20.隠し姫と二人の男 02


 メイサはまどろみの中で二つの声が響いていた気がした。大好きな低い声ともう一つの声はよく似ていたけれど、メイサの優秀な耳はそれを聞き分ける。メイサの好きな声はどこかに去り、もう一つの声だけが部屋に残っていた。
「うーん、でもやっぱりよく分からなくなってきた。あんな顔させてたら、〈お姫様〉があいつの弱点になりかねない。アノヒトの狙いはもしかしたらそこかな。それにしても昔はまだ上手く隠せてたのにねぇ、この頃急におかしくなっちゃったよなぁ──」
(あれ……?)
 声の不在に押し込めていた寂しさが滲み出た。胸の痛みに誘われて目を開く。
「あ、起きた? 随分よく眠っていたね」
 目の前にはヨルゴスの顔。いつの間にか部屋は暗くなっていた。
「あ、あれ? 私、どのくらい眠っていたのでしょうか」
 彼の顔に近さに慌てて飛び起きると、頭の布を取り払って、姿勢を正す。
「寝顔も良かったけれど、寝起きもなかなかそそるなあ」
 ヨルゴスは妙なことを言いながら、実験用の机へと向かった。
 メイサも慌てて後を追う。暖炉を見るとまだ火がつけられたばかりのようで、薪はまだ元の色を多く残していた。
 ヨルゴスは机の上を掌でそっとなぞる。
「うん、綺麗になってる。これなら実験も捗りそうだ」
「一応、鍋の辺りは触ってません」
「それでいいよ。調合が途中だったし、間違って中身に触ったら大変だ」
 彼は鍋の中を覗き込むと、ぶつぶつと何かを呟いて、紙にメモ書きをしている。
「それは何をされていらっしゃるのですか」
「んー、まだ内緒。成功したら教えてあげるよ」
 にっこり笑うヨルゴスがメイサの後ろを気にして顔色を変える。かと思うと、扉が叩かれた。
「入れ」
 ヨルゴスが鋭く言うと、一人の中年の侍従が妙に重そうに小さな箱を抱えて入室して来る。
「──殿下。ご注文の品をお持ちしました」
「ああ、そこに置いておいて」
 ヨルゴスは妙に素っ気ない。メイサに対する態度と随分違い、違和感があった。
「実験の進捗書を頂いてもよろしいでしょうか?」
 男が求めると、ヨルゴスは目で机の端を指した。男はそれを手にするとメイサを一瞥する。
「これがシトゥラの娘ですか。なるほど美しい。母君もようやくご安心出来るでしょうね」
「黙れ。それを持って早く出て行け」
 ヨルゴスが声を荒げると男は一礼して部屋を出た。その珍しいやりとりにメイサは目を見開いた。
(今のって明らかに〈それ〉に反応したような)
 男が母と言った瞬間にヨルゴスが殻に閉じこもるのが見えた気がしたのだ。
「……殿下は母君と仲がお悪いのでしょうか」
「君は──全く遠慮がないね」
 疑問をそのまま口に出すメイサにヨルゴスは呆れたような声を上げた。
「見ての通りだよ。アウストラリスの王子は所詮政治の駒でしかない。けど、僕は利用されるのはキライなんだ。いや僕だけじゃないか。王子ぼくたちの中で母親を慕ってるのはルティリクスくらいだろ」
「ルティ? いえ、ルティリクス殿下だけですか?」
 思わず反応して少々慌てて言い直すと、ヨルゴスはにやっと笑う。「別に無理する必要は無いよ。君たちが仲が良い・・・・のはよく知っている」
 もしかしたらヨルゴスは何か誤解をしているのかもしれないとメイサは焦った。確か訂正はされていると聞いていたけれど──愛妾だと噂が流れていたくらいなのでヨルゴスもそう思っていてもおかしくない。それはシャウラのただでさえ無茶な命令を果たすには障害になるに違いなかった。
「いえ……決して仲は良くないのですが……顔を見れば喧嘩ばかりなのです」
 メイサがヨルゴスのところに来だしてからは険悪と言って良いのではないだろうか。ルティの態度はメイサに喧嘩を売っているとしか思えない。
「へえ」ヨルゴスは眉を上げる。「そういえば、ルティリクスは君のこの仕事に反対してるとか」
 メイサはルティに再び役立たずだと言われたことを思い出してムッとしていた。自分が酔っていないとメイサを抱く気にならなかったからといって──あんな風に言うことは無いではないか。あれは実は割と傷ついた。
「ええ。私のことが信用ならないようです。昔は仕事の邪魔ばかりしている役立たずと言われました。けれど、私だってやれば出来ますし、今度こそお役目を果たしてみせます」
 メイサは怒りに任せて力一杯宣言した。
「ルティリクスを見返してやろうと?」
「……ええと、まあ……」
 結局はそういうことになるかもしれない。その辺は未だ残っているメイサのルティに対する意地だった。
「その役目って、僕と寝ること?」
「…………」
 言い当てられて思わずメイサが絶句すると、ヨルゴスは困ったように頭を掻く。
「うーん……寝るだけでいいんなら寝てあげてもいいけどさ。まず僕はまだ死にたくないんだよねぇ。実験もやりかけだしさ。困ったなあ。虐めるのは面白そうだけど、命かけるほどのことでもないよなあ」
 その言葉にメイサは慌てた。
「虐められるのは困ります。命をかけられるのも」
 数少ない経験では一人の相手の嗜好しか学べなかった。だからあれが一般的にどうなのかもよく分からず、ただでさえいろいろ不安なのに、普通じゃない行為は容量を超えそうだった。メイサが僅かに怯むと、ヨルゴスはなぜか吹き出し、楽しげに笑い続ける。
 とにかく期待に添えず一夜のみで他の女官のように捨てられても困る。誤解は解くべきかもしれないと、メイサは少し考えて言う。
「ええと……申し上げにくいのですが、実は殿下と閨を共にしては駄目だと王妃に言われまして。でも私は──とにかくシトゥラへ援助を頂きたいのです」
 意外に真面目なところのあるヨルゴスには正直に訴えた方が効果的に思えたのだ。まず、メイサには焦らすなどという芸当はとてもじゃないが出来ない。それよりは正々堂々と頼んだ方がきっとうまくいく。そもそもメイサは最初そのつもりだったのだから。
「へえ?」
 ヨルゴスは興味を示し、メイサは彼にシトゥラの現状と北部の深刻な貧困を訴える。それを救うことが今の彼女の使命だと思っていると。「──井戸を掘る為に資金が必要で……それで」
「それで、南部の裕福な家から援助を得たいと。なるほどねぇ、それが君の事情か。あれ? でも、今日の会議で似たような話題を聞いたような気がしたけどな? ……いやあれは井戸ではなかったかなぁ。まあいいや」
 ヨルゴスはぼそぼそと呟いて、話題を打ち切った。
「事情が事情だけに無下に出来ないね。とにかく君の考えは理解した。それから王妃のもなんとなく。なるほどね、寝たら駄目、ね。まああっちもこっちも君次第ということか。さすがに隠し姫は皆に大事にされてるんだなぁ。じゃあ僕はどうしようかなあ。面倒ごとは嫌いだけど、どれが一番面倒臭いかなあ?」
「あの?」
 シャウラの考えもヨルゴスの考えも理解できないメイサは、やはり言ってはまずかったかと不安になる。良い返事はもらえるだろうか。
「うーん、返事はしばらく待ってね? いろいろ秤にかけてみるからさ」
 そう言った後、ヨルゴスは実験に取りかかった。とたん顔つきが別人のように厳しく変わるのを毎回不思議に思う。彼はいつものように計量した銀色の液体を鍋に流し込もうとして、メイサに窓を開けるように鋭く指示をした。忘れていたメイサは慌てる。蒸気に毒性があるそうで、吸うなと言われているのだ。冷たい風に凍えながら暖炉の火に手を当てる。ヨルゴスの真剣な硬い表情を見つめると、メイサは先ほどの話を上手くはぐらかされたことに気が付いた。が、こうなってはもう雑談の相手にはなってくれないことをこの数日でメイサは理解していたのだった。

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2010.12.27