セバスティアンは高いところが苦手だった。
しかし彼の主人は毎日彼を木の上に押しやった。主人の生家であるシトゥラの隠し姫──メイサを見張るのがこのところの彼の仕事の全てだった。元々主人は一人でなんでもやってしまう方で、セバスティアンの手など全く必要がないのだ。
この頃はまだ少しは仕事を任せてもらえるものの、任についてから重要な役割など与えてもらったことが一度も無い。実は彼は主人よりも一つ年上なのだが、何一つでも主人に勝ったことが無い。そんな男の傍付きは皆が皆嫌がった。女たちに男として見られないからだ。
そのせいもあって、長い間セバスティアンには恋人が出来なかった。決して彼は地味な男ではない。顔立ちだって華やかな方だし、背だって高い方だし、給料だって悪くない。実際王宮に上がるまではモテていた。しかし──美しい女官達は揃ってルティリクス王子に夢中で、セバスティアンなど虫ほどにも意識されていなかった。
唯一意識して声をかけてくれたのが、メイサだった。彼女はただの女官であり、様付けをするような相手ではないのだけれど、彼はよく心の中で彼女をメイサ
王妃の直下で働いていた彼女が、野暮ったい女官服を着替えたあの時をセバスティアンは忘れられない。そう、あの瞬間から彼女はセバスティアンの中でメイサ様になったのだ。
仮面を被っているのではないかと思える殿下でさえ、彼女の変貌に目を見はっていた。直後古い女官服を再び用意させたことで、セバスティアンは彼女が殿下の想い人なのだろうと確信した──はずだったのだが……。
しかし殿下は彼女に決して手を出さないのだ。その理由がどうしても分からず、セバスティアンは自分の思い込みなのだろうかと悩み続けている。
殿下は彼女が閨に現れる日、隣室であるセバスティアンの部屋のベッドを占領した。そのため彼の寝床は床になった。部屋を出るふりをして、彼の狭い部屋に入り込むのだ。女官の部屋に行かれればどれだけ喜ばれるだろうと思うのに、殿下はあえて冷たく固い寝台を望まれた。そして彼女が自室に戻るのを見計らってご自分も部屋に戻られる。殿下のあの行動は未だセバスティアンの中で謎のまま。
そうして今も相変わらず殿下はメイサ様を気にされている。夜、木に登るくらいに気にされているというのに、やはり手を出されない。彼女が自分の部屋に戻るまで、眼を光らせ続けているだけだ。
今までの彼の色恋沙汰を散々見て来ただけに、余計に理解不能だった。メイサが現れる前まで、彼の部屋に入ることは彼の寝台に連れ込まれることと同義。つまり愛妾になることと同義だったのだから。
そこまで考えて、ふとセバスティアンは主の行動に想いを馳せた。
(そういえば、このところ、殿下はいつもお一人だなあ)
やはりお忙しいからだろうか。彼の主はこのところ遠出も多く、一人であちこちを飛び回っていて、例のごとく近従でさえも全部を把握できずに居る。随分前だが、王妃に運悪く捕まった時にセバスティアンは主の行動について追求され──最後にはあまりに把握していないことに呆れられた。が、主にとってはそれが都合がいいようだった。
赤い髪を靡かせ、凍てつく風の中にたった一人で立っている──それが、セバスティアンの持つ、ルティリクス王太子という人の印象だった。なぜか、それはどんなに暖かい部屋で彼の腕の中に女が居ようと変わらなかった。しかも、今は主は本当に一人で夜を過ごされている。
(ああ、冬こそ人肌が恋しくなるというのに)
冷たい風が木の葉を揺らし、頬をなでる。体を震わせ、セバスティアンは我が身を振り返る。
「俺も早く暖かいところに行きたいなあ」
セバスティアンはかじかんだ指先に息を当てながらぼやく。しかし思わず口元がにやけるのは抑えられなかった。
そうなのだ。彼にもようやく春がやって来た。つまり可愛らしい恋人が出来たのだった。
今日こそは、冷えた体を武器に彼女のベッドに潜り込んでやろうと決心する。──ここ数日、毎晩のことだったのだが。
彼らの出会いは、セバスティアンの目の前で殿下に「気乗りしない」と彼女があっさり切り捨てられたという、彼女にとっては最悪のものであった。
愕然とする彼女を慰めた──それが結局はセバスティアンと彼女の馴れ初めではあったのだが……彼女はなかなか口づけより先を許してくれない。もう付き合って三月ほどになるというのに、彼はずっとお預けを食らっている。決して許さないという雰囲気ではないのに、いざ求めればするりと逃げられるのだ。
(もしかしたら、初めてなのかなあ)
彼女は今は王宮で下働きをしているが、随分前、王子の女官として勤め出したという話だった。目にかけてもらえずに不遇な時期を過ごして──再起を図ったと聞いた。昔の勤め先がどの王子の元なのかは尋ねずに居る。可能性の高い、アステリオンという名を聞きたくないからなのだが。もしそうならば、セバスティアンの幻想はまず有り得ないからだ。未だに手を握れば頬を染めるような──あまりに初々しい様子はそれを否定しているかに思えるし、彼はもう少し夢を見ていたい気分だった。実のところはその辺が明らかになり、彼女を見る目が変わってしまうのが怖いのだ。もちろん過去の男のことで自分の気持ちを変えはしないと──そもそも娼館で遊んだことのあるような自分が言える立場ではないのだが──強く思ってはいるのだけれど。その辺はまだ知らぬ自分の独占欲とよく相談していかなければならない。
そんなことを考えていると、会議の終了を示す鐘の音がどこからか聞こえて来た。あの鐘の音が消えれば、間もなくセバスティアンの過酷な任務も終了だ。彼は来る恋人との時間を思い浮かべてにんまりと笑った。
*
鐘の音が鳴り止む頃、主は部屋に戻られた。そして、すぐにセバスティアンからメイサについての報告を受け取った。
「いつも通り、異常ありませんでした」
そもそも中庭には入り口は二つ。ヨルゴス王子の部屋を抜けるか、それかルティリクス王子の部屋の窓を伝うしか無い。侵入者はほとんど無いと言っていいのだ。ヨルゴス王子側の衛兵が変な気を起こすなどしなければ。つまりセバスティアンはそれを一日中見張っている。といっても──大抵はメイサに見とれて過ごしているのだが。
そんな箱庭の中で、メイサは相変わらず小屋の掃除や庭の手入れを楽しんでいるだけだった。
新しく入って来た侍女がそれを手伝っていた。ルイザという名だそうで、彼女がやって来てからセバスティアンの任務は精神的に多少楽になった。というのも、主人がそれまでよりもぴりぴりしなくなったからだ。
どこからか流れて来た、ヨルゴス殿下の愛妾ではなく実験助手という噂は本当らしい。少なくとも昼間の彼女の働きを見ているとそのように思えた。
箒とはたきを持って、よれた地味な服に身を包む姿は、まるで下働きの女のようだが──時折差し込む日の光に輝く赤い髪や、遠目でもはっきり分かる魅惑的な体の線に気が付くと、着ている服がきらびやかなドレスにも見えるから不思議だった。
「そういえば、今日は
「鬱金? 薬の?」
セバスティアンは問われて首を傾げる。
鬱金は国内でよく用いられる香辛料だったはず。西部原産で、根が食用。特徴のある辛さがある。──その程度の知識しかセバスティアンには無い。
セバスティアンが報告を終え、いそいそと退出の準備を整えて扉を出ようとしたところで、咳払いと低い声が彼を引き止める。
「セバスティアン、お前、あの女とはどうなっている?」
振り向くと殿下は防寒のために分厚いマントを羽織っているところだった。上等な黒テンの毛皮で出来たものだ。セバスティアンが毛織りのマントで震えるのとは大違いだ。いや、毛皮くらい着ないと、夜のあの冷気の中では死ぬに違いない。風邪を引かないのが不思議でしょうがないくらいだ。……鍛え方が違うのかもしれないが。
「あ──ええと、あの女というのは」
「確か、テオドラと言ったか。まさかとは思うが、こちらの情報を漏らしては無いだろうな?」
「は、はあ」
セバスティアンは彼女の名が覚えられていたことにまず驚く。あんなに一瞬に切り捨てたくせに。それに随分経って今更言われて気分を悪くする。自身が信用されていないような物言いにも。
僅かに眉をひそめたのを目ざとく見咎められ、睨まれる。
「あの女は怪しい。だから捨てたのに勝手に拾っただろう。お前が入れ込んでいるようだから調べたが……確か、昔女官勤めをしていたと言っていたが、どこに勤めていたのかが分からない。
「……」
恋人を悪く言われて、ふて腐れる。が、確かに主が言うように彼女に語尾が高くなるという西部独特の訛りは無かった。
主はセバスティアンの不機嫌もさらりと流して続けた。
「どちらかというと、南部に近いと俺は思った」
「南部と言うと──」
「南部は名家が多いからな。アルゴル、アステリオン、ヨルゴス……大抵が南部出身だ。アルゴルの郷はヘヴェリウス、アステリオンの郷はグルーシコ、ヨルゴスの郷はカルダーノ。訛りで判断は出来ない」
セバスティアンは話を聞きながら、個人的にはテオドラがアルゴル王子かヨルゴス王子の女官だったらいいとこっそり考える。
「ともかく、あれにはあまり入れ込むな。どうしても必要なら女は別で用意してやる」
「え、でも」
思ってもみない提案にセバスティアンの胸は跳ねた。しかし、先ほど彼女への愛を自分自身に誓ったばかりだったような──気もしないではない。やはり良心が疼く。が──殿下のところには上等な女が多いのだ。セバスティアンがいくら頑張っても出逢うことの出来ないくらいの。
悶々と考えている間に、殿下は窓から中庭を見下ろしながら何かぶつぶつと呟いている。
「どうせ、今は構っている暇がないし、独り身に任せればアイツが危険だし、まあルイザが居るから大丈夫かもしれないが……他に男手はないしな」
「危険? 何がですか?」
主人は答えず、目を瞑ると、黙り込む。暫く後、赤い睫毛が持ち上がり、茶色の眼光がセバスティアンを刺した。
「──そうか。守ってばかりなのがまずいのか。お前、逆に探れるか?」
「何をですか?」
突然の任務にセバスティアンは今度こそ本気で飛び上がった。
「女の素性に決まっているだろう。それが出来ないなら今のうちに別れておけ。多分その方がお前の為だ」
「無理です。探るのも、別れるのも」
セバスティアンは即答する。主人は呆れた。
「なんで俺の近くにいる男は、使えないヤツが多いんだ。簡単だろう、一晩寝れば大抵の女はいろいろ喋る」
セバスティアンは主人をじっと見つめる。黒テンの毛皮が部屋の照明につやつやと光る。着こなしの難しいはずの衣装だ。しかしそれは彼の野性的な魅力を引き立てていた。
「………………あの」
「なんだ」
「殿下、それ、本気で言っていらっしゃいます?」
「は?」
「私は
そして、辿り着く為にしばらく努力をする必要があることも、何となく予想できていた。王子である彼にその努力が理解されるとは思わない。が、もしもセバスティアンが王子で女が寄って来るような境遇であったとしても、一晩寝ただけで、心を全てつかめるなどとは全く思えない。嫌々相手をされているというアステリオン王子がいい例だ。そんなことが出来るのは、この方の特殊技能でしかない。コツがあるのなら伝授願いたいが、そんなものはきっとない。
「私には、無理です。私は殿下ではありません」
セバスティアンは言っていて年下の主人との差異に情けなくなって来た。が、突然に無理難題──しかもなんだか重要そう──を押し付けられるのも困ると、涙眼で訴えた。彼は実は想定外のことにめっぽう弱いのだ。メイサの見張りも慣れるまでは緊張の連続で、木から落ちそうになった事もある。その上に更なる任務──しかもなんだか精神的に辛そう──となると、許容範囲を超えていた。
主人は心底呆れた顔で「もういい。お前に頼んだのが間違いだった」と木を伝い下へと降りて行く。降りながら「とにかく、あの女には気をつけろ」とテオドラのことで釘を刺すのも忘れなかった。
(いつものこと……だけどなあ)
期待されないのはいつものことだったのだけど、今日は何か違った気がした。はじめて、微かに頼られたような気がしたからかもしれない。
それでも赤い髪が中庭の深い闇に消える頃にはセバスティアンは少々気を取り直す。しかし受け止めた言葉の数々が胸を押しつぶしたままに、少々重い足取りで恋人との逢い引きへと出かけた。