21.暗躍する影たち 03


 寒気が久々にゆるみ、暖かい朝だった。
 ザクザクという音が中庭に響く。今日はルイザが畑を耕しているのだ。球根が余ってしまい、ヨルゴスにもう少し畑を増やしていいか問うたら、構わないとのことだった。他のものも植えてくれとついでに頼まれて、今朝から取りかかっている。
 ルイザは昼間のヨルゴスが居ない間のみ、メイサを手伝うことを許されていて、夜はメイサ一人でヨルゴスに仕えることとなっている。ルイザはひどく渋ったけれど、当然、王子に進言できる立場ではないし、メイサはどちらにせよ夜の仕事はルイザには少々難しいかもしれないなと感じていた。
 どうもルイザは計算が不得意らしいのだ。調合の比率の計算が苦手のようで、早々にヨルゴスに首を切られてしまった。メイサは、逆にそういった計算は全く苦にならず、〈優秀〉な助手を務め続けている。これは女性には珍しいことらしい。ヨルゴスはその点を手放しに褒めた。褒められることには慣れていないため妙にくすぐったいが、やはり嬉しい。能力を褒められることなど、産まれてはじめてだったから余計にだ。やりがいを感じて、日々の業務を張り切っている。

 小屋の掃除を一通り終えたメイサは、小さな物音を感じて部屋の扉を開けた。瞬間、目に入った鋼の髪に驚いた。会議のある日に彼が昼間部屋に居ることは無いはずだった。日差しが暖かい色を落とした肘掛け椅子に座っている。日だまりの中で、ヨルゴスは熱心に何かを読んでいた。慌てつつ丁寧にお茶を入れて、ヨルゴスのそばに寄る。
「今日は会議は無いのですか?」
 尋ねると、彼は書類から目を離し、前傾した姿勢を正して、メイサに向き合う。
「ああ、ルティリクスが休暇だから、今日は会議は中止」
「妃候補の接待でしょうか?」
 昨日はじめて顔合わせがあったと聞いた。もしかしたら第一印象で気に入って話を進める気になったのかもしれない。しかし、ヨルゴスは首を振る。
「風邪だって。高熱出して倒れてる」
「ええ? ルティが?」
 思わず愛称を呼んでメイサはあっと口を押さえたが、ヨルゴスは何も気にせずににこりと笑う。その目は窓から見える庭の大きな木に向けられた。
「この頃冷えるからしょうがないよね。やっぱり外は寒いし。接待どころじゃないよ、進行中の会議に出れないくらいなんだから。北部の土壌の調査報告、気になってたんだけどなあ」
 メイサには既に聞こえていない。ルティの風邪など──ここ数年聞いたことが無い。少なくとも二十一の時に再会してから一度もないのだ。
「あ、あのっ──」
 しかしメイサは言いよどんだ。看病に駆けつけるにも──メイサにはその資格が無い。ルティの傍付きではない。王妃の傍付きでもない。もう従姉でも──ない。一介の女官が許可も得ず近づくことは許されないのだ。
「なに?」
「──なんでもありません」
 何もしてあげられないことに愕然としていると、ヨルゴスが小さくため息をつく。
 そしてメイサの表情を確かめるように、じっと顔を見つめた。
「なんで君までそんな顔するかねぇ」
 そう言った顔には僅かに悔しそうな色が出た。しかし、彼が俯くと鋼色の髪がその表情を隠す。次にその茶色の瞳が現れた時には、それは面白そうな色を宿していた。
「負け戦はしたくないし、勝算は確かめておいた方が良さそうか」
 彼はそう呟くと、続けてにっと笑った。
「じゃあ、手始めに──届け物をしてもらおうかな」

 ヨルゴスの様子は変だった。戦とか勝算とか──気になったから意味を問うたけれど、まだ教えてあげないと拒まれた。
 そして──届け物、それは粉薬だった。しかもそれには昨晩メイサが調合したものも含まれている。
 直前の会話が気になって──まさか毒薬? という不安が顔に出てしまったのだろう。彼はメイサの目の前でそれをひと匙救って飲んでみせた。『風邪薬だって』と笑いながら。
従兄弟・・・なんだ、心配してもおかしくないだろう?』
 付け加えてそう言ったけれど、とても納得はできなかった。〈いとこ〉という響き──その響きが持つ関係は、もっと暖かく、優しくて、そして切ないものだ。従兄弟であってもライバルでもあるヨルゴスとルティにはしっくり来ない。そんなことを考えて泣きたくなった。先ほどの愕然とした気持ちを引きずっていたらしい。昔厭うていた血の繋がりが今は羨ましかった。家族として支えたい。そう思っていたのに、その望みは彼が王に近づくほど許されなくなっていく。そのことにようやく気が付いたのだ。彼が妃を娶れば──余計にメイサは彼を守ることが許されなくなる。ルティがメイサを女として見ないことを妃が理解すると思うほど、メイサはとぼけてはいなかった。たとえどんなに魅力の無い女であったとしても、女から見れば夫の傍に居る女は気に食わなくて仕方が無い。夫婦仲を裂かない為にも、出来得る限り近づかないのが、賢明だろう。
 ルティが結婚するということがどういうことか。分かっていたはずなのに──いや──本当に分かっていたのだろうか?
(今頃になってこんな風に思うのはどうかしているわ)
 一歩一歩階段を踏みしめながら、熱くなりかけた目頭を指で押さえる。
(この場所がいけないのかもしれない)
 まだ寒さの欠片も無い頃だった。彼の隣で刺繍をしていた穏やかな日々。従姉として傍に居ることができた、あの幸せな一年を思い出してしまうから──

 階段を上り詰めた向こう側には、懐かしい、約半年ぶりの景色が広がりだした。
 まず太陽に焼けた地平線が目に入った。そして階段を上り終えると、石で出来た柵の向こうに城下町が見えた。やはり石造りの家が建ち並ぶが、黄色くくすんでいて、王宮とは比べ物にならない。材料も、造りも、住んでいる人間もなにもかも。
 地元では大きくともここに並べば霞んでしまうであろう、故郷のムフリッドの家を思い出しながらメイサはその部屋に近づく。
 と、部屋の前で、一人の少女と蜂あわせた。
「あら?」
 振り向いた少女は銀の髪と灰の瞳をしていた。色素が薄く、そこだけ色が浮いている印象だ。あまりの白さに、メイサは自分よりも色の白い人間を国内で見たことが無いことを思い出す。ということは──彼女は。
「あなたは?」
 見た目とは違う鋭い視線にメイサはおやと眉を上げる。が、すぐに頭を仕事へと切り替えた。
「女官のメイサです。──お薬をおもちいたしました」
「あら、そう」
 少女はじっとメイサを観察した。いつも来ている作業着──つまりは汚れても良い服──のまま飛び出してしまったため、全体的に薄汚れているはずだった。髪もひっつめて布で覆っている。化粧もしていない。少女のきらびやかな銀の衣装や背に垂らした髪、華やかな化粧がさらにメイサの恰好を貶めるような気がした。
 思わずぎゅっと薬液で汚れたエプロンを握ると、シェリアはようやく視線をそらす。そしてそれ以上メイサを気にすることなく、「シェリア様、どうぞ」と侍従のセバスティアンに呼ばれてメイサの目的地へといざなわれた。
(ああ)
 やっぱりメイサの勘は当たったようだ。彼女が、ジョイアから来た妃候補の一人だ。
 思ったほど取り乱さなかった自分に安心したものの、揺れてしまっている自分を疑いもした。頭の芯がぼうっとする。心を殺すのに必死になっていると気が付く。どうやら深く考えまいとしているだけだった。

 *

 目の前には美しく着飾った銀の髪の美少女。そして、自分の二歩後ろに地味な女官服を着た赤い髪の美女。セバスティアンは二人の女に挟まれて歩きながら、妙に高鳴る胸を左手で押さえていた。

 どうしてもお見舞い申し上げたいと引き下がらないシェリアに、セバスティアンは困り果て、主人に泣きついた。彼は渋々上着を羽織り、寝台の上に半身を起こしている。
 連日の極寒の中での激務は、まずセバスティアンを。次に主人を叩きのめした。
 セバスティアンは鼻水と熱で済んだけれど、主人はセバスティアンよりも多く冷気を浴びた分、しかも寒気を酒で誤摩化していた分だけ、症状が悪化してしまったのだ。高熱と咳。しかし、さすがにセバスティアンとは違って、鍛え方が違うためだろう。もう多少熱も下がり回復の兆しは見えていたが、僅かに怠そうに見える。彼がそんな風に表に出すことは滅多に無い。だから結構辛いのではないだろうか。
 近従失格だと言われても仕方が無いというのに、主人はいつも通り、セバスティアンの管理能力を責めたりはしなかった。つまりは、その辺を期待されていないということでもあるのだが。

(それにしても、この緊張感はなんだろうなあ)
 かたや妃候補。かたや女官で、セバスティアンとしてはもちろんシェリアだけを気にすればいいはず。だが──何か胸騒ぎがするのだ。
 シェリアはなぜかセバスティアンの案内を断って、一人でどんどん先に進んでしまっていた。確かに窓に近い所に置かれた寝台へ真っ直ぐ進めばいいだけのことだが、積極的な態度がなんとなく腑に落ちない。可憐な印象がするだけに、余計に。
 腰よりも長く伸ばした髪が背で跳ねている。いや、違う、背で一度編み込んでいるので、実際は背の丈ほどの長さかもしれない。なぜこんなにもと、考えかけて──確かジョイアでは髪の長さが美しさの基準だと思い出した。〈スピカ〉でさえ、髪が短い──といっても背の中程はあったと聞く──ため、ジョイアから美しいという評価が流れて来なかったのだ。長ければ長いほどいいというけれど、これはかなりの長さだった。しかも美しい銀の髪。髪だけを基準にするならば国一番の美人と言ってもいいのではないだろうか。本人が堂々としているのもその自信に基づいているのかもしれない。
(……もちろん美しいには美しいんだけれどなあ。俺はもうちょっと色気のある人が好きかもなあ)
 例えば、彼の恋人のテオドラ──主人にはちくちく言われつつもまだ別れていないし、未だ深い仲にもなれていないのだが──は、女らしいふっくらとした体つきが大変魅力的なのだ。セバスティアンの理想に近い女性だった。
 セバスティアンはそこでちらと自分の後ろを振り返った。
(だけど、この人は理想そのものなんだよなあ)
 どれだけの男がそう思っているかは知らないが。
 後ろの美女は地味な服──それどころか今日はボロだと言っていいかもしれない──を纏っているし、髪は後ろで纏めてしまって全く飾り気はない。なのに、どうしても惹き付けられてしまう。赤という色はそれだけで目を引くのに、彼女の容姿はその高貴な色に釣り合っているからか。それとも、容姿ではなく、醸し出す意外に気さくな雰囲気のせいか。美しい女性にしては近寄った時に垣根が低いのだ。それが不思議でならなかった。
 先ほど、来客なので、後にしますか?と尋ねたが、彼女はお届けものを渡してすぐに帰りますと言った。風邪薬なのだそうだ。セバスティアンが預かろうとしたけれど、ヨルゴス王子に症状を報告しなければいけないしと言い訳するように付け加えた。その雰囲気で──何となくだけれど、心配なのだろうというのが分かったので、あっさりと通してしまった。というよりも、「少しだけでも」と言われて──「少しだけなら」と折れた。美女の願いはきかずにはいれない。もてない男の性である。
(あれ? そういえば)
 毎日盗み見ているから忘れがちだが、よく考えれば彼女がこの部屋に来るのは随分久しぶりだった。会話をするのも本当に久しぶりだ。昔の癖でセバスティアンは深く考えなかったが、通して良いかは主に伺うべきだったかもしれない。
 急に、主のメイサへの態度をシェリアが知るのはまずいような気がしてきた。おそらくそれが胸騒ぎのもとだ。
(やっぱり、俺は仕事ができないのかなあ)
 以前の職場では上司に叱ってもらいながら仕事をやっと覚えていたのだ。主人に注意されないのをいいことに、ついついそのままになってしまう。
 どうもルティリクス殿下という人は部下に甘過ぎる。
 そう思いながらセバスティアンがため息をついた時には、既にシェリアが主人の前で立ち止まってしまっていた。

copyrignt(c)2008-,山本風碧 all rights reseaved.

2011.1.13