鏡の中に僅かに曇った顔の女が居た。
後ろからルイザが鏡越しに顔を覗き込む。彼女は赤く長い髪を梳かしながら、気遣うように声をかけた。
「メイサ様……本当によろしいのですか。好きでもない人と寝るのは辛いですよ」
ルイザは苦しげな顔をしていた。
「そう、よね」
ルイザには経験があるのかもしれないとメイサは思う。ルイザは──いや大抵のシトゥラの娘はメイサよりも仕事ができるから。でもこれで皆だけにその辛い想いをさせる事は無くなるのだ。それどころか、もう誰もそんな辛い想いをしなくてすむようになる。
「でも、殿下は良い方だから」
まだ閨を共にしていないから分からないが、少なくとも日常に苦痛は無いだろう。似た者同士で過ごす日々は、きっと穏やかで暖かいものになる。それは容易に想像ができた。
「良い方であっても好きになれるかは別です。ヨルゴス殿下も、メイサ様の心が無いのはお辛いはずです。……メイサ様は、ヨルゴス殿下に残酷な事をされようとしていらっしゃるのにお気づきにならないのですか」
「残酷?」
メイサが戸惑うと、ルイザは意を決した様子で、はっきりと言い直した。
「メイサ様はルティリクス様を決してお忘れにならないのに、その想いを抱えたまま、ヨルゴス殿下に嫁がれると言われるのですか」
メイサはルイザがメイサの気持ちを知っていた事に驚き、しばし口をつぐむ。いつ知ったのだろうと考えて、ふいにシャウラの顔が思い浮かんだ。
「残酷……確かにそうね。でも…………殿下が、それでも良いと言われたの」
メイサは自分の想いが消える事は無いことを知っていた。だから、それを理由に断ろうとした瞬間、ヨルゴスは話を聞く事を嫌がり、先回りして言ったのだ。『僕は、君の過去くらい受け止める自信はあるよ』と。
そしてメイサの心を知っているのか、『忘れたくないのなら、無理に忘れる必要は無いし』とまで言ってくれた。とにかく、彼はメイサに断りの言葉を言わせないつもりのようだった。その意外な強引さに目を丸くしつつ、その場では口をつぐんだ。後になればなるほど断りにくくなる事は知っていたけれど……彼を目の前にするとどうしても言うことができなかったのだ。
『すぐに答えをくれとは言わない。だから、ゆっくり前向きに考えてみてくれないかな』
そう言って、彼は王子の地位を手放さない為に戦い始めた。『君を手に入れるには必要な地位だからね』と、暗い表情を全部取り払って前を向いた。
それでも、彼は母親に何かを頼むつもりは元より無いようで、家の中でレサトのやり方に不満を持つものを味方に付けると言っていた。裏で例の銅を全て処分してしまうと。メイサは少々不安だったけれど、まともな頭を持っていれば、あのような企てが自らを滅ぼす事はすぐに分かるはずだった。
当然手伝う気で居たメイサは王宮に戻されることになった。ここでもまた足を引っ張っているのかと落ち込んだメイサに向かってヨルゴスは『君が大事だから、危険な事はさせたくないんだよ』と真剣に訴えた。メイサを守りながら、レサトと対決するのは難しいと。最悪、命の危険があると言われたが、頑固に残ると言ったメイサに対して、ヨルゴスは、『残るのなら、我慢しないよ。昼も、
それで、メイサは慌ててカルダーノを飛び出して来たのだ。情けない話だが、考える時間をくれるというのなら、じっくり考えてみたかった。
そして、王宮で数日落ち着いて考えた後、メイサの中では答えは出た。今日はその報告に王妃の元へと上がるつもりなのだ。
無言のルイザを従えて、王宮の廊下を急いだ。シャウラはこのところ多忙を極めているそうで、メイサが何度話をしたいと申し込んでも断られた。だが、昼時の今ならば、部屋に戻っているはずだとメイサは予想していた。報告だけでも早めに行わないと、進むものも進まない。固めた覚悟も揺らぎかねない。それが一番怖いのだ。
今、ちょうどルティが王宮を離れている。どんな理由にせよ少しでも反対されれば──そんな理由はもう見当たらないのだけれど──確実に揺らぐのが分かっていた。だからこそ不在の間に話を固めてしまいたかったのだ。
ルイザに前もって早馬で知らせてもらったから、シャウラはある程度の事情は知っている。けれど、例の偽金の件はまだ伏せているし、メイサの返事についても報告していない。それはメイサの覚悟と共に伝えるべき事で、伝言などですませて良いとは思わなかった。それに当主のカーラにも判断をあおぐ必要はあるだろう。
恋の駆け引きに成功した──と言えるかどうかは、ヨルゴスが王子の座を死守してくれなければ、分からない。彼はそこの所はよく心得ていて、万が一家が潰れるようなことがあれば、プロポーズは無かった事にしてもらうと言った。無かった事にするつもりは無いとも言い切ったが。
メイサは階段を踏みしめながら、彼の熱の籠った言葉を反芻する。そして、怯えるほどではなかった口づけや抱擁も。今までに無い経験に頬は火照り、胸は音を早めた。けれど、やはり胸の底に付いた重しがフワフワと漂おうとする心を引っぱるのだ。
シャウラの居住がある塔を登り切ると、春の近づいた淡い色の空に薄い雲がかかっていた。地平線はいつものように砂埃で霞んでいる。舞い上がった黄色い砂が空を柔らかい色に変え、その上空に向かうにつれて濃くなる青がひどく美しい。開け放たれた、空を四角く切り取った大きな窓からは、真昼の暖かい日差しが差し込み、大理石に光の花を咲かせていた。しかし、メイサが歩くとそこには黒い影がぽつりぽつりと落ちる。まるで、彼女の心の憂鬱を映すかのように。
ふいに強い風が廊下を駆け抜け、メイサの赤い髪を舞い上げた。そういえば、と、もうすぐメイサは二十三歳になる事を思い出す。この春の強い風を感じる度に、痩せた大地に新しい命が芽吹くのを感じる度に、一つ歳を取る。
ルティと同じ歳であるひと月ほどの僅かな時間だ。今はさほど大きな差でないその歳の差にも、昔は僅かな優越感を持っていたような気がした。彼女が彼に敵うのは僅かに長く彼よりも生きている時間だけだったから。
(二十三歳か……。結婚するにはギリギリよね)
アウストラリスは周辺諸国に比べると晩婚傾向にあるけれども、二十を過ぎると縁談の数ががくりと減ることも確かだった。特にメイサのように無駄に身分がある女が結婚をしたいのならば、この機会を逃せばもう二度とは機会が無いだろう。しかも相手は自分には勿体ないような男性だ。となれば、選択肢は一つ。メイサだって結婚に対して多少の乙女らしい憧れはあったのだ。
しかし、なぜか大きなため息が飛び出した。「どうされましたか」と気にするルイザに「気にしないで」と言うと、メイサはシャウラの部屋の扉の前に立った。
*
シャウラは自室に隣接したテラスで早めの昼食をとっていた。薄いパンに野菜と卵を挟んだもの、あぶって蜂蜜を塗ったもの。それに果物と僅かな果実酒。女官に用意させた簡素な昼食だ。急に春らしくなった日差しに誘われて外に出てみたものの、今日は風が強くすぐに失敗したと思った。が、再び用意させている時間も無い。早く食べて部屋を出なければ、厄介なものが飛び込んできそうな気がしていた。
厄介なもの──それはメイサだ。シャウラはメイサが持って来る報告を避けていた。こうなることは一応予想してはいたのだけれど、まさか恋愛期間を殆ど持たずに結婚ということになるとは思いもしなかった。まずヨルゴスは男色だという話ではなかったのか。その情報をしっかり確かめなかった自分を責めるが、今更もう遅い。ルイザがカルダーノで調べた所によると、どうやら、ヨルゴス王子は母親への反抗から、結婚しないためにいろいろ策を練っていたようだった。屋敷の中では常に母親のレサトが「跡継ぎを!」とうるさかったそうで。その母親から庇った事で、メイサは彼の心をつかんでしまったようだと、ルイザは簡単に報告した。
おそらくメイサは何の計算もなく、困っている彼を放っておけずにやった事だろうが──
(男はそういうのに弱いのよね……)
レサトのような母性を持たない母親を持つヨルゴスが、メイサの中の母性を求めるのは極自然の事だ。ルティが、シャウラに求めて得られずに、メイサにそれを求めたのと同じように。
二人の男は同じものを求めて、メイサを奪い合う。いや──肝心のルティはその決闘の舞台に立とうともしていないようだが。
ともかく、メイサが、ルティの不在時に何もかも進めようとしている気がしてならなかった。そうはさせないとシャウラは思う。舞台に立たないままに決着を付けさせるわけにはいかないのだ。
そのルティは未だムフリッドから戻らない。彼が出かけてから既に十日目だが、帰るという先駆けも無いままだった。調査に時間がかかっているのだろうか。それとも体調不良が祟ったのだろうか。ただでさえ往復で十日の距離だ。向こうでの滞在が長引いた分だけ帰りは遅くなる。
メイサの相手についての調査など頼まなければ良かったとシャウラは今になって後悔していた。調査自体はそんなに難しいものではない。あの家の人の出入りは制限されており、その上、細かく記録されている。メイサが出かければ確実に記録が残るし、監視もつくはずだ。そうでなければ、入り込んだ者を調べればすぐに発覚するに決まっていた。だからこそ、ついでに調べて来るという言葉に思わず乗ってしまったのだが、どうやらそれどころではない事態に陥ってしまった。今は男の事などどうでも良いから、早く帰って来てもらわねば、非常に困る。
今メイサがヨルゴスとの結婚をシャウラに報告すれば、シャウラはそれを阻止する理由を持たない。彼女の幸せのためにも、シトゥラの存続の為にも、全く悪い話ではないからだ。
ルティが欲しいと一言言えば、動くことができるのに。彼女がずっと待ちわびている言葉は、未だ彼の口から出て来る事は無い。彼が今度戻って来たときが最後の勝負かもしれないと思っていた。
(それまでは、メイサに捕まるわけにいかないの)
そう思い、シャウラは、手にしたパンの欠片を口に放り込んで、膝の上に落ちたパンの欠片を払う。小鳥が目ざとくそれを見つけて、空から舞い降りる。鳥の影につられて見下ろした中庭に、一筋の銀色の煌めきを見つけて、シャウラは一瞬動きを止めた。
「────あら?」
よく見ると、二つの影が、近づいて話をしている。この中庭はシャウラの居住とルティの居住の合間にあるが、日当りが悪いせいもあり、めったに人が通らないので、こういった光景は珍しかった。
(あれは?)
銀の髪はこの国では珍しい。たしか、息子の妃候補がそんな容貌でなかったかとじっと見つめる。もう一人の影は普通の茶色の髪をしているから、この国の人間だろうと思うけれど。
(あんな所で何を? 迷ってでもいるのかしら?)
内容は分からないけれど、耳を澄ませば怒鳴り声らしきものが聞こえる。どうも揉めているような気がした。
(一体何事? もう、そっちまで構ってられないから、今は大人しくしておいて欲しいのだけれど……)
まだ他にも問題が山積みだった事を思い出し、いっその事纏めて送り返したくなる。さらに覗き込もうとした時、午後を告げる鐘が鳴り気が削がれる。
「え、もうそんな時間?」
慌てて、シャウラは部屋に入る。そして上着を手に、外に出ようとしたそのとき。開け放たれた扉の向こうで、赤い髪が風に靡いた。
「シャウラ様、重要な報告がございます」
ずっと避け続けていた来客は、覚悟をたたえた真っ直ぐな瞳で、シャウラをじっと見つめていた。