23.涸れ川に流れるもの 01

 馬車が城門を抜けて南へと向かうのを赤髪の男はじっと見つめていた。それが点となり、地平線の彼方へと消えて行くまでずっと。

 セバスティアンはその光景を見つめながら、『本当によろしいのですか』という問いをずっと喉に詰まらせている。

 王宮の塔と塔を結ぶ廊下は、一応室内ではあるものの、吹きさらしで外と変わらない。所々空いた窓から冷気がふんだんに流れ込み、壁も床も氷のように冷えきっていた。
 日が登りきり、朝日の色が赤から金に変わった頃、セバスティアンが出発の時刻が近づいたことを告げると、その場に根付いていたかのような主人の足がようやく僅かに動いた。既に体は冷えきっていたようで、小さく咳き込むと肩と背に羽織っていた膝掛けの前を合わせている。
 マントの半分ほどの大きさの膝掛けでは、彼の大きな体全てを包み込むことは出来ていない。使用方法が多少違うとセバスティアンは思うが、主人が暖かそうにしているので敢えて何も口に出さないことにした。というより、あのルティリクス殿下が大事にされている膝掛けについては、もう、恐ろしくて触れられない。
 以前、『頂いてもよろしいでしょうか』と問うた後に送り主の名を告げたセバスティアンは、いきなりげんこつでごつんとやられた。無言のまま、主人はセバスティアンから膝掛けを奪い、今のように体を包んだのだ。まるで大好きなおもちゃを別の者に奪われた子供のような仕草に、セバスティアンは目を丸くし、頭に出来たたんこぶの痛みを忘れた。
 それまではまだ疑いが残っていたけれど、その件で、セバスティアンは主人の想い人について、ようやく確信を得ることができた。そして、その話題には触れてはいけない理由も、主人が王妃の問いに向かって発した〈家族〉という言葉によって何となく察した。
 ……つまりは、あのメイサという女性は、あの主人を男と思っていないということだ。セバスティアンが感じたように、母が子を思いやるような気持ちであの・・誰もが見惚れる、男でさえも見惚れる王太子殿下を見ているのだ。もしかしたらそういう風に拒んだのか。だからこそ、主人は不可解な態度をとられるのかもしれない。セバスティアンの当初の見込み通り、彼女はただ者ではなかった。
(やっぱりあの方はメイサだよなあ……)
 そう溜息をこぼしながら「お時間が迫っております。お急ぎください」と未だ名残惜しそうな大きな背中に声をかける。
 今日は朝食後すぐにムフリッドへと出発することとなっていた。セバスティアンは昨夜荷造りに奔走したため、殆ど寝ていなくて、疲れ切っていた。その上、明け方の冷気はセバスティアンの体も十分に冷やしていた。暖炉の火が恋しく、セバスティアンは後ろでまだ外を気にしている主人を先導して部屋へと向かう。暖かいお茶を用意しなければ、まだ風邪も──それから足首の怪我も全く治っていないのだから。

 しかし先を急ぐセバスティアンの思惑は途中で阻まれる。
「どなたかお見送りでしょうか」
 細い声に振り向くとそこには妃候補の一人が佇んでいる。先日部屋まで押し掛けた銀髪のシェリアという娘だった。
「……──散歩だ」
 主人は先日までの丁寧さを捨ててそっけなく答えた。
「暫くお出かけになられるとお聞きしましたので、お見送りに参りましたの」
 シェリアは主人の変貌を気にすることもなく、そっと、しかししっかりと身を寄せる。主人はそれを鬱陶しげに避けた。セバスティアンは目を見張る。しばらく主人の周りに女っけがなかったから気が付かなかったが──以前の来る者拒まずの主人からはまず想像出来ない場面だ。
 その点から見ても、どうも機嫌はすこぶる悪そうだ。具合が悪いのが原因の一つかもしれないが──主な理由は先ほど見送った馬車のせいだろうと思われた。
 それに加えて、おそらくだが──主人の好みではないのだろう。もしかしたら、もう、彼女に関しては受け入れるか否か、答えが出ているのかもしれない。
 セバスティアンの目には、この少女はメイサとは正反対に見えた。華奢な外見もだけれど、つかみ所の無い中身もだ。一緒にいて安心出来るとは言い難い。
 つまりはセバスティアンもあまり好みではない。もちろん決して贅沢を言える立場ではないことは分かっているが。
 主人は腕が届かないくらいにシェリアと距離を取ると、横目でちらりと彼女を見た。
「わざわざありがたいが、仕事が詰まっている。相手が出来ずにすまないが、数日で戻る予定だ。……その期間は──そうだな、このセバスティアンに案内をさせよう。ゆるりと過ごしてくれ」
「え!」
 寝耳に水の話にセバスティアンは思わず声を上げた。
(え、ええ? 丸投げですか!! それに──せ、せっかくの休暇が!)
 昨日主人不在中の休暇をいつも通りに申請して、許可を得ていたセバスティアンは、思わず涙目になる。しかし、そんな彼に主人は視線をちらりと向けて、微かに笑った。
「特に夕方以降・・・・はいつも暇を持て余しているから、いつでも使ってやってくれ」
 セバスティアンはぎくりと頬を恐ばらせる。〈夕方〉──それは、つまり、セバスティアンがこっそりとテオドラと会っている時間だ。貴重なデートの時間を主人は奪おうとしていた。
 頭に血が上ったセバスティアンは急にピンと来た。主人がどうして彼とテオドラのことにケチを付けるのか──その理由に。
(──ひどい。いくらご自分がメイサ様とうまくいっていないからといって! 俺の恋路まで邪魔する気なのですか!)
 セバスティアンは恨めしさを丸出しにした顔で主人を見つめた。が、主人は全く気にすることなしに「頼んだぞ」と言い渡し、その任務は決定事項となる。
「よろしくお願いしますね」
 シェリアは笑顔を見せた。セバスティアン相手では、内心は不満だろうに。
「は、はい、精一杯頑張ります」
 二人のやり取りを横目に、主人は再び部屋に足を早める。大理石で出来た廊下にカツカツと靴音が響き始めた。
「──それでは、城門までお見送りいたしますわ」
 シェリアは、丁寧ではあるが確実な拒絶の空気にも引き下がらずに、後を小走りで行く。セバスティアンはその隣に並ぶ。主人は大股で急ごうとするが、やはり足首の捻挫が響いてそれほど差をつけられなかった。
「実は、殿下にご提案をお持ちしたのです」
 少し行った所でシェリアは口を開いた。
「……」
 殿下は聞こえないのか、振りをされているのか無言だった。
「最近ジョイアで打ち出された政策をご存知でしょうか? ジョイア北部及びにアウストラリス北部の活性化について」
「……──ああ。あの資源の流通を北部に移すという、あれか」
 政策、という言葉に主人は反応した。セバスティアンも少々意外に思って、少女を改めて見る。どちらかというと疎そうに見えていたのだ。
「はい、南部に偏った富を北部に流すというものです。私の故郷であるケーンも北部にございまして、このたびの政策については有り難く思っているのです。しかし、まだ具体的な話は進んでおりません。私、この件についてはアウストラリス北部の……ムフリッド、つまり殿下のご生家シトゥラ家との結びつきが重要だと思っているのです。まだ、二国間での確執は小さくはありません。今後円滑な取引こそが鍵となると思われませんか?」
 小走りのため息切れしながらもシェリアは一息で言い切った。
「──私を選んでいただければ、両国の北部の貧しさは解消されますわ、きっと」
「……」
 殿下は答えずに歩いて行く。が、先ほどより歩みの速度が緩やかにになっていた。
 シェリアは回答を待ってしばし黙る。が、主人が黙っているので、突然別の話題を振った。
「素敵なマントですわ。星空でしょうか? ──でも、お体には合っていらっしゃらないみたい」
「…………」
(ああ、そのことに触れてはいけないんです!)
 振り向いた主人の眉が微かに寄っていて、セバスティアンは一人で焦る。しかし彼の懇願はシェリアには届かない。それどころか──、
「ああ、その星座はジョイアでは巨人オリオンの名を持ちますわ。北部生まれの者は国内でも特によく星の名を頂くのです。オリオーヌ州の由来もそれですし、シリウス皇太子殿下もリゲル前后妃もその妹君ヴェガ様もそうですもの。もちろん王太子殿下の妹君スピカ・・・様もですけれど。……アウストラリスでも同じみたいですわね、ほら──この星はメイサ・・・ですわ、先日会った女官がそんな名でした」
 と、彼女は黒い空の中の星を見つけて微笑み、セバスティアンが蒼白になるようなことを言ってのけた。
「………………」
 主人の表情は変わらない。しかし、彼に纏わりつく空気はだんだん重くどす黒くなっていた。再び前を向き、無言で部屋へと急ぐ主人に、シェリアは無垢な笑みを向ける。
「再従姉だと言われてましたが、随分仲がよろしいのですね? この間の毒味の件では、思わずご関係を疑ってしまうくらいで……。でもあの後、ご姉弟のように育たれて、今もそんな風に大事に思っていると彼女に聞いて納得しましたわ。確かにを心配されるのようですもの、彼女。──私、兄弟がいないものですから、そういうご関係が羨ましかったですわ」
「……………………」
「殿下も彼女のことを本物の姉のように慕われていらっしゃるのでしょう? シトゥラ家の繁栄は彼女の幸せにも繋がりますわ、ぜひ前向きにお考えくださいませ。良いお返事を心待ちにしております」
(頼むから、もうやめてくれ────!!)
 飛び切り無邪気な声で、恐ろしい発言を繰り返すシェリアが、セバスティアンには魔性にも思えた。
(こ、これわざとじゃないよな、……ま、まさかな……そう思いたい)
 主人の想いを知っていての発言だったら、彼の代わりに彼女の相手をすることは相当な重労働だと心の隅で思う。
 生きた心地のしないセバスティアンは、無意識に歩みを緩め、二人と距離を取る。今にも爆ぜそうな主人の傍にはもういたくない。回れ右をして、全力で走って離れたい気分だった。
 冷たく重い沈黙が背中からひしひしと伝わった。もう主人の顔を見ることは、恐ろしくてとても出来なかった。

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2011.2.7