流された。
そして結果は──あのとおり。肌を重ねてしまえば、彼女のことを考える余裕など無かった。夢中だった。自分の中の獣に負けたのだ。情けないくらいに青かった。
『嘘つき』
その言葉で我に返った。言い訳なんか出来なかった。彼女の言う通りに、彼は嘘をついてしまったのだから。守ってみせると、そう思っていたのに。結局は自分が彼女を傷つけたのだ。
カーラの思い通りになった自分がひたすらに悔しかった。だからあのときルティは誓った。力を手に入れて、そしてあの家を、あの家に巣食う闇を壊してみせると。
力を手に入れる為には嘘つきの方がいい、最低の方がいい。その方が随分都合が良かった。何より、それ以上嫌われることが無い。最低ならば、それ以上悪くなることは無い。
許されたくなかった。許されれば──彼は弱くなってしまいそうだった。まだ力を手放すわけにはいかない。守りたいものを守る為には力が必要なのだから。
だからこそルティは王に成りたかった。力を手に入れたかった。その為のスピカだったのだ。
そのスピカになんであんな思いを抱いたのか。──確かに限りなく恋心に近かったのではないかと思う。いや想い自体は確かに恋だったのかもしれない。
しかし、シリウスがシトゥラにやって来た時、そして共にスピカを助ける為に戦った時。これから奪い返されるかもしれないというのに、そこまで焦躁感が沸かなかった。そして、妹と知った瞬間に確かに彼はほっとしたのだ。
あれから理由を探りつづけて、だんだん分かった。そして彼女が国に帰るとき、その姿を国境で見送りながら自覚した。
──妹と知ったからではなく、
ずっと、『こんなヤツには渡せない』と、思い続けていたのだと。まるで保護者の様に。
スピカは元々一族の娘。それはメイサと同じく守らねばならない対象だった。彼女を傷つけた自分をルティはずっと悔いていたから、同じ目にはあわせたくなかった。
シリウスに抱かせたのも彼女を壊したくなかったからだ。どちらにせよ儀式は避けられない。ルティは儀式で散々女たちが傷つく様子を見て来た。一度だけで済むならば随分ましだとあの頃は思っていた。しかもスピカはあの皇子に好意を抱いていたのだから。
まだ恋とは言えないような想いに見えた。母親が息子に向けるような愛情。彼女はそれを恋だと勘違いしていた。
スピカが欲しくなったのは、多分、あの母が子に向けるような愛情が気になったからだった。皇子に向けられる無償の愛が羨ましかった。それは彼の持っていないものだったから。そして比べれば僅かだったが、それはルティにも向けられていた。
あれはシリウスがアウストラリスに彼女を取り戻しに来たときだった。去り際に彼女は言ったのだ。
『あんたはもっと別の手段を持ってるはずでしょう。力を使って、腹の探り合いをしなくても、あんた自身の魅力を使えば、なんでも出来るんじゃない? ──あたし、あんたとジョイアで一緒に過ごしたとき、すごく楽しかったわ。たとえ偽りの姿だったとしても、あれも、あんたの一面なんでしょう?』と。
今でも忘れられない。普通言えるか? 自分を攫った男にそんなことを。
自分の傍に置けば、その愛が手に入るかに思えた。そうやって母の様に自分を見守ってくれるように思えた。思い返せば、子供がおもちゃを欲しがるのと変わらない。きっと。
昔は、ルティにもその愛情をくれる人はいた。母ではない。母であって欲しかったけれど──彼女はいくら望んでもルティを見てくれなかった。だが、いないも同然の母の代わり──まるで姉のように暖かくルティを包んでくれた女が居た。だけど自分で壊して、二度とそれは手に入らなくなった。
あの瞬間に彼が彼女を守るにはああするしか方法は無かったのだが、今でも彼は引き換えに失った物の大きさを知って後悔し続けている。いくらその方が良かったと自分に言い聞かせてみても。
母性、とでも言えばいいのだろうか。無条件に与えられる温もりだった。ルティが何をしようとも、肯定してくれる、その包み込まれるような暖かさ。
久々に失った熱に触れて、懐かしかったのだ。スピカが皇子に与えているものは、ルティが失ったものそのものだった。スピカが欲しかった。無意識に求めていた。──あの温もりの代わりに。