23.涸れ川に流れるもの 04

 メイサはヨルゴスの腕の中で、ぼんやりと昔の事を思い出していた。閉じ込められた家の中、メイサが鬱屈しだす頃にいつもルティがやって来て、彼女に光を見せてくれた。彼だけがメイサの支えだったのだ。
 ヨルゴスがメイサにくれた言葉を思い出す。世間に忘れられた男に光を見せてくれたと、彼は言ったけれど、そのメイサに光を見せてくれたのは少年の日のルティだった。

「──お、お邪魔いたします……!!」
 ルイザの切羽詰まった声が響き、メイサはようやくヨルゴスの胸から顔を上げた。そうしていつの間にかヨルゴスに抱き締められていることに気が付いて、慌てて腕の中を抜け出した。
 そんなメイサにルイザは一瞬責めるような目をむける。彼女ももたもたしているメイサをもどかしく思っているのかもしれないと、今度は不甲斐なさで涙が出そうになった。
「本当に邪魔なんだけどなあ……」
 ヨルゴスはやれやれといった調子でぼやくと、ルイザを睨む。穏やかな彼には珍しく、目が全く笑っていない。
 しかしルイザはヨルゴスの不機嫌さなど構わなかった。わなわなと声を震わせて、訴える。
「それどころではないのです、メイサ様、それから殿下。私、とんでもないものを見つけてしまって……!」
「とんでもないもの?」
 ルイザは扉の向こうの衛兵を気にした。
「ここではお話し出来ません──どこか誰にも聞かれない所はありませんか」


「何なんだよ」
 時折耳に冷たい水音が響く実験小屋へと移動すると、ヨルゴスは余裕の無い口調でルイザを問いつめる。ルイザの雰囲気が移ったかのようで、メイサも落ち着かない気持ちになっていた。
 ルイザは、そわそわと辺りを見回して声をひそめる。
「殿下、先ほど、私に荷物を運べと言われましたよね?」
「ああ、言ったけど。それが何?」
 不機嫌そうにヨルゴスは頷く。
「中身を確かめられましたでしょうか?」
「いや。中まで詳しくは確かめていないな。あれは僕には関係のない荷だったから」
「わ、私、あまりに重いので、分けて運ぼうとしたのですが──中の袋が破けて……こんなものが」
 ルイザはそう言うとポケットから恐る恐る一枚の銅貨を出して、メイサに手渡した。が、よく見ると大きさが銅貨にしては小さい。それに……そこに刻まれた模様が違う。銅貨ならば弓型の月が描かれているはずなのに、そこに描かれているのは真昼に輝く星、太陽だ。それがどういうことかに気が付いたとき、メイサの全身に鳥肌が立った。
「こ、これ」
「──これはなんだ」
 メイサが隣を見ると、青ざめた顔のヨルゴスがメイサの手の上を見つめて震えていた。
「いくつあった」
「ざっと千は越えているかと」
「ババアの仕業か。いつかこんな馬鹿げたことをやらかすと思ってたんだ……! くそっ! 道理で実験費用を気前良く出したわけだ!」
 余裕を全く失ったヨルゴスを前にメイサも青ざめる。彼のその態度も仕方が無い、おそらく進行している企みが表に出れば、家を潰すほどの大罪に値する。
 そのとき、扉が叩かれ、侍従がヨルゴスを呼んだ。メイサは慌てて銅貨をポケットに仕舞う。
「レサト様がお越しです」
「母上が?」
 元凶の到来に、小屋の中の空気が一気に緊迫した。


 レサトという女性は、シャウラと同じくらいの年齢のはずだった。が、メイサの目にはシャウラの方が随分若く見えた。背は低いのに体が大きく見えるのは、無駄に付いた脂肪のせいか。昔はさぞ美しかっただろうとは、くっきりした顔立ちを見れば想像がつくが、それは加齢によって随分失われていた。髪は染められているのだろうか、この国では珍しい金の髪をしている。化粧も派手だ。華やかではあるが穏やかな外見のヨルゴスとはまったく親子には見えなかった。
 彼女が部屋に入って来たとたんに、花の香料が床にぶちまけられたのかと思うくらいの強烈な匂いが広がった。メイサは思わず息を止めるが、間に合わず、鼻の奥に灼けるような痛みさえ感じた。
「実験はうまくいったようね」
 彼女が後ろに控えていた侍従から例の女性像を受け取ると、ヨルゴスの顔に殺気が籠った。
「ヨルゴス、あなたに頼みがあるのよ」
「断る。馬鹿な事はすぐ止めろよ、死にたいのか?」
「まだ何も言っていないわ? それにあなたに断る権利は無いの。いままで遊ばせてあげてたのは何の為だと思っているの。王位も逃す、役に立たない息子を持って苦労した母親の気持ちを少しは汲んで欲しいわね」
「──っ」
 ぎりという歯を噛む音が聞こえる。見るとヨルゴスの顔に朱が混じっていた。瞬間、メイサは昔の自分を思い出す。カーラに役立たずと言われ続けた自分と重ねずにはいられなかった。胸の奥から熱い固まりが湧きだし、それは溢れて喉を焼いた。
「役に立たないなどと言わないで下さい! 殿下は素晴らしいお方です」
 ぎょっとしたような顔でヨルゴスがこちらを振り向き、メイサは心の中で呟いたつもりの言葉が外に漏れていた事に気が付いた。レサトは眉を上げると、メイサを睨んだ。
「これが例のシトゥラの娘なの。そう……あの女にどこか似ているわ」
 レサトはメイサの頭のてっぺんから足の先までを舐めるように観察すると、手に持った像をちらりと見て面白く無さそうに鼻を鳴らす。
「噂通り、子をたくさん産めそうないい体つきをしているわね。だけど、どうなの、その出過ぎた態度は。私に意見しようっていうの? さては、あなたそうやってヨルゴスを庇立てして、早速取り入ろうという魂胆ね? 聞けば、北部の開発の資金集めをしているっていうじゃない。王子相手に体を売るなんて、シトゥラはどういうつもりかしら。──不愉快なのよ。使い古しの女官になんか、うちはびた一文払わないの! 傷物を拾ってあげるだけで有り難く思いなさいね!」
 怒濤のような言葉の波にメイサは目を見開く。一部は褒められているような気がしたけれど、それよりも罵倒の言葉が胸を刺していた。メイサの仕官をそんな風に捉えられていて戸惑った。飾る事無しに言えばそういう事ではあるけれど、もともと政略結婚と言うのは利権の絡む取引だと思っていたし、ヨルゴスにも直接協力を要請している。互いに納得しているはずの事だ。
 メイサの口答えがそれほどに気に障ったのだろうか。不愉快と言われたけれど、メイサの方もこれほどに不愉快なことを言われたのははじめてだった。
 なかば呆然とするメイサを見て、ヨルゴスはここに存在している事が苦痛で堪らないという顔をする。
「──黙れ。彼女をそんな風に侮辱するなよ」
 レサトはヨルゴスがメイサを庇ったとたん、手に持った像をヨルゴスに投げつけて、さらに口から火を吹いた。
「あなた、まさか本気になっているんじゃないでしょうね……! 簡単に惑わされて、何をやってるの。跡継ぎが必要だからこちらも贅沢は言わなかったけれどね。金目当てなら、話は別でしょう? 絞るだけ絞りとって逃げかねないじゃない。まあ、愛だの恋だの屁理屈捏ねてたあなたが、やっと子供を作る気になったのは喜ばしい事ね。さっさと産ませてしまいなさい。産んでしまえば用済みだし、返品しても構わないでしょ」
 メイサは思わずまじまじと目の前の女性を見つめてしまっていた。
 今まで人をそこまで嫌った事は無かったけれど、この女性の事ははっきりと嫌いだと言える気がした。ヨルゴスが彼女の話になると態度を変えた理由がしみじみと分かった。

「……ばれ」
 それは、メイサの耳には、地の底から響くような呪いに聞こえた。
「なに?」
「く た ば れ、ババア」
「あらあら、いつになったらうちの子は反抗期が終わるのかしらね」
 レサトはやれやれと肩をすくめる。ヨルゴスは苛立ちをそのままに回れ右をして大股で歩き始める。
「ちょっと、どこに行くつもりよ! あなたには仕事があるのよ!」
「家を出る。どちらにせよ、この家はもう沈む。馬鹿な当主のせいで」


 メイサはヨルゴスに追いすがった。ルイザが後ろから早歩きで付いて来るが、メイサは服の裾を軽く持ち上げて、駆け出した。そうでないと怒りを纏ったヨルゴスには付いて行けなかった。
「──待って下さい! 放っておいていいのですか!?」
「いい。もうほとほと愛想が尽きた。あいつの尻拭いはたくさんだ。君も君だ、あれだけ言われたらさすがに怒れよ。少しは反論すればいいじゃないか」
 メイサは何か反論出来ることがあっただろうかと思い出そうとするけれど、レサトの放った言葉はほぼ真実だったような気がした。未だに実行には至っていないが、メイサは元々北部開発の資金の為に彼に近づいた。それはヨルゴスもよく知っているはずの事だった。
「いえ、でも反論も何も、本当の事でしたし……最初に申した通りです。ご存知だと思っておりました」
「…………あーあ。君は本当に正直で結構だね」
 どうやら何かが癇に障ったらしい。ヨルゴスは呆れたように言い捨てて、余計に足を速める。
「どうされたのですか、私何かいけない事でも申しました?」
「過去の事とはいえ、知りたくない事はあるんだよ。特に本人の口から聞くのは最悪だね」
「過去?」
「もういい、今はそれ以上聞けないから」
 もしかして、ヨルゴスはメイサが男を知らないと思っていたのだろうか。傷物、そこを否定して欲しかったのかもしれない、そんな風にやっと思い当たる。だが何をどう話していいか分からないし、まず、今はそんな事を話している場合ではない。
「申し訳ありません。でも、お願いです。止まって下さい。戻ってすることがあるじゃないですか!」
 メイサはめげずに息を弾ませてヨルゴスに付き添う。ヨルゴスは自室に辿り着くと、部屋を素通りして、実験小屋へと向かう。
 そして、部屋に入るなり、ヨルゴスは机の上にあった硝子製の瓶を次々に床に払い落として行く。痛々しい音が響き、硝子の破片が床に飛び散った。ヨルゴスが薬液の瓶にまで手をかけたのを見て、メイサはそれ以上の被害を防ごうと、慌てて彼の腕を掴む。
 ヨルゴスは、捨てられた子猫のような瞳で、恐る恐るのようにメイサに問うた。
「君はこの報告を土産にルティリクスの元に戻るのか」
「何をおっしゃるのです」
 言われてみれば、ここに潜り込んだ当初・・の目的はまさに彼が言った通りだった。これでルティを脅かす存在を確実に権力争いから外す事が出来る。だが、直後メイサは首と共にその考えを振り切った。ヨルゴスという人間を知った後に、そんな勿体ない事は出来なかった。
「今ならまだ間に合います。レサト様にあの〈銅〉を始末してもらいましょう。鍍金が終わらなければただの銅の固まりです。おもちゃみたいな物です! こんな馬鹿げた事で、殿下の実験を無駄にさせたくありません! 先ほど言われたではないですか、この技術で国を豊かにするのだと」
 ヨルゴスは、レサトという名に顔に影を落とすと、自嘲気味に微笑む。
「母上を動かせはしない。情けないだろうけど、僕には力が無いんだ。あの通り、ずっと親の言いなりだ。僕は、君が言うような素晴らしい人間なんかじゃない、……誰の役にも立たない人間なんだ」
 その途方に暮れたような口調を聞いて、メイサは、彼が自分と同種である事を再び感じた。押さえ付けられ続けて、出口を見失っている小さな鼠。与えられた小さな遊び場までもあんな風に荒らされて、傷つき、光を失っていた。
「いいえ」
 メイサは必死で首を振る。そして彼の手を握った。
 それは、決して美しい手ではなかった。ルティの様に剣だこや傷があるわけでもないが、代わりに薬液でただれたやけどの痕が所々にある。だが、それは彼が長年こつこつとやり遂げて来た事をそのまま表しているように思えて仕方が無い。
 彼の造った像は素晴らしかった。彼が今全部を放り出して、これからも母親の下から抜け出さなければ──彼はずっと昔のメイサのように、羽ばたく事を忘れて閉じこもってしまう。
 彼が努力して得たものは国を栄えさせる技術に繋がる。それに素晴らしい頭脳を持つ彼ならばさらにすごい発見をし続けるだろう。こんな所で、輝く才能が潰れていくのは見たくなかった。メイサは才能がなくとも抜け出せた。メイサより優れたヨルゴスなら容易いに決まっている。
 檻から飛び出すにはきっかけと少しの勇気が必要なだけなのだ。
「私には分かります。殿下は国に無くてはならない存在だと。だからお願いです、今すぐ──」
「メイサ」
(え?)
 身構える間も、怯える間もない、一瞬の事だった。メイサはヨルゴスの胸の中に力一杯抱きしめられていた。あまりに突然のことに思考が停止したメイサは、唇と唇が触れている事に暫く気が付かなかった。それがキスだということを理解したのは、ヨルゴスが顔を上げた後。彼の瞳があまりにも近くにあり、それから、唇に彼の熱い吐息を感じたからだった。
「国に無くてはならない、か──そんな言葉は欲しくない」
 さらに掠れた声が唇の上で囁かれた。いつもの軽い調子など、微塵も無い口調に、メイサは彼が誰だったか分からなくなり、ただ呆然と間近にある彼の顔を見つめていた。
「予測がつかない。どうして僕に約束を破らせるような真似をするんだ、君は。──ああ、くそ、分が悪いのは分かり切ってるのに」
 苛立ったような瞳がメイサを責めた。何もしないという約束を破られたのはメイサなのに、どうして怒られるのか分からない。予測がつかないのはこちらの方だとまごつくメイサに、ヨルゴスははっきりと宣言した。

「僕は『君に無くてはならない』存在になりたいんだよ。──君が欲しい。僕の妃になってくれ」

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2011.2.19