メイサが部屋に戻ると、ヨルゴスが出る時と同様窓辺で書類を見つめていた。侍従の姿もルイザの姿も見えない。しんと静まった部屋は、喧騒を好まない主人によって、いつも通り人払いをされているようだった。
「ただ今戻りました」
そっと声をかけると、彼は驚いた声を上げた。
「あれー? せっかく時間をあげたのに……──戻って来ちゃったんだ? 戻って来なかったら答えは出せると思ってたんだけどなあ」
「答え……ですか?」
意味が分からずに尋ねる。が、ヨルゴスは答えずに逆に聞いた。
「ちゃんと渡して来た? 飲んでくれた?」
立ち上がり報告を求める主人に、メイサは訳を事細かに説明した。
「──へえ、そっか、妃候補がね。それは計算外だったな。で、毒味したら怒ったんだ?」
「そうなのです。毒味くらいさせて頂かないと……、女官は何の為に仕えているか分かりません」
そうため息をつきつつも、思い出す。先ほどシェリアに毒味を命じられたとき、実はちょっとほっとしたのだ。怪しい人間を抜け目無く追求出来る彼女がルティの傍に居れば、どれだけ心強いだろう。ああやってルティを守ってくれれば……メイサも安心だった。
ただ、さすがに今日はルティが少々無理しているのを感じたので、早めに連れ出せて良かったのだけれど。可愛い女の子のお見舞いは嬉しくとも、それが初対面に近い人間ではさすがに気が休まらないだろう。
(そういえば……彼女に何か誤解されてたような。ヨルゴス殿下の妃だとか──それから)
『王太子殿下が本命?』
あの質問にはさすがにぎくりとしてしまった。心の奥底に埋め込んだ暖かいものを掘り当てられたような。
ルティにあんな風に怒られて──でも彼が相変わらずメイサを守ろうとしてくれていることを知って、思わず喜んでしまったことが顔に出てしまったかと思った。
あれは牽制だろうか? そうであれば彼女は相当な切れ者なのだろう。ナイフの刃のような鋭さはまるでシャウラのよう。つまりいい妃になる素質は十分だった。あの皇子はメイサの願いを真剣に聞き入れて、かなり厳選してくれたのではないだろうか。
黙ってそんなことを考えていると、ヨルゴスは不思議そうに首を傾げた。
「でも、君は僕の女官だろう? 毒味なんかあいつの近従にでも任せておけば良かったのに」
「殿下の名誉の為にも、私は、あの場であの薬を飲む必要があったと思います」
「僕の名誉の為?」
ヨルゴスは目を見開く。メイサは頷いた。
「まず殿下はそのようなことをされる方ではありません。私の前で毒味をして下さったくらいなのですから。それに殿下のお薬は王宮のどの医師が処方したものよりもよく出来ております。それを毒だと思って捨てるなんて──勿体なくて」
床にばらまかれた薬を思い出すとやっぱりムッとした。メイサは今口に出した通りに、この城で一番効く薬はおそらくヨルゴスの作った薬だろうと思っている。助手をしていて、彼の知識量には本当に舌を巻いたものだ。もちろん毒薬を作るのにも長けているから、メイサが初め疑ったように、ルティがあんな風に疑う気持ちは分からないでも無い。でも貴重な薬だ。利用出来るなら利用しない手は無いのだ。ルティが忙しいことはよく知っているから……早く良くなって貰いたかったのだ。
それに──メイサは、暫く仕えてみて、このヨルゴスという男を見直し始めていたのだった。例の趣味はどうかと思うけれど、仕事に真面目に取り組めば相当切れることは間違いない。ルティが持っていない長所もたくさん持っている。仲良く出来れば、どれだけルティの力になってくれるか分からない。
今回、そのヨルゴスから手が差し伸べられた。頼りになる人物をルティの味方に付ける良いチャンスなのではないかと思った。
だからこそ、まず、ルティの警戒心を解いてあげたかった。そして、そのチャンスはまだ続いている。あの調子ではまだ薬を口に入れていないと思う。だからなんとか薬を飲んでもらって、その効果を知ってもらって、そして──ルティの方からも歩み寄ってもらいたかった。その為には、メイサが体を張る必要があると思ったのだ。これは二人を知る彼女にしか出来ない事だと思った。
メイサはルティの近くにずっと居ることは出来ない。ならば、彼の周りに少しでも信用出来る人間を集めてあげたいのだ。
ヨルゴスと、シェリア。もう一人の妃候補がどんな娘かは知らないけれど、彼を大事にしてくれる人達が一人でも多く傍に居てくれればいい。それが彼の為にメイサが出来る最高の贈り物だと思っていた。
「あの……それで、──中身をこぼしてしまったので、もう一度持って行きたいのですが」
「え、また行くの? やっぱり心配?」
「……ええ。王太子殿下に対して大変畏れ多いのですが、弟みたいなものですし、心配です」
「おとうと、ねえ。弟かあ」
ヨルゴスは二度も繰り返すと困ったような顔をした。
「うーん。どうも分かんないなあ。慌てて飛び出して行ったかと思うと結局何もしないで帰って来るしさあ。君に対しては回りくど過ぎたかなあ」
彼はうーんと唸りながら考え込むと言った。
「……じゃあね、本当に例えばなんだけど、あいつが君と寝たいって言ったとしたら、君はどうするわけ?」
あまりに唐突な質問にメイサはきょとんとする。話が繋がっていない気がして、混乱したのだ。
(ええと、寝たいって言うのは、もちろん添い寝っていう意味じゃないのよね?)
添い寝ならもしかしたら有り得るかもしれないと思いつつメイサは念のために問うた。
「──どういう意味ですか?」
「僕と寝ようとしたみたいに寝ちゃうわけ?」
つまりは男女の関係になると言うことらしい。それをルティが求めると。メイサは想像する。
(ルティが? 私を?)
どう考えてもそれは無い。あの夜はあらゆる面で特殊だったからあんなことになったのだ。しかも、あの時だって彼から求めたわけではなかった。メイサが酒とスピカを利用して強引に押し倒したのだから。
それが彼からなど──有り得ない。
メイサはじっくり考えた後、首を振った。
「あまりに有り得ない仮定なので……想像出来ません」
「有り得ない? どうしてそう言い切れるの?」
「彼はそんな必要を感じないはずです。わざわざ私を選ぶと思いません」
「必要? それって、要不要なの? 君、前から思ってたけど、若い女の子にしてはずいぶん無粋だよね」
呆れたように言った後、ヨルゴスは大きなため息をついた。
「僕にはさあ、君がなんでそんなに自分を知らないのか、どうしてもわからないんだよねぇ」
「はあ」
自分を知らない? なんだか妙な雲行きだとメイサは眉をひそめる。
ヨルゴスはふうと息を吐くと、メイサを真っ直ぐな瞳でじっと見つめた。
「君がここに来てもうひと月だ。知ってた? 僕が女官をこんなに長く手元に置くのってはじめてなんだよ? ひと月ずっと君を見て来たけど、君は外見が綺麗なだけじゃなかったし、しかも能力があって、きちんと生かすことができる。……何より、僕は君と居るとほっとするんだ。ずっと傍にいたいくらいに心地よい」
「なんですか、突然。褒めても何も出ませんよ」
あまりのべた褒め状態に、一体誰のことだろうかと人ごとにさえ感じられた。苦笑いをしながらも、なぜか背中をすっと悪寒に似た震えが走った。気が付くとヨルゴスは随分メイサの近くに居た。メイサは圧迫感を感じ一歩後ろに下がる──と、背に壁の冷たさを感じる。
「え、ええと、ほっとされるのは……私がとるに足らない存在だからです、きっと」
なんとなく顔を上げられないままに答える。ヨルゴスはメイサが離れた分の距離をすぐに詰めていた。これ以上下がれずに、メイサは顔だけを横に背けた。
「そうかな?」
しかし、ずいと息が触れるほどに顔を寄せられて、メイサは目を丸くする。これは今までのメイサとヨルゴスの関係には相応しくない距離だった。この距離が相応しいのは──きっと男女の関係だと思った。実際、メイサはルティとしかこの距離まで近づいたことは無い。
だが、それでもメイサはどこか安心していた。なぜなら、ヨルゴスは男が好きなのだ。あの美しい皇子に恋い焦がれているのだ。
「ええと、まず、殿下は男の方──シリウス皇太子がお好きなのでしょう?」
「……ああ、そういえば、そう言ってたっけ」
とぼけたような口調だった。ヨルゴスはいつものように柔らかな笑みを浮かべていたが、しかしその目が笑っていないことに気が付くと、急に部屋に二人きりでいることが怖くなった。
(ええと、これは一体誰?)
今、いつも彼が被っている中性的な膜が一枚剥がれ、そこから男の顔がちらりと覗いていた。
「だけど君は、僕がなんで彼が好きかって理由は忘れちゃったみたいだよね?」
「理由?」
「最初にちゃんと言ったと思うけどなあ?」
ヨルゴスがくすくすと笑うと暖かい息がメイサの頬にかかる。メイサは思い出そうとするけれど、間近に迫ったヨルゴスの顔に思考を邪魔をされる。
いつも穏やかな光を浮かべている瞳は今は鋭く甘い光をたたえていた。その茶色の目はやはりルティと似ていて──今は特にそう見えてしまって、ひどくメイサの胸を騒がせた。胸がどくどくと音を立てるのに伴って、奥底にしまい込んで固めてしまった熱がじわりと溶けて滲み始める。そんな自分に動揺し、この状況から逃れる口実を探して頭を働かせる。
「あっ、あの、殿下、それで、お薬は……」
メイサはいっぱいいっぱいになりながらも、ようやく脱出口を見つけた。動悸がひどい。顔が赤いに違いないと思った。
「ああ、そうだったね。それで急いで帰って来たんだっけ。あんまりにいい顔してるから……つい忘れてた」
覆い被さるようだった影がメイサから離れた。自らを取り囲む網のような空気が緩むのが分かって、メイサはかなりほっとした。自分の調子を取り戻そうとメイサは言葉で場の雰囲気を壊し続ける。逃げるのに必死だった。
「え、ええと、確か、頂いたお薬は食前の方が効くのでしょう。吸収が良くなるとか。なので出来れば昼食前に届けたいのです」
「よく勉強してるね。まったくいい心がけだな」
ヨルゴスは感心したような──でもどこかがっかりしたような声を上げる。
「わかった──でもほら、運ぶのは他の者に頼もうかな」
「え? でもさっきは──」
メイサは食い下がろうとしたけれど、ヨルゴスは彼女が口を開くのを遮った。
「さっきとはちょっと事情が変わったの。遣いにやるのはなんだか惜しくなったから、君は午後は僕の手伝いを。それでいいね?」
(事情?)
珍しく有無を言わせぬ様子に、少々納得いかない気持ちのまま渋々頷くと、彼は身を翻して小屋へと向かった。
メイサも追って、すぐに彼の手伝いを始める。小屋に入るなりヨルゴスはいつも通り無言となった。先ほどの甘い雰囲気など欠片も無い、真面目そうな横顔に安堵しながら、メイサは熱の残った頬を手のひらでそっと撫でた。