22.滲み始めた熱 04

 少数の近従に見送られ、ヨルゴス一行を乗せた二台の馬車は出発した。質素ではあるが丈夫な造りをした実用的な馬車の一台にはヨルゴスとメイサ。もう一台にはルイザなど近従が詰め込まれている。
 普段乗り物酔いをするメイサも今日はまったく酔う気配がない。
 カルダーノまでの道は交易に遣う為、ムフリッドへの道に比べて整備されているという理由もあったけれど──それよりも大きな原因がありそうだった。どうも馬車に乗りこんだ辺りから、ヨルゴスの様子が変わった気がして気が気で無かったのだった。

「……──やっと二人きりになれたなあ」
 馬車が走り出したとたん、彼は大きく息をついてそう呟いた。おそらく独り言であっただろうそれをメイサの耳は拾ってしまい、とっさに気づかぬふりをしたものの、心臓は大きな音を立て、顔にはなぜか朱が混じってしまう。そしてメイサの戸惑いはすぐにヨルゴスに知れた。
「あれ、聞こえちゃった? 耳いいんだね」
「は、はい」
 そう頷きながらも、メイサはヨルゴスが今更どうしてそんなことを言うのかが分からなかった。聞いてしまったものは仕方が無い、そう思ってメイサは開き直って尋ねた。何より気まずかったのだ。
「……ええと、今までもずっと二人きりだったと思いますが」
 夜はずっとあの小屋の中で二人きりだった。夜に密室で男と二人きり。なのにメイサは今までそのことを意識したことが無かった。
 だが今、昼間で密室とは言い難い状態なのに、前の馬車に乗せられたルイザが恋しくてたまらくなった。狭い馬車の中、二人の距離が近かったからかもしれないが──やはり大きな原因の一つに、あの時の急接近があることは間違いなかった。
 ヨルゴスが男色である。しかも相手はあの皇子である。
 ──その安心感でメイサは今まで余裕を持って彼と接して来れたのだ。だが、もし違うとなると、彼がメイサに言った言葉の数々を考え直さなければならないのではないかと思い直した。
 ヨルゴスは愛妾を持っていない。それは彼が男色だからだと思っていた。だがよくよく考えると、メイサが女官として勤めだしてから夜はいつも二人でいたが、彼が男を閨に連れ込んでいる様子は全くなかった。彼の周りの男と言えば屈強の男ばかりで、どちらかというと小柄なヨルゴスに押し倒されてくれるとは思えない。どう頑張ってもメイサは彼らの間に艶ごとを想像出来なかった。いや、したくないというのが正直なところではあったが。
 とにかく皇子の代わりになるような男が居ないのだろうと──それ以上は考えることが無かったけれど、ヨルゴスもまだ二十五歳と若く健康な男だ。まったく女──いや男かもしれないが──が必要ないことは無いと思うのだ。ルティやアステリオンを見る限り、そう思える。
 『ヨルゴスは女も抱ける』のだ。そのことを忘れてぼんやりしていた自分をメイサは愚かだと思う。
 気を引き締めるメイサの前でヨルゴスはいつも通りにのんびりと口を開く。
「二人きりっていっても、監視付きだったしさー、下手したら寝室まで覗かれそうだったしさー」
「寝室まで?」
 確かに王子であるヨルゴスには常に護衛が付いている。そのため多少の不自由は仕方が無いけれど、それは行き過ぎではないだろうかとメイサは思う。ルティの部屋にはそこまで厳しい護衛は居なかったが……家の方針だろうか?
「寝てればいいのに出て来て怪我はするしさ。痛々しいことこの上ないよ。それにあのまま無理して死んだら僕だって困るんだよね」
「はあ」
 誰が死ぬというのだろうか?
 ヨルゴスは話に付いて行けない様子のメイサを見てくすくす笑う。
「前にも言ったと思うけれど、僕は王位を継ぐつもりは無いんだよ」
「……それは覚えておりますが、今のお話となにか関係が?」
 ヨルゴスはメイサの問いには首を振って答えず、話を続ける。
「権力には責任が伴う。国民全ての命を背負うなんて面倒くさいだろ? 自分の命だけで精一杯なのにさ。王なんて相当のお人好しか馬鹿じゃないとやってられないよ。僕より適任がいるんだ。任せて置けばいいじゃないか。──だけど、僕の家族はそう思っていない」
 一瞬でヨルゴスの目の光が厳しく尖る。その表情を以前一度見たのを覚えている。確か近従の口から彼の母親のことが出た時だ。
「干渉されるのが嫌で王宮にこもってたんだけどさ、王宮に居ても干渉されちゃね。僕たちが近くに居なければさすがに休むだろうから。……まあ丁度調べたいこともこっちにあったし、一度帰って様子を見ておいた方がいいし。あのひとはすぐに何かやらかすからあんまり放置も出来ないんだ」
 ヨルゴスはそう言うと馬車の窓を大きく開く。埃っぽい冷たい風が中に流れこみ、ヨルゴスの鋼の髪とメイサの赤い髪を煽った。
「ほら──カルダーノに入ったよ」
 メイサは窓の外を見て、あっと声を上げそうになる。そこには日光に照らされ黄金に輝く大地があった。そこになだらかな曲線を引くのは大きなワジだ。黒い布に体を包んだ数人の人間が地面を掘り返している。それを見つめるヨルゴスの視線は鋭いままだった。
 メイサは恐る恐る尋ねる。
「あの……殿下、ワジに居る人間は一体何をされているのです?」
「ワジ? ああ、地質調査だろう」
「地質調査?」
 最近どこかでその言葉を聞いたような気がしたが、どこで聞いたのか思い出せない。
「何か鉱物でも混じっているのでしょうか?」
「それを僕が調べるんだよ」
 くつくつと笑って、ヨルゴスはさも楽しげにした。
「王宮に居ても僕の所には調査が回って来ないんだ。助手の仕事が増えるからしょうがないけれど、せっかく面白そうなのにつまんないだろう? もし調査結果で満足のいくものが出て来たら──僕の研究は一気に進みそうなんだ」
「助手?」
 所々気になって問うものの、やはり答えてもらえず、メイサは諦めた。彼が語らないことは問うても無駄なのだ。それはどこかの王子に良く似ている。
 ヨルゴスは次第にいつもの研究者の顔に表情を変えて行く。茶色の瞳が輝きだし、頭の中では色んな計算が走り出すのが目に見えるようだった。


 半日馬車に揺られ辿り着いた土地、カルダーノ。この南のオアシスは乾いた北部と違い湿度がある。海から多少流れて来る風も手伝って、少し気を抜くとひび割れる肌の心配が無い。首都のエラセドよりもさらに過ごしやすい土地だった。
 ヨルゴスの実家はひたすらに快適だった。ここが乾いたアウストラリスなのかと疑うくらいに。
 さほど広くはないが、白い石で作られた屋敷の中心には泉が湧いている。その周りを取り囲む緑が、褐色の世界の中ひどく眩しく見えた。
 メイサは作業中に蒸れて額にかいた汗をハンカチで拭う。
「これで全部です」
 実験器具は様々だった。大抵がガラスで出来ていた為、一つ一つを丁寧に紙で包み、その上厳重に運ばせた。到着後はその逆の作業。紙を剥いで元の配置に並び替える。
「あと──申し訳ありません、その木箱だけはどうしても運べなくて」
 メイサは横目で部屋の端に置かれた小さな木箱をちらりと見やった。いつかヨルゴスの近従が持ちこんだ重い箱。掃除の時にも持ち上げられず引きずるようにして移動したのだ。小さい箱に一体何が入っているのだろうと覗いてみたが、どうやら液体であること、銀色であることしか分からなかった。
「ああ、それは僕でも無理」
 ヨルゴスはにっこり笑ってソファに腰掛ける。牛の皮だろうか。艶のある革張りのソファは彼の重みの分だけ沈み込む。ひどく柔らかそうで、メイサはその調度品一つでムフリッドのシトゥラ家との格差を感じた。
「あとで力のある者に運ばせるから、女の子はもう休んでおいて。顔色悪いよ。疲れたんだろう? あとは僕がやっておく」
「それは出来ません。殿下こそお休みされて下さいませ」
 メイサがとんでもないと首を振ると、
「じゃあ、お茶でも入れてもらおうかな?」
 ヨルゴスはあっさりと別の仕事を提案した。その眼差しが妙に優しく感じられて、メイサは戸惑う。
 茶を入れて近づくと、ソファの隣を示される。
「座って」
「ええと」
「邪魔が入らないうちに、少し話をしよう」
 おずおずと座ると、メイサはルイザを探して部屋を見回した。
「ルイザはお使いに出してるよ。夜まで戻って来ない」
「──どうして私の心がお分かりになるのです?」
 メイサは驚いて尋ねる。
「だって君は分かりやすいから。今、僕を意識してるだろう? 男として」
 その言葉にメイサの頬が染まる。慌てて首を振った。そして自分の中で膨れ上がる不安を否定するかのように早口で言った。
「でも、殿下にはシリウス皇子が」
「もともと敵わぬ恋だろう──っていうか、本気にしてたんだね」
「も、もしかして、私をからかったのですか」
 メイサは目を見開いたままに問う。ヨルゴスはまったく悪びれることなく頷いた。
「シトゥラの娘なんて、面倒くさくってさ。さっさと追い払ってやろうって思ってたんだ。でも、君は追い払うよりも傍に置いた方が面白そうだったし。裏表無くて安心で、邪魔にもならないみたいだったから、傍に置こうと決めた──けどさ、」
 ヨルゴスはそこで言葉を切ると、メイサが開けておいた拳二つ分の距離を一つ分詰めた。
「思ったより、君はいい子だった。それもとびきりね。まず、家の為に、家族の為に自らを顧みない子ははじめて見たよ」
「いえ、私の家では皆そうですし!」
「そして、例えどんな人間でも見捨てないよね。世間に忘れられたような男にさえも光を見せてくれる」
「…………」
 メイサは強引なヨルゴスの様子に、声を出せずにそろそろと椅子の上を後ずさる。どうもここで話が終わる感じではない。まさかという想いが大半の中、やっぱりという想いが僅かにあった。メイサはヨルゴスの次の言葉をじっと待った。
(殿下は何を言おうとされているの)
 そう胸の内で問いかけつつも、何を言われるのかは知っている気がした。
 彼の目に籠った熱に見覚えがある。同じ熱を持って愛を囁いた男をメイサは知っているから。
 やがてヨルゴスが距離を再び詰めると、腕を伸ばして出口を塞ぎ、メイサを椅子の中に囲う。メイサはヨルゴスの瞳の中で自分が泣きそうな顔をしているのを見つけた。
(ど、どうすれば──)
 さすがに何が起ころうとしているのかは思い当たった。これはシトゥラの娘として、こちらが仕掛けるはずのことだった。最初は押し倒すつもりだったではないか。そうだ、シトゥラの為に、ルティの為に。この裕福な家から援助を受けるのだ。もし寝ることでそれが得られるのならば、メイサの体一つくらい安いものだ。そう思っていたはずなのに、いざこんな風に腕の中に囲われると、沸き上がる恐怖と違和感がメイサを押しつぶそうとする。
(メイサ、しっかりしなさい! あなたはシトゥラの当主代理でしょう! ほら、シャウラ様が言ってらしたじゃない。と、取引、いえ……恋の駆け引きをしなければ!)
 そう自分を奮い立たせるものの、相手がヨルゴスでは逃げたい気持ちの方が勝ってしまった。狼狽してどうやって取引すれば良いかなど、全然思い浮かばない。体が動かせない。ヨルゴスのことは嫌いじゃないはずなのに。もう──ルティの時みたいにちゃんと出来るはずなのに。

「メイサ」

 名を呼ばれたのははじめてだった。いつも〈君〉としか呼ばないヨルゴスが、今、親しみと熱を込めて名を呼び、メイサはなぜか自分の名を決して呼ばない男を思い出した。とたん胸を突き破るような痛みに涙が溢れそうになる。ヨルゴスの左手の親指が、メイサのおとがいをそっと押さえる。メイサの知らない男の指だった。指先の冷たさに体が大きく震えた、その時だった。
「──殿下」
 扉が音も無く開かれて、侍従──以前王宮の小屋に木箱を持ち込んだ男性だ──が顔を出した。
「お邪魔いたします。母君がお呼びです」
 ヨルゴスはゆっくりと顔を扉に向けると、外を吹きすさぶ冬の冷気そのものの声で言った。
「本当に邪魔だよ、お前」
 気が削がれた様子のヨルゴスは身を起こし、メイサは解放される。鋼色の前髪の隙間から見える茶色の瞳は出て行けと言わんばかりに鋭く侍従を睨んだままだ。
 しかし扉の影からひょっこりルイザの能天気そうな顔が飛び出し、メイサはこの緊迫した事態がひとまず終わったことに心からほっとした。

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2011.2.3