20.隠し姫と二人の男 01


 中庭のその小屋はヨルゴスの城だった。城主は自分以外のだれもその城に触らせなかったらしい。
「すっごく汚いんですけど」
 頭には布。昔着ていたくたびれた女官服。それから手には〈はたき〉。
 渋るヨルゴスから掃除の権利を得て、メイサは小屋の入り口に立っていた。
 まだ日が高い今、第十王子ヨルゴスは会議中だった。彼が部屋に籠るのは会議などの王子の責務を果たしてからのこと。ああ見えて意外に真面目なのだ。
 メイサは夜だけの務めで構わないと言われていたけれど、その夜の務めを少しでも快適にしたくて今ここに居るのだった。

 何と言っても埃が辛い。饐えたような匂いも我慢ならない。最初入った時は暗くて気が付かなかったのだけれど、翌日まだ明るい時に覗いてあまりの惨状にすぐに部屋を飛び出した。
 天井はクモの巣が埋め尽くしており、古い巣には埃が絡まって垂れ下がっていた。床は白く積もった埃で元の色さえ分からない。極めつけは、虫。カサカサという羽音に追い出されてヨルゴスに尋ねると、ここ五年は掃除をしていないと聞いた。しかもその五年前が最初の一回だという話。入りたての女官が勝手に掃除をして、大事な標本を捨てたということらしい。それが原因で彼は女官には部屋を触らせなくなったそうだ。
 その大事な〈標本〉は、箱の中にはり付けられたものに始まり、透明な液体に浸けられて瓶詰めされたものもあった。医術書の下でひっそりと佇んでいたそれら。見つけたとき思わずメイサは悲鳴を上げてしまった。

 捨てていいですかというメイサの言葉にヨルゴスはたいそうなへりくつで返した。
『これは僕たちがこうして生きていく為に犠牲になってくれた大事なものなんだ。こうした犠牲が無くて今の医術があると思っているのかい? 僕らはちゃんと敬意を払うべきだ。だから捨てちゃ駄目』
 その割に埃をかぶっていたではないかと思うのだけれど、ヨルゴスは強く反発した。ものを捨てるのが嫌いな性分らしい。仕方なくメイサは大事なものだけを数点選んでもらって、あとは処分するように辛抱強く交渉した。そうして二人で実験するのなら場所が足りないと言ったらようやく折れてくれた。
 しかし残った標本は奇しくもメイサの苦手な〈カエル〉だ。他の蛇やら蜥蜴やらはアウストラリスでも手に入りやすいが、カエルはジョイアのものなのでなかなか手に入らないらしい。最近ジョイアで自ら手に入れて来たばかりだそうで、まだ新しく、保存状態もいいせいか、見ているだけでぬめぬめとした触感が想像できる。それに加えて、ぎょろりと飛びだした目、幅の広い口。彼は今日も不気味な笑みを浮かべてメイサを見つめている。メイサは恐る恐る手を伸ばすと、カエルの瓶を裏返した。白い腹が見えてそれはそれで気持ち悪いが、微笑まれるよりはましだった。

 アウストラリスの冬は雨期にあたる。といっても雲は僅かな雪を降らせるだけで、ほとんどがそのままジョイアに流れていくのだけれど。貴重な雨期の中、今日は久々の晴れ間だった。
 気合いを入れて、まず長椅子など動かせる家具を外に出す。中庭には夏に比べれば弱いものの日の光が照っている。家具は残らず虫干しにすると、小屋の中に戻る。古い木の椅子を持ち上げると部屋の隅に移動させる。くすんだ色の土の壁沿いに埃とクモの巣を払って行く。時折クモが落ちて来てその度に悲鳴を上げるが、次第にそれにも慣れて来る。
 天井が終わると床。埃を虫とともに掃き出し、敷物などが無いのをいいことに水を撒いて汚れを流した。泥色の水をブラシで外にかき出してしまえば、床の木はなんとか元の色を取り戻す。
 夕焼けが部屋の壁を赤く染める頃、ようやくなんとか落ち着ける状態にまで部屋が片付いた。
 朝から働き詰めのメイサはへとへとになって長椅子に沈み込む。微かな頭痛を感じて目を閉じると、椅子からは冬の日だまりの匂いがした。その暖かな匂いはメイサの眠気を誘う。少しだけ──そう思った直後、メイサはそのまま眠りに落ちていた。

 *

 王城の塔の間から夕日が沈んでいた。日が陰るとともに冷え込みが一気に強まる。凍った風が赤い前髪を揺らすと、触れられた耳が刺されたように痛んだ。手に持った小さな火酒を煽るが少量では体は温まらず、舌打ちする。三月前に味わった地獄のような二日酔い以来、彼は酒の量を控えているのだ。
 指先がかじかみ、枝を持つ指の感覚が無くなる。さすがに部屋に戻ろうかと思うが、小屋の中の女があのままでは戻るに戻れない。窓から覗くと彼女は忍び寄る夜の冷気にも気が付かずに、夢の中だった。
(風邪ひくぞ)
 忍び込んで上掛けの一つでも掛けてやりたいと思うけれど、近づけば自分が何をするか分からない──そんな得体の知れない恐怖が彼の足をその場に縫い止めていた。
 木の根元で、落ち葉が鳴る。かと思うと人の声が中庭に響いた。
「──噂以上に美しいね、君の家の大事なお姫さまは。よく今まで隠しておいたものだ。感心したよ」
 囁くような声にルティが下を見下ろすと、鋼色の髪が視界に入る。
「コソコソするのは得意中の得意か。でも僕の目を誤摩化せるとは思わないでくれよ。勝手に人の部屋に入るんじゃないよ」
 全く悪びれることもなく、ざっと木を揺らして枝から飛び降りると、彼はゆっくりとヨルゴスに向き直った。
「ここは正式にはあなたの部屋ではないでしょう。ただの中庭です。勝手に小屋を建てたのは一体どなたでしょうね」
 ヨルゴスの部屋に面した庭は一応・・共用の領域だった。彼に私物化されているのは、小屋があまりに気味悪く、誰も近づけない為。ルティの居住がある塔との間にあるその窪んだ土地は、彼の部屋からいつでも見下ろせる。しかもそこに根付く大きな木は、ルティの部屋に降りてこいと誘うように枝を伸ばしていた。
 ヨルゴスはふんと鼻を鳴らすと、大げさにルティの肩を叩く。
「ああ久しぶりだなあ。ルティリクス、大きくなったねえ。前見た時はこんなに小さかったのに」
 そう言うとヨルゴスは自分の胸の辺りに手のひらですっと線を引く。一体いつのことを言っているのか。
「さきほど会ったではないですか、会議で」
「ああ、そうだっけ?」
 ヨルゴスはとぼける。王太子の顔のままでは話をすることは許さないとばかりに。
 昔からそうだ。この男は、相手をする人間や立場でいくつもの顔を使い分ける。見習うべきだと真似するものの、未だ彼の領域には達せない。
 ルティはふっと小さく息をつくと、肩の力を抜いた。こうして従兄弟の顔で話すのは久々だった。
「相変わらずだな……ヨルゴス」
「君もね」
 にっこりと昔のままの笑顔で笑う従兄の背を、いつの間にか抜かしていることに気がつくと、ルティは自分ばかりが歳を取ったような気分になった。
 彼とは一番歳が近く、王宮にいる時には接触も多かった。他の従兄たちはルティを子供扱いしてばかりだったので、同じく子供扱いされているヨルゴスだけが唯一身近に感じられる人間だった。
 その後次第に疎遠になって来たものの、未だにルティはこの従兄だけには手が出せない。アステリオンにとった手は使えない。もともと女官嫌いというのもあったが、それ以外の手も難しかった。内面を知られすぎているため、裏をかけないのだ。だからこそ継承権争いでも苦戦した。それがどうだろう。一番潜り込ませたくない男の元に、潜り込ませるはずも無かった女がなんなく潜り込んでいる。いや、あどけない子供の顔で、女たちの油断を誘って──わざと潜り込ませたのか。
(こいつのことだから……何か裏があるんじゃないのか?)
 ルティは疑いの眼を向けるが、ヨルゴスは涼しい顔をして、すたすたと小屋に入りメイサの傍まで歩いて行った。
 慌てて追うとヨルゴスは彼を小屋の中に入れてくれた。会議の間は暇そうなセバスティアンに木の上から見張らせていたが、さすがにただの近従が今のルティのような真似は出来ない。小屋で何かあっても押し入るのは無理だった。だから会議が終わった後すっ飛んで来たのだ。なぜだか悲鳴が聞こえると報告を受けていて、彼女一人しか小屋には居ないとは聞いていたものの、気が気で無かった。ルティが開いた会議だったので、飛び出すわけにも行かず、議題を一つ削って駆けて来たのだが──
 整然と片付けられ、埃の払われた部屋を見て──一方埃まみれのメイサを見て、悲鳴の謎が解ける。ルティの知る限り、ここには彼女の苦手なものがたくさんあったはずだった。
「虫がキライなんて可愛いよね。しっかりしてると思ったら、意外なところで女の子みたいで。ぱっと見た感じじゃ平気で叩き殺しそうなのにさ。なんだかくすぐられるなあ。しかも見てよ、この寝顔。無防備にもほどがあるよね。誘ってるとしか思えないよ。知ってる? 僕こういうのに弱いんだよ。もしかして分かっててやってるのかなぁ」
 メイサの体に視線を這わせた後、くすくすと笑いながらルティを観察して来るが、ルティはあっさりと無視する。そして単刀直入に問う。
「寝たのか?」
「ん? なんのこと?」
「こいつと」
「さあ、どうでしょう?」
 無邪気な笑みを浮かべて小首をかしげる。子供のような仕草は大人がやると人の神経を逆撫でする。わざとやっているのかどうなのかは、未だルティには分からなかった。
「そうだとしても言わないよ。嘘つきには僕も嘘ついちゃうもんね。文句言われる筋合いも無いし。文句なら君の母上と僕の母上にお願いね」
「なんでだ」
「二人して押し付けて来たんだ。どっちも色々企んでるみたいだけど、まあいい子だったし、実害も無いし、僕は大歓迎だけど」
 ルティは声に怒りが籠らないようにしながら、言う。
「──泣かせるなよ」
(メイサが嫌がるようなことをすれば、殺す)
 本当は手を出すなと言いたい。だけど、今の彼にはその資格が無い。彼女を泣かせた彼は、メイサが望めばどうしようもないのだ。
 じっと睨むと、ヨルゴスはへらへらと笑ってルティの視線を受け止めた。
「彼女は泣かないよ。僕は気に入った子には優しいし。だけど──その目。もっと言いたいことは他にあるんじゃないかなあ? 大体なんで君にそんなこと言われなくちゃいけないのかなぁ? 君の家からの提案だよ?」
「俺は納得してない。俺は──従姉、いや、家族を大事にしたいだけだ」
「実の妹は自分で散々泣かせてたくせに?」
「……」
「継承権争いに間に合えば、そのスピカでさえ他の王子のところに潜り込ませようと思ってたくせに? へえ?」
「……」
「君は、嘘をつくのが上手だけれど、その一点だけは昔からいくら頑張っても隠しきれないんだねぇ。だから気になってたんだよ。一途なはずの君がその綺麗な体を売って・・・まで必死で守っているお姫様は一体どんな子なんだろうねって」
 ヨルゴスはメイサの寝顔を眺めるのを止め、ルティに向き直った。彼の顔を半分月光が照らし、その猫に似た目がきらりと光った。
 わざわざ否定もしなかった。昔からルティを知るヨルゴスならば理解できたのだろう。ルティが女と寝るのはアステリオンとは全く別の理由だと。
「今なら欲しいって言えば、返してあげられるけど。これから先はどうか分からないよ?」
 ルティはメイサをちらりと見やる。彼女は二人の男に囲まれているというのに、安心し切った顔であどけない寝顔を晒したまま。その表情はまるで子供なのに、……そのはずなのに、ぽってりした唇はひどく甘そうだった。視線をそらすと成熟した女の体が目に入る。見ているとその柔らかさが手のひらに、肌の甘さが舌に蘇る気がした。六年前、一度触れたきりなのに未だに忘れることができない。どんな女を抱いても消すことができなかったことに、今さらながら気が付いて愕然とする。
 彼女の存在全てが匂うようで──ルティを誘って止まない。そう思うのはきっと彼だけではないはずで、それを考えるとヨルゴスの目を潰したいような衝動に駆られる。
(欲しいかだって?)
 欲しいに決まっている。だけど、彼にはそれを口に出来ない。どうしても。
 彼女はルティが怪我の治療で手に触れただけで体を固まらせていた。表面上は癒えているかのように見えていたのに、月日が経っても彼女の傷は全く癒えていなかった。なのに彼女は他の男には体を許せるのだ。その意味が分からないほどルティは愚かではない。彼女が駄目なのは男ではなく──ルティなのだ。
「──それは俺が決めることではない。そいつが決めることだ」
「王太子ならなんでも手に入ると思うんだけど。力づくじゃ駄目なわけ?」
「……」
 ルティが黙り込むと、ヨルゴスは小屋の外へと彼を誘う。冷たい風が二人の髪を煽る。ルティの目の前では、青い月光が鋼の髪を触れたら切れるほどに研いでいた。
「メイサ──って呼ばないんだねえ、いや──呼べないのか。ふうん、なるほどねぇ、君の母上の気持ち、何となく分かったな」
「何が」
 猫の目が細く笑う。何か企みをたたえた顔にルティは警戒した。
「もちろん教えてあげないけどね。だけど僕は王位に興味が無いから、忠告しておくよ。僕の母上──いや、皆の前ではそんな顔をしない方がいいな。きっと僕みたいに虐めたくなるよ。ほら、肉は柔らかそうなところが一番おいしいだろう?」
「肉?」
 訳の分からないたとえに首を傾げている間に、ヨルゴスは小屋の中に一人戻る。ルティは一人月光と静けさの中に残された。

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2010.12.19