23.涸れ川に流れるもの 02

 重い空気の漂う廊下を抜けると、うっすらと雪の積もった城前の広場に出た。四頭立ての馬車が既に用意され、旅の荷がその背に積まれている。馭者が扉を大きく開き、出発を待っていた。
「──そういえばヨルゴスが肉がうまそうだとか言っていたか」
 王太子のそんな言葉で長い沈黙がようやく破られた。同時に肩から黒い布が取り払われる。代わりに彼は近従から大きなマントを受け取って、その大きな身を包み込んだ。砂漠越えの旅装だ。黒い毛織物は入れ替わりに近従の手に残る。近従は戸惑ったように目で何かを訴えるが、王太子は首を横に振って「預けておく。大事に保管しておけ」とだけ言った。
 そして、馬車の向こう、城門の間から見える北部の山々を見つめ、ふっと小さくひとりごつ。
「食わせてやる肉など無いな」
 シェリアは意味が分からずに首をかしげ、隣に居た近従を見る。が、彼にも通じていないようだ。
「肉がどうされました? 干し肉ならば荷に入れておりますが」
「お前は黙ってろ」
 近従の問いはあっさり無視される。王太子はしばし黙り込んだ後、シェリアに向き直り、にやりと笑う。
「確かに実ばかり手に入れようとも、流せねば意味が無いか。返事は待たせるが、前向きに考えさせてもらおう」
「え──本当によろしいのですか!?」
 取り様によってはかなり失礼なことを叫びながら泣きそうになっている近従を放置して、王太子は一人馬車に乗り込んだ。


 その後、シェリアは不届きな近従に案内を申し出られたが、無視して部屋に戻り、彼の言葉と笑みの意味を考えた。が、よく分からない。シェリアの攻撃に気が付いていないとは思わない。負け惜しみだろうかと思うものの、それにしては吹っ切れたような雰囲気があった。
 シェリアは侍女のマルガリタに茶を入れさせて、椅子に沈み込む。受け取った茶は濃い色をしていた。一口口に入れるが、ジョイアの緑色の茶とは香りも味も全く違った。
「実って何かしら?」
 まさかこの痩せた土地では果実ではあるまい。北部の鉱山では何が採れただろうか……とシェリアは確認の為に資料をめくる。
 するとそこにはある珍しい石の採掘記録が綴られていた。決して大量ではないが、比較的高価な石。これが北部を支える貴重な資源なのだろう。
「ふうん、水晶ね」
 ジョイアでは決して手に入らないその石。砂漠が多いこの国で多く産出されると聞く。その結晶は宝飾品としてそのまま使われるほどに透明度が高く美しいと聞くが、シェリアは未だ目にしたことは無い。ガラスでさえ珍しいジョイアの人間としては当然のことではあったけれど。
「でも何を今さら? 新しく埋蔵が確認されたのかしら?」
 そうであれば、余計に王太子は逃せないと思う。シェリアの家が水晶の流通を握ることができれば、ジョイアでの市場を独占出来る。美しい石はさぞや高く売れるであろう。
 しかし……どうも嫌われたような気もしないではないし──もちろんそれは予想の範疇のことだったけれど──また別方向から攻める必要があると感じていた。
 シェリアは愛情などすぐに冷めるもののだと思っている。だからこそ、最初から彼に気に入られようなどとは考えない。もっと別の契約で縛る方が長続きするに決まっている。たとえば──そう、彼の王太子が想う女が居るのならば、それを利用するに越したことは無い。
(でも……あれはどの名に反応したのかしら)
 シェリアは思い出して首をひねる。一つずつ出さなかったのは失敗だった。たまたま目に入った毛織物に描いてあった星を利用させてもらって反応を見ただけなのだが……結局は、いまいち読み取れなかった。織物の話になったとたんに表情を固めて、心を閉ざしてしまったのだ。スピカかメイサか、はたまたシリウス皇子か、どの名への反応なのか分からない。
 まずあのメイサという女官を今の彼がどのように想っているのか。スピカの後釜なのか、それとも、真にただの〈再従姉〉なのか、重みが計れない。
 女の方は本気で〈再従弟〉と思っていたようにも見えた。探る機会は今まで訪れず、彼女はヨルゴス王子と彼の家へと去り、王太子は追いかけなかった。先ほど見送る姿を見つけ、もしかしたら王太子は振られたのかもしれないと思い、確かめてみたのだけれど……。図星の黙りかと思いきや、あの笑顔。弱みを掴んだと思った直後にそれは霧散してしまったのだ。
 彼が彼女を大事に思っている、それだけは確かなのだけれど、彼がどうしたいのか分からない限りは、シェリアはメイサから目を離すことは出来そうにない。女が帰って来たらもう一度しっかり探る必要があった。
(それにしても、王妃の座に興味が無いなんて、変な女だわ)
 家に連れて行かれるということは、相当気に入っているということだ。すぐに結婚という話になってもおかしくない。分かって付いて行っているとは思うし、それだけの魅力がヨルゴス王子本人・・にあるということだろう。だが、シェリアには王太子妃の座が目の前に落ちているのに、それに座らずに日陰の王子の妃の座に走るなんて、とても考えられない。
 そう呆れつつ、他の名に付いて考えはじめる。当初の目的。──スピカとの関係。彼女を王太子が本当に忘れたのか。それはぜひとも確かめたかった。
(とりあえず、王太子殿下は不在でどうしようもないし、……近くの者に話を聞いてみようかしら)
 自分に怯えたような眼差しを向ける近従の顔が浮かぶ。あれは鈍そうだから、何も知らないに決まっているが、ずっと傍に居るのだから、見聞きしていることは多いはずだ。その情報から何か推測出来ることがあるかもしれない。
「しょうがないわよね。何もしないのも、時間が勿体ないし」
 窓を見ると、丁度夕刻だ。とりあえず最初の獲物は彼で我慢しようと、シェリアは椅子から立ち上がった。

 *

 窓から赤い夕日が沈みいくのが見えていた。カーテンを引かないこの侍従部屋では全ての物が赤く染まる時間帯だ。
 同じく赤く染まった粗末なベッドが二人分の重みに耐えきれずに小さな悲鳴を上げる。結構な音が響くが、しんと静まり返った部屋にはそれを気にする人間は居なかった。
「あ、だめよ」
 細い指が彼女の体からセバスティアンの指を剥がして行く。もう一方の手は胸を押し、覆い被さった体を自分の上から押し除けようとする。
「やだ」
 セバスティアンは不満を口にする恋人の唇を塞ぐと、再びふくよかな胸に指を伸ばした。
 今日こそは口づけより先に。そう思って少し強引に自室に連れ込んだのだ。彼の部屋は主人の部屋に隣接している為、主人が居る時には出来ない行為だが、今日はこの階には誰もいない。衛兵さえも居ない。逢い引きにはもってこいの場所だった。
 そしてようやく触れた胸は凄まじく柔らかく、セバスティアンの頭は茹だり、理性は溶けていく。
 彼は彼女の服を脱がせるべく、留め金を探る。が、気ばかり焦って、外したと思った釦は飾りで肌に辿り着かない。そんなことが何度も続いた。
 やがて胸元の釦が一つはずれると、どこか甘酸っぱい上品な香りがたちまちセバスティアンの鼻に届く。
「──お仕事があるって言ってたじゃない?」
「大丈夫。どうせ当てにされてないんだ」
「駄目よ、真面目に働かないと。クビになっちゃうわよ?」
 唇の隙間から余裕のある口調で諌められる。が、こんな状態で余裕がある彼女が憎らしく、その原因に思い当たると馬鹿みたいに頭が煮えた。もしかしたら経験ありなのかと思った瞬間、思わず彼は彼女の下唇に噛み付いていた。
「つっ! もう、なによ! 駄目だってば!」
 テオドラはセバスティアンの胸を両手で押して、キスを中断させる。そして乱れた服を直して、部屋を出て行こうとした。寸ででセバスティアンは彼女の手首を掴み、壁と腕の間に囲む。そして俯いた彼女の顔を覗き込んだ。
「ねえ、なんで駄目なんだ」
 いつもは女官部屋では壁が薄いからという理由で断られた。が、今日はそんなことは気にする必要が無い、絶好の機会なのだ。
「自分の胸に聞いてみてよ」
 テオドラは不満げに指で唇をさする。
「──耳飾りは気に入らなかった?」
 そっと指を伸ばして耳たぶに触れると、硬い手触りを感じた。それはセバスティアンが最初に贈った贈り物。黄色の水晶を磨いた美しい耳飾りだ。小さいためそれほど高価な物ではないが、彼の給料の半月分を費やした。
「いいえ、気に入ったわよ?」
「首飾りは?」
「もちろん、いつも身に付けてる」
 テオドラの胸元を覗き込むと、胸は見えないが鎖骨の上に細い銀の鎖が見えた。これは給料の一月分だ。
「じゃあ、他に何が欲しいの」
「何も」
「何も?」
 テオドラは小さく頷いたが、直後微かに首を横に振り、セバスティアンを睨んだ。暗闇に居る猫のように大きな瞳孔に、彼は吸込まれるような気がする。
「──強いて言うなら、私、嫉妬してるのかも。あの赤い髪の女に」
 セバスティアンは驚いた。
「赤い髪? メイサ様?」
「〈様〉? 彼女ただの女官でしょ」
 テオドラは目を吊り上げると、不満そうに唇を尖らせた。
「い、いや、だって、えっと彼女、貴族の娘だし!」
「私だって貴族の娘よ?」
(わああ、そういえばそうだった!)
 もっともらしく言い訳したつもりだったセバスティアンは、反撃に泡を食い、さらに言い訳する。
「そ、それに王妃陛下の姪だし! 王太子殿下の再従姉だし!」
「へえ、でも、だから何なの」
 テオドラは納得しない。その上さらにセバスティアンを驚かせるようなことを口に出した。
「あなたずっと彼女を見てるって噂よ? どこにいても目で追ってるって」
「ええ!? どこでそんな噂!」
 まさに青天の霹靂だ。動揺するセバスティアンがテオドラを囲うのを止めると、逆にテオドラはセバスティアンを壁に追いつめた。
「本当なの? どういうことなの?」
「そ、それは仕事で……」
「仕事?」
「殿下が──あっ」
 そこでセバスティアンははっとして、口を閉じたが、勢いづいてしまったテオドラは追求を緩めなかった。今までの穏やかな彼女からは考えられないような冷たい笑みを浮かべて、セバスティアンを威圧した。
「適当な嘘ついても誤摩化されないわよ」
「嘘じゃない……殿下に見張れって言われてて」
 ああ、殿下申し訳ありません──そんな謝罪を胸に、怯えるセバスティアンはテオドラに向かって白旗をあげた。が、敵将は攻撃を止めない。
「そんなはず無いじゃない。どうしてただの女官を──しかも親戚なのでしょう?──見張る必要があるわけ? もしかして、殿下はその女がお好きなの?」
「いや……ええと」
 セバスティアンはそれは言うわけにはいかないと口をつぐんだが、彼女は一人勝手に自問を否定した。
「そんなはず無いわよね? だって彼女は愛妾ではなかったって噂だもの」
「それは確かにそうなんだけどさ」
 なんだかまずいことを口にしたか、認めるかしたかのような気がするけれど、あまりの急流に飲み込まれてもう訳が分からない。頭がどんどん真っ白になって行くのが分かった。とりあえず彼女の豹変が恐ろしい。今後もし浮気がバレたらただじゃすまない。これは将来に向けての予行演習なのかもしれない。
「ほら、やっぱり嘘なんでしょう、あなたが個人的に彼女のこと好きで……私と二股掛けているんでしょ!」
 セバスティアンの頭の中に一瞬だけメイサの笑顔が散らつき、思わず本音が出た。
「二股? そんなわけない! そんな羨ましいこと──」
「羨ましいこと?」
「え、いや、ちが」
「あなたのことなんて、もう、知らない」
 ぷいと顔を背けると、テオドラは扉に手をかける。セバスティアンは泣きそうになりながら彼女に追いすがった。
「ま、待って……」
「──じゃあ、一体彼女は何なのよ!」
「あ、あ、えっと、殿下の……想い人です……」
 セバスティアンは恋人の迫力に、とうとう観念して呟く。
「殿下の恋人なの? じゃあなんであの女、ヨルゴス殿下の所に居るのよ」
「いや、恋人ではないんだ、ええと、一方的にっていうか……俗にいう片思いっていうか」
「──片思い、ね」
 テオドラはその言葉を聞いてようやく満足したらしく、ひとまず牙を収めた。
 が、機嫌が完全に直ったわけではないらしい。俯いた顔の頬の辺りが不自然に強ばっている。
「今日はもう、戻るわ」
 そう言い残すと彼女は扉を開く。しかし足を止め入り口に留まった。
「どうした?」
 セバスティアンは固まった彼女の肩越しに銀の髪を見て蒼白になる。灰の瞳に優しく見つめられ、彼は石と化した。
「しぇ、シェリア様!? なぜ──」
「案内して下さると言われていたから、待っていたのですけれど。いつまでも来られないから探させてもらったわ。お邪魔でした? 仲が良いのは良いことですけど、声が外に丸聞こえ・・・・でしたわよ?」
 くすくすと笑う声は可愛らしいけれど、その目は全く笑っておらず、ギラギラと強い光を宿していた。どうやらすべては手遅れ。一番聞かれてはまずい相手に、今の会話を聞かれてしまったようだった。
(ああ、殿下──も、もうしわけありませ……)
 セバスティアンはその場にへたへたと座り込む。そのまま気を失ってしまいたいくらいだった。

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2011.2.11