3.闇の皇子 01
 昨夜使われることの無かった茶色の液体は、薄く差し込む朝日の中でたゆとうていた。まるで役目を終えたかのような、飲んでも実は死なないのではないかと思えるくらい、穏やかな液体に見えてきていた。
 スピカがあんな風に消えたと同時に、その液体から殺意が消えてしまった。不思議なくらいだった。
「メイサ様」
 ルイザが部屋を覗き込む。手元の壜を慌てて枕の下に隠した。
「なに?」
「カーラ様がお呼びです」
「……また?」
(何の話かしら、……まさか、昨日のこと……)
 メイサは結局〈何も〉出来なかったのだ。スピカは逃げてしまったから。
 空っぽの部屋や、屋敷の者を総動員したルティの命令。状況を考えるとそれしか答えが無かった。
 関わりは見つからないはず。関わる前に勝手に冬の大地へ飛び出して、いなくなった。この時期、夜に外にいることは自殺行為に等しいはず。知らなかったのだろうか。それとも、それほどルティとの結婚を嫌がったのだろうか。あの人形の様な彼女からは、そんな強さはとても伺えなかったけれど。
 いなくなったことで、初めて〈スピカ〉の内面を知った気がした。もしかしたら〈ラナ〉のような女なのかもしれない。〈クレイル〉に全く執着せずにシトゥラを飛び出した、あの娘のような。僅かな興味が湧いた。メイサの殺意は、昨日扉を開けた時を頂点に、薄れ始めていた。

 当主の部屋に向かいながら、カーラの呼び出しの理由を探る。深刻なものではないとは思うけれど……それにしては、このところ些細なことでの呼び出しが多過ぎる。半年前、女官の話を嫌がった辺りからかもしれない。家にたてつこうとしていると思われたのかもしれない。メイサが女官の話を嫌がった理由はただ一つ。スピカに〈クレイル〉を奪われたくなかったからだというのに。
 〈クレイル〉――それはメイサの持つ正当な権利でもあったはず。譲れと言われて、そんなに簡単には手放せなかった。手に入れたとしても、スピカが本当に役に立つかどうかは分からないのだし。〈ラナ〉や母のように壊れてしまうかもしれないのだし。
 そう説明したというのに、彼女は何か様子を伺っている。その老いても鋭いままの茶色の瞳は彼女を観察し続けている。
(ああ、憂鬱だわ)
 ふいに思い出したやり取りにメイサの心は一気に曇る。


『もしや、好きな男がいるわけではあるまいな?』
 どうしてそんな話になったのかは覚えていないけれど、カーラは突然そう尋ねたのだ。
『いるわけがありません。私に出会いが無いのはお分かりでしょう?』
 そう言ったものの、彼女には会うことが出来る男はいた。しかし、閉じ込められたメイサが恋をするのならば、相手は必然的に絞られる。使用人との身分違いとの恋を除けば、その相手は一人しかいない。どちらの恋も、カーラは認めない。
『分かっておるかもしれぬが……お前は結婚は出来ぬ』
『分かっています』
 なぜこんなに胸が痛いのだろうと思いながら強がった。もう、何年も前に無理矢理に縫い合わせた傷。なぜこの人は今になってそれを開こうとするのか。
『分かっています、私の血は――濃過ぎる』
『……分かっておるのなら良い。もし、ルティリクスを気にしているのであれば、釘を刺しておかねばと思っておった。あの件があるしの、まさかとは思うが』
 茶色の瞳が探る。喉が干上がる。
『まさか、です。私は彼を赦してはいないもの』
 何度も自分に言いきかせてきた言葉を口に出すと、それは刃となってメイサを斬りつけた。
『そうよの。お前はシトゥラの娘。そのくらいでないと勤まらぬ。安心したぞ? このところ様子がおかしかったからの。恋などして、他の〈役立たず〉のようになったのかと心配しておった』
 それ以上何か言えば声が震えそうだった。何か、決して漏らしてはいけない感情が漏れ出てしまいそうだった。喉を焼く熱に必死で堪え、結局は無言で頷くことしかできなかった。


(私がしがみついているものってなんなんだろう)
 メイサは空しかった。彼女が必死でしがみついている〈クレイル〉という地位は、本当に価値のあるものなのか。〈クレイル〉になったからと言って、本当にそこに自分の幸せはあるのだろうか。
 そんなことを考えてみるものの、答えは出ない。幼い頃から〈クレイル〉はメイサの全てだった。そう信じて生きてきたのだから当然だった。

 カーラはいつも通り部屋の中央に据えられた椅子にゆったりと腰掛けメイサを待っていた。目の前に小さな椅子が用意されている。カーラの肘掛け付きの椅子と比べると随分と簡素だ。その椅子の造りの差はそのままこの家での地位を表しているかのようだった。
「お前に〈クレイル〉になるチャンスをやろうと思う」
 腰掛けるなり放たれた言葉にメイサは耳を疑った。
「え?」
お客様・・・の相手をしておいで」
「客って?」
「相手は上客だよ、何といっても皇子だからのう」
(皇子?)
 メイサは訳が分からず説明を促した。
「新妻を追いかけてやってきたのだよ。……といっても、記憶を失ってはおるが」
 皇子、新妻、記憶、その言葉が示す人物はメイサの知る限り一人しかいない。
「まさか」
「〈闇の皇子〉だ。わざわざやって来てくれるとはの。あのレグルスという――盗人でも役に立つことがあるものだ」
「レグルスって」
 たしか、〈ラナ〉が身を投じた男の名がそんな名ではなかっただろうか。つまりは、あのスピカの父の名だ。昔、せっかく逃げ出した〈ラナ〉を嫁にもらうとわざわざ挨拶に来た愚かな男――とメイサは聞かされ続けてきた。その割に、シトゥラが彼らを再び捕らえ損ねたことについて尋ねると、大人は皆気まずそうに黙り込むのだ。
「昔からアヤツは愚かだと思っていたが、ここまでとはの」
 そう毒づいてふははと笑う。カーラは珍しく愉快そうだった。気になったけれど、メイサはそれよりも腑に落ちないことがある。
「なぜ、今頃私を〈クレイル〉になどと? ……既にスピカは手に入ったと、そしてルティと結婚、」
 思わず口にして、はっと口を押さえる。まだ、メイサはそのことを知らないはずだった。
「は、やはり知っておったか。盗み聞きか? それとも覗き見かの? ルティに入れ知恵されて、随分腐ったものよの。行儀の悪い娘は仕置きをしなくてはと思っておった」
 どうやらしっかりばれていたようだった。確認するつもりで吹っかけたのかもしれない。
「チャンスとはどういう意味です」
 仕置きという言葉に、背筋が冷えた。逃れたくて、誤摩化すように口にする。
 鼠は猫の前に無謀に晒されて、牙をむかれていた。鼠は小さな穴に――行き止まりだと知っていながらも――逃れるしかない。それでさらに追い込まれてしまうのは分かっているのに。
「そのままの意味だ。お前の儀式は〈途中〉で終わったままだからの。――丁度良いだろう? 〈闇の皇子〉はジョイアの宝。預かれるのも数日だ。彼の闇の者との儀式など、今を逃せば不可能なのだよ。首尾よくことを終えれば――王宮行きは見逃してやっても良いぞ?」


 メイサに残された道はそう多くなかった。
「かの皇子はまだ若い。その上、女と見紛うばかりの美しい少年だ。学んだ通りに、せいぜい可愛がってやるとよい」
 冗談じゃなかった。
(なんで私が――)
 そう口まで出かかったものの、直前でどうにか堪えた。カーラが試していると気が付いたのだ。
 ――メイサが〈シトゥラ〉の娘でいるつもりなのか、どうか。
 もちろん〈儀式〉の意味合いもある。メイサの儀式は五年前、あのときに中断したままだった。けれど……カーラは知っているはずだった。もうメイサに儀式の必要がないということを。どうあがいても〈クレイル〉にはなれないということを。
 それでもメイサがその地位にしがみついているのを知っていて、試しているのだ。お前は、〈クレイル〉になるために何でもやるのかと。出来るのか、と。――国のために、何かをなせるのか、と。
 むしろ喜んで受けるのが、本物の〈クレイル〉なのかもしれない。カーラも若い時分にはそうして生きてきたのだろう。なにしろ、相手は〈闇の皇子〉であり、ジョイアの皇子なのだ。アウストラリスのために情報の一つでも引き出すのがクレイルに相応しい。
 〈力〉はなくとも、それに代わる何かを――、そういう意味ならば、メイサの持つものはこの体一つだった。
 湯浴みのたびに鏡の前で確かめた自分の体。スピカとは趣は異なるかもしれないけれど、この体は美しかった。ただの入れ物だと感じることも多かったけれど、磨けば磨くほど、皆、口々に美しいと言ってくれた。
 日に当たらない肌は染み一つない。スピカよりも、さらに柔らかさを強調する体は男をきっと魅了するだろう。

 カーラはそれを使えと言っていた。
「お祖母様は……何を、お知りになりたいのです」
 メイサは気が付いたときにはそう尋ねていた。

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2010.05.08