砂嵐が馬車の窓に張り付いて行く。隙間から僅かに砂が吹き込むけれど、そこまで気にならない程度のものだった。王妃ともなれば、当然上級の馬車が用意される。造り自体が丈夫で、内装も凝っている。体に負担がかからないように据えられた柔らかい背もたれや敷物は長旅の疲れを半減させた。そのおかげもあってか、メイサの乗り物酔いは今回はあまりひどく無いようだった。一番大きいのは気分だし──それから黙って下を向いているのが一番いけない。
シャウラはエラセド行きの馬車の中でメイサとこれからの打ち合わせをしていた。
まずこれからのメイサの立場について。メイサ本人は解雇されたと思っているようだけれど、ルティが言わないだけで、彼女の立場はルティの女官という以前と変わっていなかった。ただ、ヨルゴスのところへ潜り込ませるにはさすがに都合が悪いから、その辺は調整することとなった。
ルティのお手つきであるという噂は、彼の一族で、シトゥラの長姫であるというものに訂正させる予定だ。彼は認めないかもしれないけれど、それならば彼のとった手段を真似させてもらう。王宮に噂を流させるのだ。きっとうまくいくはずだった。なにより、こちらには赤い髪という確かな武器があった。
今回はメイサがシトゥラの者であるということは隠さずに潜り込ませる。ヨルゴスが妃を娶らない、それどころかどんな美しい女官さえも寄せ付けない──それに悩んだ彼の母親につけ込むことにしているのだ。もう誰でも良いとそう思っている節があるが、シトゥラの娘の噂──例の王にさえも出し惜しみすると言うものだ──をどこからか聞きつけていたのだろう。あれからすぐに打診したらぜひにと書簡が届いた。
身分を偽らないことを伝えると、結構な変化にメイサは戸惑っているようだった。
「いいのですか? 探れるものも探れなくならないでしょうか?」
「いいの。ヨルゴスに対しては探ることも重要だけれど、牽制の意味も大きいの。あなたがいることで変なことができなければそれでいいし、今後シトゥラとなにか取引をしようというのであれば、それでもいい。これからは南部とも手を組む必要があるのだから」
「取引?」
どうも分かっていないようなので、シャウラはしっかりと釘を刺しておいた。これは彼と彼女の今後の為には重要なことだった。
「あなたは、今回、ヨルゴスと寝ちゃ駄目よ。分かってる?」
「……わ、分かってませんでした」
「まさか、すぐに押し倒す気になってた?」
冗談で言ったのに、メイサはあっという間に項垂れた。何を考えているのか、どうやら本気でそう考えていたようだ。シャウラは言っておいて良かったと胸を撫で下ろす。場慣れしていないから、シトゥラの娘として
(やっぱり手順は間違ってないかもしれないわね)
シャウラは随分悩んで、メイサの恋愛に対しての姿勢をまず何とかしようと踏み込むことにしたのだ。もちろん危険は大きい。このままメイサが誰か別の人間と愛し合うようになるかもしれない。だが、シャウラはメイサがこのままでは埒があかないという風に結局は結論づけたのだ。そこを何とかしないと、ルティとの進展は
「あなたが望んで、向こうも望めば、もちろん誰も止めないわ。だけど嫌なら無理に寝ることは無いの。シトゥラの長姫として堂々と結婚を散らつかせて焦らしなさい」
「焦らす……?」
「恋の駆け引きを覚えて実践して欲しいのよ」
「恋の駆け引き!? ──で、でも、私じゃ……力不足です」
最後の方は消え入るような声だった。外見に中身はまだ追いついていないらしい。相変わらずの自信の無さにシャウラはこめかみを揉みながらため息をついた。
「あなたはもうちょっと自分を知る必要があると思うのよ。いい機会だわ。回り道かもしれないけれど、他の男を知ることも重要な気がする」
そして自分が他の人間の目にどう映るのかを知ってもらう。シトゥラとルティによって失わされた自信を取り戻してもらう。自分にだって恋愛が出来るのだと感じてもらいたいのだ。
他の男の元にいるメイサを見て、ルティはどう動くか悩んだけれど、あの息子のことだから、欲しいものは諦めないに決まっている。愛する者の為に黙って身を引くような出来た人間ではないことは、これまでのメイサの仕事の妨害やスピカへの執着などを見ていれば十分に分かった。彼が諦めないのが分かっているのなら、動かすのはメイサだ。この全てを諦めてしまった女を何とかしなければ。
「回り道ですか?」
メイサは理解できずにきょとんとしている。
「あなたはね、本当は美人なの」
「はあ」
案の定、メイサは何を言われているのか分からないという顔をしている。それどころか、シャウラに熱でもあるのかと心配するような顔になった。そしてしばらく悩んだ末に、ありきたりな世辞を返してきた。
「……ええと、シャウラ様にはどう頑張っても負けます」
軽い頭痛を感じながら、シャウラは強く説得するのは無駄だとすぐに諦めた。こういうのはもともと同性──しかも身内が言ってもあまり効果がないのだ。男に言ってもらうのが一番だけれど、シャウラが言って欲しいと思っている男には全く期待できないし。そもそも言えるようならば、こんなに拗れるわけが無いのだ。
(あの子、本当に言いたいことはなかなか言えないのよねぇ……)
その面に関しては思春期で成長が止まっているのではないかというくらいだった。体ばかり大きくなっても、好きな子に意地悪したいという段階から抜け出せていない。だからメイサが嫌われているのだと誤解し続けるのかもしれない。
(ああ、先は長いわ)
シャウラは目の前に続く長い道のりを見てとって、大きくため息をついた。
*
馬車から降りると、太陽の光がまずシャウラの、次にメイサの赤い髪を照らした。それと同時に辺りには息を呑んだ音が広がる。直後広がりだしたざわめきが肌に張り付くと、まるで弱い酸を浴びたかのようなぴりぴりとした刺激に変わった。
戻った王宮はなにか雰囲気が変わっていた。それはルティの王位継承に伴う妃選びが始まったからなのだろうか。──それとも、隣にいる、赤い髪の乙女のせいだろうか。
ちらと右を見ると、怯えた顔のメイサがシャウラの一歩後ろで小さくなっていた。さすがに異様な雰囲気を感じるのか、顔は青ざめ、背は丸まっている。せっかくの美しい服が台無しなのが勿体なくて、シャウラは背筋を伸ばすようにそっと促した。
来客は思った通り素早かった。
シャウラとメイサが部屋に落ち着く前に、木枯らしのように部屋に入り込んだ男は、赤い髪を随分と乱れさせている。その目の中では怒りがメラメラと燃えているかのよう。
「なぜ──連れてきた!」
飛び込むなり怒鳴ったものの、着飾ったメイサを見てルティは言葉を失った。
メイサは美しい絹のドレスに身を包んでいた。今回は襟刳は開いたものだ。赤い髪は高く結い上げ、首周りの美しい肌も、華奢な鎖骨まで露出している。それだけではない。ショールをとった今、淡い桃色のドレスの胸元からはその豊かな胸が溢れそうになっていて、シトゥラの女としては戦闘力は最大値。しかし、これは彼女がシトゥラで着慣れた服だ。やはりその分楽なのだろう。寛いで、優雅に椅子に腰掛けていた。
「──しかも、なんだ、その恰好! 目立ちすぎるだろう!」
対して全く余裕がないルティは、椅子の傍でメイサを見つめたまま目が離せないでいる。その様子にシャウラは思わず吹き出した。
「ほら、前に言っていたでしょう、ヨルゴス王子の陣営に潜り込ませる人間がいないかって」
「なんだって? だめだ。……こいつは──」
「もう役立たずではないわ」
メイサがそうルティの発言をぴしゃりと遮った瞬間、シャウラは彼女が纏っていた弱気が剥がれた気がした。
「知っているでしょう。私は、もう、ちゃんと任務を果たせるもの」
ルティの目はメイサの露になった首筋に留まっている。以前言っていた、痕。それは今は消えているけれど、彼の記憶には刻み込まれてしまっているのかもしれない。
メイサはつんと顔を背けて鋭く言い放つ。
「私は私のやりたいようにするわ。口出しは無用よ」
「何を偉そうに、半人前のくせに。どうせ、相手が酒に酔ってたとかそういうやつだろ。じゃ無いと落ちるわけが無い。たまたま上手くいったくらいで変な自信をつけるな」
辛らつな言葉にメイサが一瞬固まる。だけど直後、ひどく魅惑的な笑みを浮かべてルティを睨んだ。
「じゃあ、相手を酔わせればいいってことよね? ご助言ありがとう」
ルティは僅かに焦って食い下がる。
「そう言う意味じゃない。お前には無理だと言いたいだけだ」
「──止めろというのなら、そう命令すればいいわ。
「…………」
二人が黙り込み睨み合った。ぴしり、と空気にひびが入ったのをシャウラは感じる。それは言ってはいけない一言だと思う。冬のアウストラリスの凍った空気の中に素肌を晒しているような、そんな気分になり、シャウラは腕に鳥肌が立つのを感じた。
(ああ、もう、ルティもルティなら、メイサもメイサよ!)
シャウラの存在を忘れたかのような態度は、妙に生き生きとしていた。多分これが本来のメイサなのだろう。それを見て、昔、こんな風に二人が喧嘩をしていたのを思い出す。さすがに忘れているのかもしれないけれど、かなり馬鹿馬鹿しいことで喧嘩をしていたのだ。幼い頃はおやつの量が多い少ない、そんな些細なことから。少し大きくなるとルティが意地悪をして、それに反抗したメイサに逆に言葉で打ちのめされると言う……典型的だった。
繰り広げられる舌戦は昔通りにどう考えてもメイサが優勢。彼女はルティの暴言を柔らかく受け止めつつ、無意識にルティの心を一番抉る言葉を選んでいる。対するルティは未だ子供の頃と同じで、
(やっぱり……馬鹿だわ……)
さて、どうやって調理しよう。
ルティにはその山より高いプライドを捨ててもらう──捨てざるを得ない状況を作るのだ。そしてメイサには自分の魅力を知ってもらう。
シャウラはやはりここは別の男に登場してもらうしかない──そう決意を固めた。