メイサと皇子との文通は続いていた。以前から何度かスピカの近況を知らせて欲しくて色々と情報を送ったりもしていたのだ。それに彼らの子供のことも気になっていた。ルティはしゃべる気がないだろうから、代わりにメイサが情報を送っていた。彼らの確執は無いに超したことは無い、そう思って。
あのあと思いついたのだ。メイサはルティがあれだけ激しく女を抱くとは思ってもいなかったから、考えもしなかったのだけれど、もしあの調子で彼がスピカを抱いたのなら、そう簡単に痕跡が消えるわけが無い。実際メイサも痕をすべて消すのには相当苦労をしたのだ。まず風呂で洗い流さなければ、消えようも無いが、スピカはあのとき風呂には入っていないはずだった。
だから直後にあんな風に抱いた皇子が何も気が付かないわけが無いのだ。
そう思って『何も気が付かなかったの?』と送った書簡の返信には、あの皇子らしい綺麗な字で、
『ルティは抱いてないって認めはしなかったけれど、否定もしなかったよ』
とだけ書かれていた。
いつもは他に言葉スピカの近況とか、子供のこととかがあるのだけれど、はっきり分かれば喜ぶと思っていたのに、意外にあっさりした手紙だった。あの時王に言った言葉通りに、もう気にしていなかったのだろうか。だとしたら大した覚悟だ。
とにかく、メイサは何かしっくりこないものを感じながらも、二人が良ければ、それで良いと考える事にした。皇子が求めても、ルティが口を開かなかったのならば、これ以上の詮索は無駄だからだ。彼女は届いた書簡を引き出しに仕舞うと同時に、彼らの子供の問題も心の引き出しに仕舞う。そして筆をとると、仕事の続きを始めた。
部屋は元のメイサの部屋をそのまま使っていた。仕事がしやすいようにと机は新しく大きめのものを用意してもらっただけで、後はあるものをそのまま使っている。
しかし、部屋は昔と違って明るい。窓のカーテンはいつも開けていて、日の光を入れるようにした。窓辺には花も飾って気分も変えた。それに、以前は人任せにしていたのだが、服は出来るだけ自分に似合うものを選ぶようになったし、今まで以上に自分を磨こうと心がけた。
それもこれも──全部仕事のうちだと思っていたのだ。
結局メイサはあのあと、そのままシトゥラの当主代理に収まっていた。
カーラはあれ以来めっきり体調を崩して寝込んだままだ。いや、あの祖母のことだ。もしかしたら、咎を負うのを嫌って引き蘢っているだけなのかもしれないけれど。
それでシトゥラには代わりが必要だったのだ。あの騒ぎで妙に活躍してしまったメイサは結局そのままカーラの仕事を引き継いでいる。
シトゥラにいる娘で、シトゥラを継げる人間は結局、メイサしか残らなかった。
父は「お前の好きなようにやればいい」と、カーラの伝言を持ってやって来た。「当主の仕事は何をすればいいか、お前ならよく分かっているだろう」と。
確かに閉じ込められていたメイサはシトゥラの家の中のことは誰よりも詳しい。盗み聞きしたのはとうの昔にバレているから、カーラはそのことを言っているのかもしれない。盗み聞きで得た知識だけはメイサには膨大にあった。そして、ここ一年外に出たことで、今までは知識だけで来ていたものが、経験することで多少身に付いたような気はしている。
既に修行は済んでいるのだ。これから実践に移るには丁度良かった。
それに、仕事に没頭していれば、ルティのことを考えずに済む。気を抜くと思い出してしまいそうになる。そんな自分が未練がましくて嫌だった。今度こそ忘れたのだと、新しく歩き出したのだといちいち自分に言い聞かせるのも疲れるし。
時が傷をいやしてくれる。そう信じて、メイサはとにかく目の前の仕事を片付け続けた。
当主の仕事は主に娘たちの管理だったが、メイサは新しく行う教育についてはもう必要は無くなってくるだろうと、そう考えていた。
シトゥラの間者は主にジョイアに向けて使われてきた。しかし、今後、ルティとシリウス皇子は手を組んで協力関係を保って行く。それはきっとそうなる。
となれば、シトゥラの役割は縮小され、そしていずれは終わって行くのかもしれない。それ自体は喜ばしいこと。しかし──
「仕事、見つけなきゃ」
頭の痛いのはその問題だった。メイサはシトゥラを潰すわけにはいかない。昔破滅を望んだけれど、いざとなるとそうはいかない。家業を失って皆を路頭に迷わせるわけに行かない。何よりこれから王位に就こうというルティをしっかりと支える為にシトゥラは存続しなければならなかった。
そう考えると、カーラが家を守りたかったという気持ちは嫌と言うほど分かってしまう。けれど、同じやり方はとりたくないと考えていた。不安は大きいけれど、今何かを変えないと、皆の幸せは望めない。
しかし領地であるムフリッドは北部の貧しい土地だ。産業が育っていない。農業も──そして表向きは行っているはずの鉱業も。間者の仕事が無くなれば、それこそ女が身を売るしか残されていない。
それでは今までよりももっと悪い。もともとメイサには責任は無いことだけれど、見捨ては出来なかったし、自分も一緒になって体を売るのもまた違うと思っていた。
『オレは……これ以上お前を汚すわけにはいかない』
ルティがあの夜言った言葉は本音だろう。だから、メイサは今後自分を大切にしなければいけない。出来れば自分だけでなく、シトゥラの娘全部も大事にしたかった。だって、皆、血がつながった家族なのだから。
「やっぱり、なにか、産業を興さなければ駄目ね。農業は水が無いから多分無理だし、鉱業も、鉱山が枯れていれば駄目か。じゃあ……なにか工業、それか商業は? でも……何をするにもまずは纏まったお金は必要なのよね……それから何よりも、」
メイサが呟いたところで、扉が鳴る。
「入るぞ」
現れた赤い髪に胸が跳ねるのが分かったけれど、素知らぬ顔をして手元の書類を見つめつづける。
このところ、用事もないのによく訪ねて来るような気がしている。本人は視察とか言っているけれど、もともと北部には見る場所などそんなに無いし、何を今さらだと不思議だった。何より、なぜメイサに会いにくるのかも分からない。
だから、ひょっとしたら〈仕事〉をしないかどうか見張られているのかもしれないとメイサは思っていた。
『──お仕事よ』
例の内出血を見つけられて、とっさに付いた嘘だった。ルティは本気にして、メイサが驚くほどに激怒した。それも仕方が無いのかもしれない。あの夜の言葉を信じるなら──彼はメイサの代わりに自らを汚し続けて来たのだから。それが無駄になったことを怒るのは当然だ。
失敗したとは思ったけれど、襟の上から少し覗くくらいのものだったのだ。虫さされくらいにしか見えないし、まさかそうと特定されるとは思ってもいなかったので、上手く嘘をつけなかった。まあ、今考えてもいい嘘など思い当たらない。恋人とでも言えばいいのかもしれないけれど、メイサに出会いなどあるわけがないことを知っているルティにはすぐに看破されそうだった。それも正直に言うと悔しい話だし。
とにかく本当のことは絶対に言えなかった。彼は夢だと疑っていないみたいだったし、それを告げて今の関係が壊れるのをメイサは何より怖がっていた。せっかく家族として上手くやって行こうとしているのに、全部台無しになってしまいかねない。
「何をぶつぶつとつぶやいてたんだ」
「──別になんでもいいでしょう。そういえば、あなた、なんでここにいるの」
内心の動揺を隠しながらそっけなく返したものの、ふと思い出す。そうだ、彼はジョイアに出かけていたのだった。確か、あの皇子とスピカの子──ルキアが一歳のお披露目をするとかで。
「帰り道だ」
「帰り道? ジョイアの皇都から
ムフリッド経由だと、ひどく遠回りだ。しかも砂漠越えという苦行を行わなければ王都には辿り着かない。
「……寄っちゃ悪いか?」
ルティはあからさまにむっとした。
「いいえ。もちろん歓迎するわ。──あなたの生家ですもの。侍女たちも喜んでるし。すぐに部屋を用意させるから、どうぞごゆっくり」
にっこり笑って、しかし暗に出て行けと扉を示す。色んな意味で仕事の邪魔だった。
しかし彼はなぜかその場を動こうとしない。メイサの様子をその茶色の瞳でじっとうかがっている。彼に見つめられることには、全く慣れていない。
(気まずいわ)
無理矢理に笑顔を浮かべているものだから、気を抜くと頬がぴくぴくと痙攣しそうだった。
「…………侍女たちが喜んでるって?」
「ええ、あなたが来ると皆華やぐのは相変わらずね」
昔を思い出すとやはり少しだけ胸が痛む。だけど、彼女たちはやはりルティを慕っている。あれは、仕事ではなく、〈恋〉が出来る貴重な時間だったのだ──カーラの代わりに仕事をしている今はそう理解できた。
幼い頃からの洗脳──だとメイサは今は思っているが──だけで女たちを家につなぎ止めるのは結構大変なのだ。第二、第三の
だから彼は〈特別な女〉を決して作らなかったのだろう。もしかしたらメイサのように恋をしないようにと言われていたのかもしれない。そうすれば女たちは彼相手に夢を見続けられるから。
でもそれもスピカが来るまでの話。そして今は、スピカも去った。つまりは元通りなのだ。彼は今まで通り、〈特別〉を作らずに、皆に愛されて過ごして行く。
しかし彼の鎖はもうこれからのシトゥラには必要なくなる。彼の心は自由だ。早く次の恋人が見つかるのが一番いいけれど、あの夜の彼を知っているメイサには、そんな女は暫くは見つからないのではないかと思えて仕方なかった。でも全ての可能性を捨ててしまうには、──まだ彼は若過ぎると思うのだ。
世の中は広い。メイサが知らないだけで、彼の心に空いた大きな穴を埋められる素晴らしい女性がどこかにいるかもしれない、いやきっといるはずだし見つけてみせると、ここ二月で思えるようになった。
それならば、出会いの場は出来るだけ多い方がいい。
「本家だけずるいって、分家の子も騒ぐだろうから、今夜にでも呼んでおくけれど、それでいいかしら? 好きな子を選べばいいわ」
メイサがそう言うと、彼はなにが気に入らなかったのか、「必要ない」と言葉を吐き捨てて部屋を出て行く。
(ああ、噂話は本当なんだ……)
王宮では王子の冷たい表情と態度に娘たちが戸惑っていると囁かれているらしい。あれからまだ二月だ。心の傷は塞がらなくても仕方が無いけれど、
「国内で駄目なら、ジョイアにいい娘は居ないものかしら……」
ジョイアという響きにふと思いついて、筆をとると、白い紙に皇子への手紙を書く。確か、あの皇子には妹がいたと思い出したのだ。あの皇子の妹ならば、どれほどに美しいだろうか。歳は離れているはずだけれど、身分としては最高に釣り合っているし、縁談が纏まれば、二つの国はより強固な関係が築ける。
そこまで考えて、メイサはふと筆を止める。
(どうかしら。やっぱりスピカに少しでも縁があると……残酷かしら。ルティにとっても、その子にとっても)
じゃあ、と、皇子に他にもいい娘がいればどんどん紹介して欲しいと、メイサは付け加える。まるで王宮にいた面倒見のいい──女官と近衛隊員の見合いの斡旋を生き甲斐にしていた女たちのようだと、そんなことを思い出しながら。
メイサは彼の為によかれと思っていろいろ手を尽くしているつもりだった。それでも彼が本当に望んでいること──スピカを手に入れてあげることだけは叶えてあげられない。それが悲しい。そう思っていた。