男の匂いがした。
シェリアの鼻に慣れない匂いだ。この国独特の香料が使用されているのだろうか。嗅いだことは無いが、しかし不快ではない。何と表現すればいいか──甘くなく、僅かに辛みのある爽やかな匂いだ。女性は決して使わないだろう。
鼻を鳴らしかけて、辛うじて留まる。さすがに、未来の夫の前ではおしとやかに様子を見るのが得策だ。
「ご無理を言って申し訳ありません。どうしても一言お見舞いを申し上げたくて」
「いえ」
鼻声で王太子は答える。が、億劫そうな気配は隠そうとしていない。本気で辛いのか、それとも早く追い出したいのか。
一歩進むと、天井から垂らされた薄布越しに人影がさらに濃く映った。
影が僅かに動く。布に遮られてはっきりとは分からないが、男がこちらを見たのが分かった。
「見苦しいところをお見せして申し訳ない。……今日は王宮内を案内しようと思っていたのだが……、回復し次第案内することにします」
突然の訪問に対しても丁寧な物言いだった。拒絶はされていないことにほっとしつつも、よそ行き用、そんな印象を受けて、そこに妙に厚い壁を感じる。心に寄り添うのにひどく時間がかかるような予感がするのだ。
「ありがとうございます。お声を頂きやっと安心いたしました。どうかお気遣い無さらずに。ごゆっくりお休みくださいませ」
シェリアは丁寧に返すと、なぜか入室して来ている後ろの女官を見やった。
先ほど部屋の前で会った、ひどくみずぼらしい服を身に纏った女。女官と言っていたけれど、下働きの間違いでは無いだろうか。名を聞いた気もしたけれど、すぐに忘れてしまった。
しかし顔立ちを見て、何となく──あのスピカを思い出した。なぜだろうと思って、僅かに観察したけれど、赤い髪、茶色の目は、王太子と同じ。つまりはスピカとも血縁なのだろうと思い当たった。
気になったのは豊かな胸だ。シェリアはかなり華奢なため、子供のような自分の体型に劣等感を抱いている。もちろん、それ以外の魅力が自分にあることは十分分かっているのだけれど──その劣等感のせいで、女性を見るとまず胸に目がいってしまうのだ。もう癖みたいになってしまっている。
あのスピカの胸の二倍ほどあるのではないか。下手すると桁が変わりそうなので、自分のものとはあえて比べないが。
そんな彼女の体つきに、なぜか既視感を感じた。不思議に思いながらも気のせいかと流していたのだけれど、部屋の隅に生けてあった赤い花を見てすぐに思い出した。多少品の無い派手な色と自らを誇張するような大きな花びら。その花と同じ印象の女、エリダヌス──いや偽のエリダヌスと言えばいいか。
一昨年の不愉快な事件を思い出して、シェリアは僅かに眉をしかめる。シェリアはあの事件を利用して、スピカを追い落とせると小躍りしたものだ。だが、そう上手くはいかなかった。どこでどうバレたのか、いつの間にか自分の立場の方が危ういことになっていたのだ。他人の敷いた布陣で戦おうとしたのが間違いのもとだったと今は反省している。やはり全て自分で把握して置くべきで、駒も自分で置いたものだけを信じるべきだった。
(それにしても、なぜかしら。なにか嫌な感じがする)
一介の女官など捨て置けばいいのに、なんでこんなに気になるのか。
取るに足らない存在を気にする自分が気に入らない。だからシェリアはひたすら女官の存在を無視をし続けていた。
(そうよ、何を気にすることがあるの)
虫けらには用は無い。さっさと邪魔者は退出させて、二人きりで王太子との距離を縮めるのだ。
「そういえば、お薬が届いているそうなのです」
「──薬?」
王太子は、僅かに気怠そうな声で尋ねる。そこで後ろに控えていた女が一歩歩み出て、持っていた大きな袋から小さな包みを一つ出した。
「ヨルゴス殿下から、お届けものでございます」
声が部屋に響くと、一瞬の間があった。
「──ヨルゴス……?」
薄布の向こうから恐る恐るのように王太子の声が聞こえた。その声色はさきほど聞いたものとは全く温度が違う。ひどく不釣り合いで、シェリアは何事かと思う。一方女官は堂々とした声で続ける──いや、わずかに、ほんの僅かに震えているように感じた。
「風邪薬でございます。まず作用のご説明をさせていただきます。解熱の作用と、咳を抑える効能がございます。それから、注意点ですが、このお薬はお酒と一緒に飲まれてはいけません。また、冷えてはいけません。室内で安静にされておられて下さい、──とのご伝言です」
女は途中、手元のメモを開くと読み上げ始めた。
「……」
王太子は黙り込む。女はそっと紙袋を差し出す。緊迫した雰囲気がそこには漂った。
ヨルゴスというのは確か王位継承を最後まで競った王子の名だった。女が薬袋をテーブルに置こうとするのを遮って、シェリアは思わず手を伸ばしそれを受け取る。
真意を探ろうと目を覗き込むと、女は体を震わせた直後、身を翻して退出しようとした。シェリアは「待ちなさい」と引き止める。どうも態度がおかしい。どうしてこんなにおどおどとする必要があるのか。その理由は一つしか無いような気がして、シェリアは女に言い放った。
「一応、毒味をして行ってちょうだい」
「は、はい」
女は驚いた表情を浮かべたものの、直後少々感心したような顔をした。そして静かにシェリアに近づくと再度薬袋を受け取った。近従を振り返ると「お水はありますか」と問う。
近従が慌てた様子で水をとりに行くと、緊迫した雰囲気が部屋に残った。
その間王太子は何も言わずに寝台で佇んでいた。
女は堂々としている。毒が入っていると知っていれば、こんな穏やかな顔をしているはずは無いし、勘違いだったかも──とシェリアが思い始めたときだった。水が届き、彼女が薬を袋から出して瓶を開ける。何の躊躇いもなく彼女が中身の粉を手にとり、口に入れようとした。
「────!」
風が吹いたと思った。ふわりと薄布が舞い上がり、赤い影がシェリアの前を横切った。
直後小さな物音がして、見ると女がしゃがみ込んでいる。その足元には彼女が持っていた大きな布袋と薬瓶が転がっていた。そして隣には大きな人影が立ちすくんでいる。女はきっと影を見上げて、
「馬鹿!! なにするのよ、せっかくのお薬が!」
と叱った。
「ばか?」
確かにそう聞こえたような気がして、シェリアが目を丸くして見つめると、女は慌てて項垂れ、
「も、申し訳ありません、落としてしまって……」と言い訳するように小さく呟いた。
女の豹変に驚いたシェリアだったが、その前に佇んでいる男にはもっと驚いていた。病に倒れていたはずの男が、寝乱れた恰好をシェリアの前に晒している。上着の間から覗く艶やかな褐色の肌を、シェリアはまじまじと見つめた。
「──馬鹿はお前だ。簡単に飲むな! 本当に毒だったらどうする!」
彼はシェリアのことを忘れたかのように、女に向かって一方的に怒鳴りつけた。
「でも、予め毒など入ってないのはのは分かっております」
「ヨルゴスが何か企んでるのは知っているだろう!?」
「だとしても、ヨルゴス殿下がそんなに非情な方でないと私は思っておりますし、王太子殿下もそれはご存知ではないですか?」
女はやや呆然としつつも、しっかり丁寧にヨルゴスを庇った。そしてシェリアをじっと見つめて、くすりと笑う。
「でも、毒味というのは、殿下の前でしなければ意味がございませんね」
床には褐色の粉がぶちまけられていた。少々呆れ気味に、女は薬瓶を拾い上げる。中身が全部溢れてしまわなかったのにほっとした様子で、もう一度素早く粉薬を口に入れると、目を見開く王太子に向かって『大丈夫』と言うかのように、にっこりと微笑んでみせる。
茶色の二つの視線が熱っぽく絡まるのを見て、シェリアは、ああ、と納得した。王太子のとぼけた態度の訳が分かった気がしたのだ。
(この王太子もシリウス皇子と同じなの。身分違いの女に溺れているの)
彼らは確実に顔見知りだ。先ほども考えた通り、彼らの血の繋がりは明らかだし、馬鹿などという言葉は、それなりに親しい関係でないと使われることも無い。第一、王太子が彼女の発言を不敬だととらえていない。それなのになぜ親しくないようなそぶりを見せる? 今の今まで、どちらも──特に王太子の方は不自然なほどに素っ気なかった。そして、今の彼の態度。血相を変えて女が服毒(女には全くそんな気はなかったようだけれど)するのを阻止しようとする様子。ただの親戚にしては唐突で──必死過ぎる。そして女の方も、彼の為にあっさりと毒味を受けて立つくらいには、彼を大事に思っている様子だ。
しかし、なんだろう。このちぐはぐな印象は。想いがまったく重なっていないようにみえる。恋人同士に見えるかと言われれば、確実に否だ。
(何か私が知らない事情がありそう)
もしかしたら、許されない恋なのか? と一瞬考えた。スピカと王太子の母親は奔放だった。ならば、もう一人や二人姉妹が居てもおかしくない。そして、妹に手を出すような男であれば……この女に手を出していてもおかしくないのだが。
ジョイアは一夫多妻制。そして、アウストラリスもそうだ。だから愛妾が一人や二人居たとしてもシェリアは気にするつもりは無かった。ジョイアで妃候補に名乗りを挙げたのも、正妃の座さえ手に入れればあの皇子にスピカがいようと構わなかったし、彼らの間に出来た子は当然処分するつもりで居たからだ。もちろんこれからもそうするつもりだった。だが、──隠れてコソコソされるのは気に食わない。後で面倒なことになる。
ともかく、憶測で色々計画してもしょうがない。と、材料を集めにかかる。
「……お二人はご親戚なのでしょうか? 髪の色も瞳の色も同じでいらっしゃる」
シェリアはやさしい声色で尋ねた。王太子はようやくその声で妃候補の存在を思い出した様子で、女に釘付けの視線を一旦外して、こちらに顔を向ける。乱れた赤い髪が頬に一筋張り付いて、ひどく艶かしく見えた。これは昨日会った端然とした王子と本当に同じ男だろうかと不思議に思いつつ、一瞬その赤に見とれる。
「──すまないが、熱が上がったようだ。気分が優れないので、失礼させてもらう」
シェリアの質問を放置したまま王太子は、寝台へ去った。近従が慌ててそれに付き添い、シェリアと女は部屋を出る。
「お部屋までお送りいたします」
部屋の前でそう言われて、シェリアは頷いた。先ほど途中になった話が気になっていたからいい機会だった。女に再度関係を尋ねると、彼女は答えた。
「私は殿下の再従姉となります。王妃陛下の姉が私の母でございます」
「王妃の姪ってこと?」
シェリアは驚く。王妃の姪となると、この女も貴族の姫だ。
「名は?」
「メイサ=シトゥラと申します」
先ほどは、名だけ名乗ったのだったか。再び聞いて思い出す。シトゥラという家名は当然覚えがあった。アウストラリス北部に広い領地をもち、代々国を支えている名家だ。──とてもこんな薄汚れた恰好でここに居るような存在ではない。身分を考えると王子の妃としても、もちろん王太子の妃としてもおかしくないくらいなのだから。
シェリアは突如姿を現した好敵手に気を引き締めた。
「あなた、じゃあ、どうして下働きのような恰好をされているの」
「私はヨルゴス殿下の傍付きなのですが、仕事で服が汚れるのです」
メイサは多少恥ずかしそうに自らの身なりを見下ろす。恥じ入るような顔はどちらかと言えば好印象だった。少なくともあの大人しそうな顔をした暴れ馬のスピカよりは扱いやすそうだ。
(ふうん)
シェリアは微笑むと、横目で彼女をちらりと見た。
「あら、どんなお仕事をされてるのかしら? ああ、それにしても、あなたはヨルゴス殿下の女官なのですね。これを機に仲良くして頂ければ嬉しいわ。特に私、こちらに頼れる方も居ないし、王宮のこと色々教えていただけると有り難いの」
「私などに、そんな。勿体ないことです」
その提案で反応を見たかったのだが、メイサは目を見開いて驚愕の表情を浮かべただけだった。なぜ私なのだという表情に他の感情が覆い隠されてしまっていた。
「でも、あなた、ヨルゴス殿下のお妃になられるのでしょう?」
「いえ、それは有り得ません」
「じゃあ、もしかして王太子殿下が本命?」
「それはもっと有り得ません」
ひどくきっぱりと言われて、怪訝に思う。なんでそう言い切れるのだろうか。それともこちらを油断させるための罠なのだろうか。以前スピカにしてやられたことを思い出して、急に胸の中で警戒心が膨れ上がった。
この女がよく分からない。もっと探る必要があるとシェリアは身を乗り出した。
「有り得ない? なぜ?」
メイサは困ったように言い澱んだ後、手を前方に持ち上げた。つられて顔を上げると、彼女の白い手の先にはシェリアの部屋の扉があった。その上、まるで計ったように正午を告げる鐘が鳴る。どうやら、今日の追求はここまでのようだ。
「ひとまず、続きは次の機会にさせていただいてもよろしいでしょうか。私、仕事に戻らなければ」
*
セバスティアンは主人が寝台に戻った後、片付けを始めた。そうして部屋に落ちていた布袋に気が付いた。開いた口から覗くのは大判の布のようだった。中身を取り出すと、ひらりとメモが舞い落ちる。
『膝掛けです。暖かくして早く良くなって下さい。 メイサ』
ただそれだけ記された紙だった。畳んである布を開く。上質な黒の毛織物が、色とりどりの刺繍糸で飾られている。所々小さく散りばめられた黄色や白の花の刺繍はまるで星のようにも見え、──これは星空なのかもしれないと何となく思う。美しいと純粋に思ったし、これを作るのにどれほどの手間がかかったかもよく分かった。
(これって、絶対〈愛〉だと思うんだけどなあ)
昔彼女が主人の傍に居た時にもそれは感じていた。先ほどの毒味の件からも、メイサが主人をどれだけ大事にしているかはよく分かる。しかし──はたしてそれが恋なのかは、恋愛経験の乏しいセバスティアンにはよく分からなかった。なんとなく田舎の母が自分に膝掛けを縫ってくれるのと変わらない気もしないでもないが、もしこれがセバスティアン宛のものであれば、彼は間違いなく自分に気があるものだと勘違いしてしまう。
(だけど、殿下は貰いなれていらっしゃるからなあ)
隣の倉庫には女たちからの貢ぎ物が未だに開封もされずに山となっている。主人は贈り物に頓着したことが無いのだ。この膝掛けも倉庫に投げ込まれる可能性があると思うと、惜しいなと純粋に思う。
(その時は、俺が貰っておこうかなあ、横領になっちゃうかなあ、駄目かなあ)
膝掛けからはなんだかいい香りがする。心安らぐ柔らかい香りだ。長い間彼女の膝の上で温まっていたことを考えると……余計に惜しい。
ひとまず手紙を元通り添えると、主人に判断を仰ごうと膝掛けを寝台へと運んだ。