24.その胸の内に棲む名は 03

「じゃあ、後を頼む。なるべく地盤のしっかりした土地を選んでおいてくれ」
「はい。お任せください。楽しみですな! ──これからは若者も集まり、この土地も活気づきます!」

 ルティは、採掘の責任者に王都で出た調査の成果を伝え、新たに人材を集める為の役人を手配すると、すぐに王都への旅支度を始めた。
 ムフリッドには昨夜遅く到着し、今朝からの作業だった。その間、本来の目的である土壌調査の続きと、それから、残りは工房を建てるに良い場所探しを行った。資源については既に前回の調査ですんでいたのだが、活用する場まで作って、ようやくそれは実りを得る。実りを金を持ったジョイアに流すなら、より高く売りつけてやるつもりだった。シェリアと言ったか、あの妃候補の言葉がルティにそれを気づかせた。
 うまくいきそうだ。むしろ、今までこの方法が取られなかった事が驚きだった。隣国に金を持った確実な客が居て、それを作るだけの材料はここに大量にあるのだ。そして、それをやり遂げるだけの技術力も、すぐに身につけることができるはずだった。
 北部の大地には砂しか無い。が、これからその砂が金を生み出す大地となる。貧しい北部は救われ、シトゥラは誰一人犠牲になることなく、新しい道を歩き出すことが出来る。
 ルティは計画が進んだ事にほっとすると、急いで馬車に乗り込む。既に空は赤く染まり、日は西に傾きかけていた。今回は明日まで滞在する予定で、今からシトゥラに戻って当主代理である叔父のカイサル──いや、メイサが従姉でなかった時点で、もう叔父ではないのだが、母を母と呼ぶのなら、彼は叔父のままでいいはずで──との打ち合わせだ。終わり次第に王都に戻る。忙しいが、少しでも早く動き出すため、戻って話を詰める必要があった。
 馬車が動き出すと馭者が持ち込んでいた水をとり、懐の痛み止めを取り出して口に含んだ。
 こじらせた風邪は、馬車の中で散々寝たので、そこそこ良くなった。が、足の怪我はまだ少し痛む。捻挫だけでなく、打ち身もひどかったのだ。ルティは膝を打ち付けて大きな痣を作った。手のひらほどの大きさの痣は、黒に近い紫色から黄色に色を変え、最後は赤く変色し、やっと消えて行く。今まで散々打ち身はして来たが、これほど大きな痣を作ったのははじめてだった。
 そんな風にルティが怪我の状態を確かめていると、馬車はほどなくシトゥラに到着した。ルティの足がシトゥラの門前につくと同時に、シトゥラの侍女が慌てた様子で走り込んで来た。
「悪い、待たせたか」
 叔父はもう準備ができているかもしれないと、急ごうとすると、侍女は首を振る。
「いえ。カイサル様はまだ戻られておりません。そうではなく、あの──今朝頼まれた調査についてですが」
 息を切らし、頬を染めた侍女がルティに書類を手渡す。
「ああ、例の」
 そういえばとルティは身を乗り出す。シャウラに頼まれ、個人的にも気になっていた事項だ。が、こんなに早く調査がすむとは思わず、あとで王宮へ届けてもらえば良いと思っていた。
 それは──メイサが決して口を割る事が無い、仕事相手についての調査。以前カーラにひそかに尋ねたが、知らぬ存ぜぬで相手にされなかった。もともと女の仕事には口を出すなという主義だ、期待しても無駄なのだが、シャウラが言うように、当時の彼女の動きを探れば多少分かる事はあるのかもしれないと、再度調べてみる気になった。
 そもそも、彼女を金で買うなど──その時点で、相手を許すことができない。ルティを許すような彼女の事だから、合意の元だったのかも怪しい。そう考えついた所で、あの時に感じた絶望と焦躁が蘇る。もし彼女を泣かしたならば──そいつの命は無い、そう思ってルティは思わず腰の剣の柄を握りしめた。
「ジョイア皇太子ご夫妻のご滞在期間ですが、メイサ様はどこにもお出かけになっておりません」
「…………」
 ルティは剣から手を離して書類を受け取ると、そこに描かれた表を覗き込んだ。どこか兵の勤務表に似たような形式で、名前と勤務時間の欄がある。メイサの名の隣はずっと空欄だった。当主代理という彼女の立場ならば当然なのだが、問題はその隣の備考欄。屋敷から出た場合は、そこに行き先が書かれるが、カーラでさえ記入される欄も、彼女のはずっと空欄だった。
 となると、外部からの侵入者を考える必要がある。が、あの要人が滞在していた期間に、侵入など考えるのも馬鹿馬鹿しい。一応調べたが、やはり来客は他には居ないし、不審者の侵入ももちろん無かった。
「……じゃあ、父上の近衛隊か?」
 そう呟いたもののすぐに否定する。勤務中に女にかまけるような男は近衛隊などには入隊出来ない。発覚すればクビが飛ぶ。が、念のため、取り寄せてもらっていた勤務表と見比べた。やはり、さぼっている人間は居ない。
「おかしいな」
 ルティは、首をひねり、空欄を睨みながら侍女に尋ねる。
「……あいつは、その日、どこに居た? 何をしていた?」
「メイサ様ですか? お客様、ええとスピカ様と皇太子殿下のお世話を主にされていらして、特にスピカ様が身重ですので、昼も夜も付き添われていらしたと思います」
「そうか」
 ルティも当時そう思っていたのだ。だからこそあの痕に度肝を抜かれたのであって。
「──痕、か」
 ふいに思いついたことがあり、ルティはシトゥラの玄関へと歩き出す。そして辿り着くなり侍従長を呼びつけた。
「水の使用記録はあるか?」
 ルティが知りたいのは浴室の使用状況だった。アウストラリスの浴室は、乾式で、ジョイアのように湯を張る事は無いが、それでも水は多少多めに使う。水が貴重なので、夏場でも体を拭くだけですませる事が多い。もともと乾燥した気候なので汗はすぐに乾き、不快さはさほど無いのだ。が、情事の痕だけは、拭き取るだけではなかなか流しきれないことを、経験上、ルティは良く知っていた。自分の場合は、面倒だから水を浴びてさっさと流してしまう。
 そして、水の貴重なこの土地では、浴室などで大量に水を使う場合には必ず記録を残す。そうでないと、他で使う水が切れて大変なことになるからだ。
 幼い頃は勝手に水を使ってカーラに怒られたものだ。懐かしい表を見て、叩き込まれた記録の残し方がすぐさま蘇る。
「──あれは、シリウスが来てから三日後……か」
 指で表を追うが、そこに大量と言えるような使用記録は無い。厨房で使う水の記録だけが細々と書き込まれている。
 はずれかと、大きく息を吐く。
 紙には一カ所だけ赤く印がついた部分があった。インクで縦に線が引いてあるのだ。使った樽の分だけ引かれる線は、朝昼晩と三つに分けられた小さな欄に十本が収まり、入りきれなかったのだろう──欄外に一本はみ出ている。つまりこれは樽十一個分の水を使用したという意味になる。それらは文字のようになってぽんと紙の上に浮いて、目に焼き付いて離れない。印のある日にあったはずのことを思い出す。ルティとシリウスが傷つけた近衛兵たちの為に浴室を用意したし、自分もシリウスも血と泥を流すために浴室を使った。樽十個以上使うのも当然だろう。
 もやもやと纏まらない考えを胸に抱えたまま、ルティは階段を上ると自室へと移動する。そして大きな寝台に腰掛けると、そのまま仰向け倒れ込んで天井を睨んだ。
 あの朝、夢と現実の差異に絶望しながら眺めた天井だ。
 未だ、腕があの柔らかさを覚えていた。部屋の空気を彼女の代わりに胸に抱くと、そこが灼けるように痛む。
 目を閉じると、自身の腕を彼女の代わりにして、噛み付くように口づけた。そして、その柔らかさの欠片も無い肌に、自分の愚行を思い知らされ、余計に空しさが増した。
(こんなんじゃない、あいつは、もっと)
 体はこんなにも覚えているのに、あれはやはり夢なのだ。残酷な、夢なのだ。
 あれから何度感じるか分からない、身を焼かれるような苦しみ。逃れたくてルティはもがくように寝返りを打って、窓の方を向いた。
 閉め切った窓から、春らしく柔らかな光が斜めに差し込んでいる。立ち上がると、窓を開け、夕焼けに赤く染まる外を見た。
 あの朝も、こうして、空を眺めた。あの時は夏の朝の青く澄み切った冷気を一人で浴びた。肌寒さに、人肌が恋しくて目が覚めた──とそこまで思い出した時、
「窓?」
 呆然と呟き、もう一度窓をまじまじと見る。
「窓を開けた? 誰が? なぜ?」
 あの日、窓を開けて寝ていた? そんなわけが無い。ムフリッドは北部にある。しかも内陸に位置する為、夏とはいえ、夜はかなり冷えるのだ。明け方の冷気を知っている人間は、窓を開けて寝たりはしない。もちろん、ルティも、そして、使用人たちも。
 それが開いていたという事は──開ける必要があったという事。
 触発され、ルティはあの朝、彼を取り囲む全てのものが爽やかすぎた事を思い出す。泥酔して寝てしまった翌朝にしてはおかしいくらいに全てのものがさっぱりしていた。
 酒臭く、汗ばんでいるはずの体も、それを受け止めたはずの寝具も、それから部屋の空気までも。
 つまりは、綺麗になりすぎていた。あるべきものまで、そこには無かった。まるで、何か別のものと一緒に連れ去れたかのように。
「え? あれ?」
 ルティはもう一度浴室の使用記録に目を落とす。急に、はみ出した一本が翌日の朝の欄に書かれているように見えて来た。
「翌朝? ──ってことは……」
 ルティは逆算する。この家で大騒ぎが勃発したのは彼女の体に痕を見つけた三日前。そこには先ほど確認したように、しっかりと大量の水──樽十個ほどの使用記録がある。が、ルティが先ほど気にした記録は、その翌日。樽一つ、少量ではあるが、普段使うには多過ぎる量の水の使用記録。おそらくは、一人分の入浴に使うほどの。
 その時にあったであろう事にようやく行き着いて、驚愕するルティの目に、先ほど自分が口づけた腕が目に入る。少し前に作った打ち身と同じような色の内出血・・・を見て、彼は跳ねるように立ち上がり、思わず叫ぶ。
「なぜだ──なぜ、俺に隠した!? あれを無かった事にした!? あいつ、俺に──」

『愛してるわ』

 突如耳に甘い声が蘇り、残っていた夢の断片が胸を占領した。
 都合の良い夢のはずだった。だが、もし、あれが現実ならば。なぜ──
(俺は確かに告げた。あいつに、愛してると。そして、あいつも俺に──)
 ルティは、納得いかずあの夜を思い出そうとするが、酒に深く沈んだ記憶だ。全てを浮かび上がらせることが出来ず、必死で夢の中を模索する。
 そのとき、扉が勢い良く開かれ、カイサルが息を切らして飛び込んできた。久々の再会に驚くルティに、カイサルはなぜかひどく慌てた様子で、書簡を手渡した。
「ルイザから、早馬で知らせが参りました」
「ルイザ? なぜ? 何があったんだ!?」
 まさか彼女の身に危険が、と考えた所で、カイサルは叫ぶように言った。
「ヨルゴス殿下とメイサの結婚の話が進んでおります!」
「────結婚?」
 尋ねたルティの声は掠れていた。今しがた知った事実が無ければ、そうか、と流す所だった。彼女が自ら選んだ事をもう邪魔しないと決めていたから。しかも、相手があのヨルゴスであれば、彼女は泣く事は無いはずだったから。
 ──が、今は、どうしようもない焦躁が胸を焼いていた。彼女のした事の意味が全く分からない。ルティにとっては人生を変えてしまうほどの重大事を隠された。意味を問いただしたいのに、彼女が目の前に居ない。
 混乱して言葉を失うルティに、カイサルは追い討ちをかけた。
「ルイザは、メイサは受けるだろうと。シトゥラと、──ルティリクス様、あなたのお為に。私もあの子ならそうすると思います」
「俺のため? なんで、あいつの結婚が俺の為になる?」
「メイサは、ムフリッドに水をと、以前から資金を集めているのです。シトゥラ家を存続させるため、そして繁栄させるため。今後あなたの御代を影で支える為に」
「馬鹿な。それでヨルゴスと? 俺はあいつが、自由に生きていけるようにって、今度の事業だって、これから軌道に乗れば──」
「分かっております、女たちは皆シトゥラから解放されます。メイサもそれを望んでいて、だから」
 諭すようにカイサルはルティに語りかけるが、ルティはそれを振り切るように叫んだ。
「俺は、今度はあいつが何にも縛られずに自分で選んだんだと────それなのに、なんで分からないんだ!」
 ルティの吐いた炎が燃え移ったかのように、突然、穏やかだったカイサルが聞き分けの無い子供を叱るような口調で叫び返す。
「殿下こそ、なぜ分かっていただけないのです! あの子はあなたと同じものを手に入れようとしているだけではないですか。あなたの力になりたいと必死なだけじゃないですか。それは見ればお分かりになるはずでしょう! あの子は別に縛られてなどいません。自由を手にして、それでもあなたを助ける道を自分で選んでいるのです。本当に縛られているのは一体誰ですか。──何を怖がっていらっしゃるのですか!」
「…………」
 黙り込み答えを求めるルティに、カイサルは苦しげに首を振る。
「──王都まで五日かかります。その間、ご自分のお気持ちを、それからメイサの気持ちを、どうか一度じっくり考えてみて下さいませ」
「俺と、あいつの、気持ち?」
「殿下。決まってしまってはもう、どうしようもございません。──とにかく今はお急ぎください!」
 最後にカイサルは懇願するような瞳を向けて、ルティを恫喝した。なぜそのように背を押されるのかなど考える余裕もなく、ルティは厩に駆けつけると、剣を背にくくり、風よけの厚手の毛布、水と食料を手に取って、馬に鞍を付けて乗り上がる。そして、手綱をとり馬の頭を南に真っ直ぐ向け、腹をけり上げた。
(寝ずに馬を替えれば──四日で行けるか)
 さっと試算すると、地平線の彼方の星を睨む。いつしか風が止んでいた。いつもは砂に煙っている大地は、今は晴れ、ルティに道を示していた。
「殿下! ──その足では危のうございます!」
 後ろで皆が叫ぶのも気にせず、そのままルティは砂漠の道へと駆け出した。

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2011.3.02