ルティはジョイアに行って、そのことを知り、強い危機感を覚えたらしい。――そのとき彼はまだ、〈王家〉の人間ではなかったから。
あの日、彼が熱心に語った言葉をメイサは聞き流していた。当時、彼女は本当にどうでもいいと思っていたことだった。メイサに「考えろ」と言った彼。その言葉がどこか引っかかっていたのだろうか。メイサの呪いは解け、いつの間にか考えることが出来るようになっていた。
床に耳を当て、盗み聞いた言葉に目の前が真っ暗になったのは、ほんの数刻前だった。
『明日、お前たちの結婚式をする』
誰の? そんなのは決まっている。その部屋にいたのは二人――スピカとルティだけだった。
メイサは呆然としたまま部屋で絵本を読んでいた。あまりに急な展開に頭も心も付いて行かなかった。置いていかれてしまったメイサは、なんでもいい、安らぎを求めていた。自分を取り戻したかった。
それは随分昔、ルティがどこからか手に入れて、メイサに持ってきてくれたもの。大人に取り上げられないようにと、本棚の奥に隠していた、一冊の本。
絵本は、ジョイアのものなのだそうだ。アウストラリスには無い、水と緑が溢れる美しい世界が溢れていた。
そこで紡がれる物語は捕われた姫を騎士が助け出すという、おそらくはありふれたお伽噺。
ルティは昔、この姫をメイサのようだと言った。
『早くお前を
目を瞑ると幼い少年の声が蘇る。だけど……彼が手に入れた姫は。
メイサは絵本に目を落とす。その絵本には金色の髪をした美しい乙女が描かれていた。
長い髪をいじる。この色は好きな色のはずだった。まるで、揃いで作った服を着たときみたいなくすぐったさがあって。
(馬鹿みたい。私。所詮、ルティも普通の男ってことじゃない――そうよこのありふれた話の騎士みたいに)
騎士が選んだのはメイサではなかった。――ジョイアという檻に囲われた、誰もが守りたくなるような美姫だった。
*
メイサは絵本を仕舞うと、茶色の小壜を握りしめ、部屋をそっと抜け出した。
(何を急いでいるの、私は)
何のために小壜を握りしめているのか、彼女には自分でも分からなくなっていた。結婚したからといっても〈クレイル〉になれる訳ではない。それは結びつかないのだから。むしろ、スピカが妃にでもなれば――〈クレイル〉はメイサのものになるかもしれない。それなのに、なぜこんなにも胸がかきむしられるようなのだろう。
メイサはあまりの胸の痛みに考えるのを止める。〈スピカ〉が気に入らない。だから、消す。それでいいと思い直した。
カーラはスピカの部屋は以前の〈ラナ〉の部屋だと指示していた。シトゥラの開かずの部屋の一つをカーラはその部屋の主の娘に明け渡した。
それにしては……見張りがついていない。
(おかしい)
「メイサ様?」
廊下を見まわっていた男が、メイサに気が付いて声をかける。
「いつもの散歩よ。気にしないで」
さらりとそう言うと彼は納得する。メイサが夜中にフラフラしていることは、使用人たちには知られている。皆彼女を哀れに思ってか、それとも大して害がないと思っているだけなのか……
「ねえ、人が少ない気がするのだけれど」
ラナの部屋を横目でちらりと見ながら尋ねてみる。
「ああ、……実はちょっと問題が発生しまして……」
「問題?」
「ルティリクス様が殆ど連れて行ってしまわれました」
「ルティが? なぜ?」
「ええと……探しもの、です」
侍従はそれ以上話したがらない。
ルティが動くとなると〈スピカ〉に関わることだろう。〈スピカ〉のことは口止めされているに違いなかった。
「まあ、どうでもいいわ」
メイサは興味の無いふりをして、踵を返す。そして見張りが後ろを向いている隙に、ラナの部屋の扉から素早く中へと滑り込んだ。
鍵はかかっていなかった。
そして、部屋はひどく寒かった。室内のはずなのに、まるで、これでは――屋外だ。廊下より寒いなんて。
凍えるようだと身を震わせながら部屋を観察すると、暖炉の火が風で大きく揺れている。
見ると窓が大きく開けられて、カーテンもはためいている。隙間からは濃紺の満天の星空が、存在を訴えていた。
しかし――メイサの探した星は見つからない。
部屋には誰もいなかった。