23.涸れ川に流れるもの 03

 真夜中だというのに、館の中はまだざわざわと騒がしかった。カルダーノではムフリッドほど寒さが厳しくない為か、はたまた燃料の心配が無いのか。夜に行動する人間も多いようだ。
 屋敷の北側にあるヨルゴス王子の部屋の庭には古い実験部屋がぽつんと建っている。それを取り囲むように浅い人工の川が流れて小さな水音を立てていた。風流だとメイサが言っていたが、その実は、実験で火災が起きた場合に備えてのことだと王子は説明した。今、その中ではメイサが一人で作業をしている。
 彼女の傍に居るはずのルイザはフワフワの肘掛け椅子の上で、固まっていた。メイサから目を離すなという命が、ルイザの気を焦らせる。それでも屋敷の中で今一番危険なのは目の前に居る男だ。彼がルイザの前に居る限りは多少安心出来た。
 彼女は目の前にいる柔らかい表情を浮かべた王子を見つめた。ルティリクス王太子以外とこんな風に話すことは今までに無い。女官の侍女の身では当然で、全身が細かく震えるのを抑えることは出来なかった。

「今日は君にちょっと聞きたいことがあってさ」
 彼の王子はそんな風に茶化して口を開く。何を聞かれるかは大体察していた。平静を装うものの、声が震えた。
「なんでしょうか」
「君、なんで邪魔をするの」
「邪魔などしておりません」
「いいや。この間のは君の仕業だろう? 母上に会いに行ったら『早いわね、使いを出したばかりなのに』って感心されたんだけどさ」
「何のことでしょうか? 分かりかねますが」
「それから、あれ以来君がいつもメイサの傍にいるのも、随分目障りなんだよね。いくら用事をたくさん言いつけてもすぐに戻って来てしまうもんなぁ。どうやって片付けているかは敢えて聞かないけれど」
 意味ありげに冷たく笑うの見るかぎり、この王子はもうルイザが数人の侍従に取り入ったことを把握しているようだった。しかし、命じられた仕事はしっかり片付けている。そもそもルイザがこなすべきでない仕事まで命令に混じっており、こちらから文句を言いたいくらいだった。それは王子の方も分かってやっている気はするけれど。
 ともかく彼女は〈彼女の本来の仕事〉をこなしているだけだ。ルイザは堂々と胸を張る。
「私は一番近くでメイサ様をお守りするように、王妃陛下から命を頂いているだけございます」
「王妃? ルティリクスではなく?」
「……王太子殿下は何もおっしゃいません」
 昔からずっとだ。名さえ口に出さない。言ってくれればどれだけすっきりするだろうとルイザは思う。
「追って来ないだけでなく──ますます訳が分からないな、アイツは。絶対に舞台には上がらないつもりなのか? 防戦準備をこっちで整えようって思ってたけど……無駄かなあ?」
 ヨルゴス王子はそうぼやき、ルイザは防戦という言葉に顔を上げ、思い切って尋ねる。
「殿下は……メイサ様を妃にされるおつもりなのですか」
 ヨルゴス王子はあっさり頷いた。
「彼女が頷けばね」
「メイサ様は、殿下が申し込まれれば……頷かれます」
「僕もそう思うよ。の為に迷わず頷くだろうね。だけど、それじゃあまりに空しいだろう? だから、時間はかけるつもりなんだ。損得抜きで僕と一緒にいたいと思ってもらいたいから。でも、……時間をかけても無駄かもしれないな」
「なぜです」
「彼女は、僕に他の男・・・を重ねてる。いや、無意識かもしれないけれど、比べてるのかな。……君は何か知ってるんじゃないのかな?」
 ルイザは首を振る。思い切り心当たりはあるけれど、本人が否定しているのに頷くわけにはいかない。他人が、しかもただの侍女が口出しすべきことではないのだ。
「どうしてあんなに好きなのに、押さえ込んでるんだ? 叶わぬ恋でもないのに」
「私は何も存じ上げません」
 家の事情は決して漏らせない。ルイザがぴしゃりと言うと、ヨルゴス王子の大きな溜息が部屋に響く。
「君の口から言うわけにはいかないというところかな? 見守るのに徹するつもりか。よく出来た侍女だ。君の主人は隙だらけだから、丁度いいね。せいぜいしっかり守ってあげればいいよ」
「よいのですか?」
 あまりにあっさり許可を得てルイザは当惑した。
「さっき時間をかけると言っただろう? 口づけ一つであんな顔されたら堪らない。僕は彼女を泣かせたいわけじゃない。──そう約束しているしね」
「……」
 約束とはもしかしてと目で問うルイザを見つめ、王子は口だけに柔らかい微笑を浮かべる。
「ああ、そうだ。誤解しないでくれよ? 彼女は大事にしたいけれど、君たち外野が邪魔することには全く納得してないんだからね。ほら、そこの邪魔な箱を倉庫まで運んでおいて」
 王子が指差す先には大きな重そうな箱が二つ。今日ここに運び込まれたが、送り主に覚えが無いと王子が放置している物だった。女の力ではとても無理だろう。ルイザが目を剥いても「君なら出来るだろう?」と鼻で笑って立ち上がる。そして再び実験のためメイサの居る小屋へと戻った。

 *

「待たせたねー」
「や、薬液の調合は終わっています」
 扉から現れた人影にメイサは声を掛けた。外を歩く足音に気が付いた時には体は強ばっていた。それを必死になだめた今も、声は固い。
 あれから数日経つ。おそらくヨルゴスはメイサの変化には気が付いているのだろうけれど、そのことについて何も触れて来ない。いつも通りに実験助手を務めさせてもらっていた。
 我ながら甘えていると思う。男に縁のない自分が、こんな風に気に入ってもらえるなんて事は、この先無いに違いないのに。貴重な機会だから大事にしなければいけないに決まっているのに。
 それに、家の為にも彼と恋仲になるのが一番いいのは明らか。南部の富を使って、北部を潤す礎を築ける。──その為にも彼と寝るのだ。王妃もメイサとヨルゴスが互いにそうしたいと思えば良いと言われていたし、今がその時なのだと思う。だから覚悟を決めて彼と向き合おうと思うのに……なぜか、体が拒絶反応を示す。
 触れられたくない。その想いは押さえ込むほどに強くなり、メイサは自分のシトゥラの娘としての資質に絶望して途方に暮れていた。役に立てるはずだったのに。あの夜を越えて確かにそう思ったのに、何か別のものに縛られている自分を知る。とにかく──今のメイサは明らかにシトゥラの娘失格だった。
「じゃあ、作業の続きを始めようか」
 ヨルゴスがメイサの傍に来たとたん手が震えだしたが、メイサは用意していた話題を慌てて振ってそれを誤摩化す。
「ワジの調査はどうなったのですか? 以前、実験がうまくいくかもとお聞きしてましたが」
 昨日くらいからヨルゴスの周りがひたすらに騒がしかった。母親に呼び出されたと思うとすぐに戻って実験小屋に閉じこもった。かと思うとワジまで出かけたり。小屋にも侍従の出入りが激しかった。
 そしておかしいのはメイサには実験を手伝わせないのだ。昼間に薬液の調合を手伝うだけでいざ本番になると追い出された。今まではそんなことは無かったので、何か隠し事かもしれないとメイサは密かにヨルゴスの行動を窺っていた。
「──ああ。調査ね。思った通りいい結果だった。母上も妙に喜んでいて、今日も呼び出されて進捗を聞かれたよー。実験はまだ数回しか成功してないのにさあ、忙しいのに困る。これじゃあいつまでも結果が出せない」
 鬱陶しそうにヨルゴスは鋼色の髪をかきあげる。
「成功? ということは、調査はいい結果だったのですか?」
 教えてくれないのかもしれないと思いつつ問うたけれど、
「──見せてあげようか?」
 ヨルゴスは予想に反して、にっこりと子供のような笑顔で足元の木箱──例の銀色の薬液が入っている重い箱──を開けた。


「昔からこの方法は西の方でよく行われていたようなんだ。だけど、この辺では産出されない希少な金属がどうしても必要でさ。それが、今回ワジで見つかった〈水銀〉だ。液体だけど、すごく重いのは、金属だからなんだ。だから蒸気を吸うのはまずい。中毒死の例を聞いてるし。王宮でやってた時は、材料もあまり無いし本当に小さな実験だったから平気だったんだけどさ……今回は大量の水銀を使うし、危険だからなるべくは君には近づいて欲しくなかったんだよ」
 窓は大きく開け放たれていたが、小屋の室内は暖炉でがんがん焚かれた火のせいでひどく熱い。メイサとヨルゴスは顔に布巻いて、暖炉から距離を取っていた。万が一発煙でもしたら、すぐに逃げることいわれていたので、メイサは腰が引けていた。
 やがて炎が小さくなると、ヨルゴスがメイサを部屋へ戻るようにと促した。そして自分は暖炉へと向かい、暖炉の中から何かを取り出している。

「ほら、見て」
 一足先に部屋に戻ったメイサが茶を入れていると、ヨルゴスが胸に抱えた固まりを机の上に置き、巻いていた布を取り払う。中から現れたのは──花を手に微笑んでいる、美しい女性の像だった。
「え、これ──」
 メイサは目を見開く。まず目についたのは色だった。その像は目映く光る金で出来ているようにしか見えなかった。
「まさか……金ですか?」
「あれ、そっちに興味が行っちゃった?」
 ヨルゴスは目を丸くして、直後残念そうに肩をすくめる。が、すぐに気を取り直した様子で説明を始めた。
「いや、これは鍍金めっきという技術なんだ」
「めっき?」
「像の本体は銅で出来ている。その上に薄い金ぱくを伸ばして張ったんだよ。その際に水銀で金を密着させる。そして焼いて水銀だけを蒸発させるんだ。ほら──上手く張り付いてる。すごいだろう?」
 ヨルゴスは像から目が離せない様子だった。その茶色の瞳が子供のようにきらきらと輝いている。
「すごい……です」
 メイサは素直に感心する。その像の美しさもさることながら、精巧な細工が施された像は、金像にしか見えなかったからだ。
「金は希少だからね。今後、これで宝飾品なんかを造って行ければいいなあと思うんだ。そうすれば、国内の産業に幅が出る。今、国の財源は原料の輸出が主だけど、それに付加価値を付けて技術力で勝負して行く必要がある──このところの会議では皆でずっとそんなことを話し合ってたんだ。これは僕なりの答えかな」
 メイサは目の前の像の美しさに心を奪われていた。見つめていると、次第に、国の未来が明るく開けるような気がして、胸が熱くなる。自分だけではない。貧しさを克服する為に、今、国が動き始めているその流れに直に触れた感動だった。
「殿下は──本当にすごいです。本当に、綺麗」
 ヨルゴスは嬉しそうに微笑み、一歩メイサに近づいた。しかしメイサが僅かに後ずさると、彼は僅かに苦しそうに顔を歪める。
「急がないつもりだったんだけどなぁ──結構苦しいかも」
 ヨルゴスはメイサを引き寄せると、腕の中に囲う。
「で、殿下……」
 逃げ出したいのを必死で堪えている自分を知り、メイサは情けなさに唇を噛みながら、項垂れる。
「そんな顔しないで。何もしないよ。約束するから、怖がらないでくれ。君を傷つけたくはないんだ」
 その言葉を聞いた瞬間だった。メイサは自分の足元が崩れ落ちるような感覚を覚える。

『お前を傷つけたくはない』

 胸の内にずっと刻まれていた言葉だった。ヨルゴスの口から同じ言葉を聞いてメイサは悟る。違うのだ。どうしても違うのだと。
 ルティの発したその言葉の重みをメイサは十分に知っていた。彼は一度間違いこそしたけれど、未だにずっとメイサを守り続けてくれている。メイサが傷つかないようにと見守ってくれている。
 目に涙が浮かぶのを、歯を食いしばって耐える。ヨルゴスはそれに気が付かないのか、それとも気づかぬふりなのか、メイサの髪をそっと撫で続ける。メイサの心はその間ずっと叫び続ける。違う、違うと。自分の欲しいものは別のものだと。
 ヨルゴスの肩の向こう、燻っていた暖炉の火が風にあおられて、時折大きく煌めいた。風は火を消そうと力を強めるけれど、炎は煽られて余計に熱を増して行く。

 押さえつけていた。そうしているうちに、いつか消えると思っていた。だけど──
 知らぬふりをしているうちにも、その想いは以前よりもふくらみ、いつしか身を焦がすような熱までも孕んでいた。

copyrignt(c)2008-,山本風碧 all rights reseaved.

2011.05.14改
2011.2.16