25.女たちの行方 02

 セバスティアンの主人であるルティリクス殿下が城に戻ったのは、彼がムフリッドへ出かけてからちょうど十日目の夜のことだった。あまりに早い戻りに、自分がやらかしたことが見破られたのだろうかと、びくびくしながらセバスティアンは主人を部屋に迎えた。
 彼の失敗──それは、言うまでもなく、シェリアに主人の想い人を知られてしまったことだった。
 あれから彼女がセバスティアンの元に訪れることは無い。全く音沙汰もないのも不気味だったので、さりげなく探ってみたけれど、特にメイサに接触することもなく、普通に王宮での生活を楽しんでいるようだった。だからセバスティアンは一応安心していたのだけれど……。ひょっとしたら、シェリアが主人の前でそのことを告げるのではないかとそれだけが心配だった。
 心配事に耽るセバスティアンの前に、砂塗れのマントが投げ出される。一部が破れてしまっていて、セバスティアンは戸惑った。
「あの、殿下。これはどうされたのですか?」
「狼にやられた」
 主人は、あっさりとそう答える。
 セバスティアンはハハハと乾いた笑いを上げた。
「いやだなあ。またそんなご冗談を」
 しかし、主人はにやりと笑うだけで、腰に佩いていた剣を机に放り投げた。
(まさかだよな。狼って……砂漠にしかいないはずだし……普通はその道を通るものは居ないはずで)
 そう思いながら、ちらりと机の上の剣を見るけれど、鞘の中身がどうなっているのかは確認する勇気がない。
(ま、まあいいや……お怪我はされていらっしゃらないようだし)
 とにかく、砂漠の旅の後は湯浴みをされるはずだったので、すぐさま湯殿へ案内しようとしたら、主人はそれを断る。「服」と一言、新しい服を求めて、そのまま旅装を解きだした。彼が服を脱ぐたびに砂が床に落ちていく。同時にセバスティアンの目の前には筋肉質な体が現れ、彼はひどく動揺した。もちろんまったく見たことが無いわけでもない。けれど、こんな風に堂々と肌を晒されるのも異常に気まずかった。
 燭台の光がその彫刻のような裸体を艶かしく浮かび上がらせる。
(う、うう……なんか眩しい)
 目を逸らす事も出来ず、呆然と見つめていると、主人がこちらをちらりと見てため息をつく。
「おい、着替えはどうした。急げ」
「え、あ、着替えですか! 今すぐに……!」
 ようやく主人の命令を思い出して慌てた時には、主人は役に立たないセバスティアンより先に服を探し当てていた。
 そして次に気が付いた時には、主人の着替えは終わっていた。多少身ぎれいになった彼は、そのまますぐに部屋を出ようとした。
「お待ちください、殿下! どこへ──」
「ヨルゴスのところだ」
「ヨルゴス殿下ですか? まだカルダーノから帰っていらっしゃらないと思いますが……」
 そこまで言って、セバスティアンは主人が用事がある人間がヨルゴス王子であるとは限らないことに気が付いた。
 主人はセバスティアンの言葉を全く無視して、塔の廊下を進んだ。着替えたはずなのに、どこからか砂が落ち、磨かれた石の廊下が黄色く曇る。
「殿下、砂が落ちておりません。どうか湯殿へ」
「構わない。歩いてるうちに落ちる」
「しかし──せめて顔くらい洗って下さい! 髭くらい剃って下さいよー!」
「…………」
 そう叫ぶと、主人は微かに目線を上に漂わせ、顎のあたりを撫でた。けれど、結局は足を緩める事なく歩き続けた。
 無精髭が似合わないわけではないけれど──いやどちらかと言うと端正な顔に野性味が加わってひどく似合っていたが──顔も洗わないほどの急用なのだろうか。まったくらしくない。その原因に一つ思い当たって、セバスティアンは追いすがりながら、尋ねた。
「も、もしかして……メイサ様に会われるのですか?」
「…………」
 無言の背中が、『是』と言っているように見えた。しかも、なんだかそのまま押し倒しそうな荒々しさが滲み出ている気がした。
(それならば、余計にすっきりしてから行かれた方が……でないとメイサ様が砂塗れに……)
 いろいろと危うい想像をしかけて、頭を振ったら、胸元にしまっておいた書簡がひょっこりと顔を出す。同時に、先ほどセバスティアンの元に書簡を置いて行った侍女を思い出した。
 メイサの侍女──ルイザを単独で見たのははじめて。いつもはメイサの陰に隠れて目立たないが、よく見るとさすがにシトゥラの娘だ。赤い髪を持つ美しい人だった。それは主人の陰に隠されて目立たないセバスティアンと同じに思え、なんだか親近感が湧いた。
 しかし彼女は、セバスティアンが「ご伝言ですか?」とにこやかに対応したというのに、余裕の無い表情で「殿下に直接お渡しください」と冷たく睨んだのだ。
 セバスティアンは慌てて書簡を主人の背中に向かって突き出した。
「あのっ、それでしたら、侍女からお手紙を預かっております。先ほど、メイサ様付きのルイザと名乗る侍女が届けに参りまして。メイサ様に関してのご相談とかなんとか……戻られたらお渡しくださいと──」
 直後、セバスティアンは頭に衝撃を受ける。あまりに素早くて分からなかったけれど、どうやら振り向きざまにげんこつで殴られたらしかった。
「最初に言え、そういう大事なことは!」
「大事……なんですか?」
 呆然とそう言った後、思わずにやけてしまったセバスティアンは再びげんこつを食らう。しかし一体何があったのだろうか。なんというか、あまりにも素直な態度に笑みが抑えられなくなる。
 普段の彼を考えると、この慌ただしさはなにかの仕事のせいかと思っていたけれど──なんのことはない。
 あの超然としたルティリクス殿下が、湯浴みをする間も惜しんで、一人の女の元へ駆けつけるというのだ。
(そうか、そうかぁ。殿下も普通の男なんだなぁ!)
 数日前に手痛い失恋・・を経験したセバスティアンは、なんとなく同士のような気分で主人を見た。
 ……そうなのだ、失恋だ。あれからテオドラは急にセバスティアンを置いて、王宮を去ってしまったのだ。一言の別れの言葉さえ無いまま。
 いつもの待ち合わせに現れないテオドラに不安になり、使用人たちに所在を尋ねたら、テオドラなどという女は居ないと言われて愕然とした。驚いたセバスティアンが「そんなはずは無い」と騒ぐと、「金品目当てに騙されたんじゃないの?」と笑われて追い返されたのだ。
 その後諦めきれないセバスティアンが近衛隊に協力を頼んで調べたところ、テオドラという名の女は一人だけ見つかった。その女官・・は数ヶ月前に辞めて西部の実家に帰ったとのことだった。
 確かに彼女はそう言っていた。だが、彼女は下働きの使用人としてここに留まっているはずで、それならば使用人の名簿に名前があるはずだった。しかし、その名は見つからなかった。
 訳が分からずに混乱していると、一人の兵がやはり『騙されたんだよ』と気の毒そうな顔で指摘してくれた。彼も被害者だったらしく、王子に取り入ろうとして失敗した女に金品を巻き上げられたと悲しい経験談を語ってくれたのだ。そうしていると、我も我もと兵達がよって来て、悲劇の自慢大会が始まった。
 その後その兵らと意気投合して泣きながら飲み明かし、今に至る。だからこそ、セバスティアンはメイサに片恋をしている主人が妙に身近に感じられて仕方が無かったのだ。
(玉砕された際は、ぜひともお仲間に!)
 胸を貸してやろうというくらいの勢いのセバスティアンの前で、主人は書簡に目を落とし、さっと顔色を変えた。
「ど、どうかされました?」
「……消えた、だと?」
「は? なにがでしょう?」
「──ヨルゴスは一体何をしてたんだ! なんで手の届くところに置いておかないんだ!」
 激しい怒りを表す主人にセバスティアンは驚く。そのまま全力で走り始める彼を必死で追いかけた。足の長さも体力も全く敵わないセバスティアンは瞬く間に差を付けられる。
 あっさり置いて行かれて戸惑いつつも、セバスティアンは主人の変貌ぶりが気になって追いかけ続けた。あの表情は、ただ事ではない。
「待って下さい、メイサ様がどうかなさったんですか!?」
 距離の差を埋めようと叫ぶと、その名に反応したのか、主人は一度足を止めた。長い前髪の奥で、茶色の瞳がセバスティアンを鋭く睨んでいる。
「セバスティアン、お前、あの女はどうした」
「あ、あの女とは」
「お前をたぶらかした女の事だ」
 なぜその話が今ここで出て来るのだろうと思いながら、迫力に圧されてセバスティアンは答える。
「あ、あああの……別れました」
「女の素性は。調べたか?」
「分かりません……いつの間にか居なくなってしまって」
 しゅんと項垂れると、苛立ったように主人は続けて問う。
「何か盗まれたか? 金品や、給金、なんでもいい」
「い、いえ……多少貢ぎ物を持ち逃げされたくらいで。給料二ヶ月分ほど……」
 実際には一ヶ月半分だったけれど、さばを読む。王子の持つ財産と比べると雀の涙だ。
「その程度か」
 予想通りあっさりとそう言われて、セバスティアンは僅かな抵抗をする。
「いえ、私にとっては大金ですが」
 溜息が落ちたあと、主人は疑いの眼をセバスティアンに向けた。
「まさかだが…………お前、何かしゃべらなかっただろうな」
 セバスティアンの頭の中にあの夜のテオドラの硬い表情と、シェリアの冷たい笑みが浮かび、鳥肌が立つと共に体が強ばった。
「な、なにも」
「──今なら許してやる。すぐに吐け」
 あっさり看破され、セバスティアンは思わず三度目のげんこつを恐れて頭を庇う。ちらと見ると、主人の手がいつの間にか剣の柄を握っていた。気が付いて、セバスティアンは青くなる。
(う、うわぁ──)
 目を瞑ると、セバスティアンはその場に伏した。
「お、お許しください!! め、メイサ様が殿下の想い人だと……」
 シェリアに聞かれたと言うべきだろうか。そんな風に一瞬躊躇った直後、
「────どこまで馬鹿なんだ!」
 がつんと地面を蹴る音がしたかと思うと、主人の靴が目の前で反対方向へ翻る。
 もう命は無いと思っていたセバスティアンは剣が抜かれなかったことに驚く。慌てて追いすがろうとしたら、腰が抜けていることに気が付いた。
「で、殿下──」
 間の抜けた声が廊下に響いた直後、主人が振り返った。その視線に射殺されそうだとセバスティアンは思った。
「お前は、その女──テオドラを捜せ」
 言われた事がすぐに理解出来なかった。彼女がどう関係しているのかも分からないけれど、それよりも分からないことがあった。
「あの」
「なんだ?」
「……クビになるのではないのですか」
「なりたいのか?」
「いえ、でも」
 主人はひどい焦燥感を浮かべた顔をしていた。いつもの飄々としている彼には全く似合わず、セバスティアンは彼が年下だったことを思い出し、僅かに当惑した。
「お前ごときに知られた俺が馬鹿だったということだ。処分・・は後だ。今すぐやれ! 今は使えるものは、使う。少しでも役に立つなら──たとえお前の手でも借りたい」

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2011.5.5