セバスティアンがようやく階段を降り切って辿り着いた時には、松明の光に照らされた広場はがらんとしていた。そう言えばもう夜が更けている事を今さらながら思い出す。主人の元から戻る使用人を捕まえるにはもう少し早く調査を開始しなければならなかった。
「ああ、この時間じゃあ、手がかりなんか無理だぁ……」
明日の早朝出直すべきか、少ない手がかりでも捜すべきか悩んで立ちすくんだところ、
「う、うぅ……」
微かなうめき声が聞こえた気がして、目を凝らすと、広場の端に踞った人影がある。
「あ、大丈夫ですか!?」
セバスティアンが駆け寄ると、人影が立ち上がろうとしてよろめいた。
「しぇ、シェリア様は?」
その声は老婆のものだ。発せられた名前にはもちろん聞き覚えがあるけれども、彼女との関係が分からない。
「あなたは?」
「あ、ああ……マルガリタと申します……ええと、ジョイアから参りまして」
セバスティアンは納得する。
「ああ、シェリア様の近従の方ですか」
「はい。あの、シェリア様を見かけませんでしたか?」
老婆が苦しそうに胸を押さえて尋ね、セバスティアンは広場を見渡す。しかし、王子の塔へと続くどの通路にも、シェリアと思われる人影は見当たらない。近衛兵が入り口を見回っているくらいだった。
「私は見ておりません。しかし、先ほど王太子殿下が通られたはずなので、ご一緒されたのでは?」
そう言うと、マルガリタは青ざめた。
「あ、ああ……そうでした、シェリア様が、殿下に暴言を……」
「暴言?」
再び意識を怪しくするマルガリタにセバスティアンは慌てる。
肩を支えるものの、彼女は意外に重かった。
「だ、誰かー!」
体力に自信の無いセバスティアンはすぐさま助けを呼ぶ。すると、丁度良く南の方からザッザッという重い足音が聞こえて来た。
(──見回りだろうか? 助かった!)
「あ、あの! あ、」
助けを求めようとしたけれど、直後先頭に居た衛兵にギロリと睨まれる。慌てて口をつぐみ、マルガリタと共に下がって道をあける。
松明に照らされる近衛兵の集団の中心に居たのは、一人の男だった。背は低くも高くなく、周りを囲む屈強の兵に頭が隠されている。兵たちの隙間から見える容貌は──鋼色の髪に青色の瞳。その髪には輝くような艶があり、目鼻立ちは華やかだ。高く細い鼻梁、口元の柔和さが女のように雅だったけれど、眉は濃く凛然と整い、青い眼光は鷹のように鋭くも見える。その涼やかな目元も手伝って、若々しい顔立ちにも関わらず、落ち着いた雰囲気が漂う。纏う服はおそらく絹だろうか。深い紺の一揃えには、鷹が金糸で刺繍されていた。そして、肩にかかるマントは燃えるような緋色だ。
セバスティアンは見た事が無いが、近衛隊に囲まれている事や、服装、立ち振る舞いから王子の一人だろうと思えた。何より、そのマントの色が王族である事を示している。そもそもセバスティアンの主人くらいなのだ。一人で王宮内をウロウロするような王子は。過去には王宮内での殺生沙汰も多く発生し、命を落とした王族も数多くいるのだから、厳重な警護は当たり前だった。主人の場合は、彼以上に腕が立つ人間が居ないからという特例中の特例だった。
(どなただったっけ? どこかで見たような……)
これほど派手な容貌を忘れるわけが無い。しかし、セバスティアンは男を知らないはず。数々の宴でも見ない顔だ。しかし、めったに宴に出席しない王子を一人思い出して、セバスティアンは心の中で手を打った。
(ああ──、アルゴル殿下か?)
良く考えると髪の色はザウラク王兄と同じだ。たしか瞳の色は母親の血を継いだと聞いたような。数年前に見かけたきりだった。王宮を留守にされている事が多い方だ。見かけないのも当たり前だった。
(こんな時間に、どこに行かれるのだろう?)
それともどこかに出かけていて、部屋に戻る途中だろうか。
じっくり見ていると、ふいにその視線の先の人物がこちらを向く。口元に柔和な笑みをたたえたまま、彼は口を開いた。
「何をそんなに見ているのだ?」
「え、あああ──も、もうしわけありません! びょ、病人がおりまして! 人手を捜している最中でしたので!」
「ああ。そういうこと」
彼は、踞る老婆を一瞥すると、集団の一番後ろの衛兵に視線を向ける。そして「手伝ってやれ」と優しく声をかけた。命ぜられた兵は敬礼すると、セバスティアンの隣に来て、マルガリタに手を差し伸べてくる。
セバスティアンはほっと肩をなで下ろして、兵と共にマルガリタを、広場のすぐ南、王の塔の傍にある賓客用の塔──シェリアの逗留先はここになっている──の前へと送り届けた。そして、感謝の気持ちを込めて王子の向かったはずの南東の塔への通路を見つめた。しかし、そこに人影は見当たらない。
セバスティアンは立ち上がり、ぐるりと周りを見渡した。
春の強い風が流れ込み、松明が煽られ、光が縮んだ。一瞬で膨らんだ闇の中、一行はなぜか城門の向こうに消えて行こうとしていた。
(え──?)
直後、セバスティアンは目を見開いて、風上に向かって駆け出す。兵が「おい、どこへ行く」と止めたけれど、必死のセバスティアンにはその声が聞こえない。
「──テオドラ!」
思わず叫んだ。
(あの中に、テオドラが居る──!?)
それはあの兵の中の誰かだろうか。皆、兜で顔が隠れているから分からなかったけれど、いくら姿を隠そうとも、届いた香りが僅かであったとしても、この匂いは簡単に忘れられるものではない。
しかし、息せき切って走ったセバスティアンが城門に辿り着いたのは、門が固く閉じられた後だった。
*
ルイザは、突如現れた赤い髪の男に目を疑った。ヨルゴス王子の部屋の前で、彼の帰還を待たせてもらっていたのだけれど、先に辿り着いたのはヨルゴスではなく、ルイザが心から待ちわびていた男だった。
ルイザは人影に駆け寄りながら、叫ぶ。
「ルティリクス殿下! ど、どうして、──いつ戻られたのですか!」
「シトゥラで書簡を受け取ってから、すぐに戻った。たった今着いたところだ」
「でも、届いてから四日ほどしか経っていないはずで……」
彼はどうでも良いと言う風にさっと話題を変えた。
「部屋で書簡を読んだが、──あんな大事なものを
「も、申し訳ありません。しかし──……」
他に預けられる人間が居ないではないですか、と言い訳したかったけれど、ぐっと堪えてルイザは彼を見つめた。
「メイサ様が! 申し訳ありません、私が少し目を離した隙に……!」
訴えると共に涙が溢れそうになる。今の今まで張りつめていたものが、一気に弾けてしまいそうだった。
「一体どうしたんだ? 詳しく話せ」
目の前に居るルティリクスは、普段の彼とは別人のように無精髭を生やしていた。肌は薄汚れ、髪もくすんでいるところを見ると、旅の後、湯殿に行く余裕も無かったのだろう。書簡を受け取ってから四日で王都に着くという事は、ろくに寝ていないはずだ。
いつに無い真剣さにルイザは、彼女の願いが届いたのだろうかと思う。とたん、ルイザをシトゥラに縛り付けていた鎖が緩く溶け始めるのを感じた。しかし、今は感傷に浸っている場合ではない。
ルイザは、気持ちを切り替えて、メイサが居なくなった時の事を順を追って話す。
「シャウラ様が倒れられて、その直後の事でした」
まずそう言うと、彼は目を丸くした。
「母上が!? それは聞いてないが……大丈夫なのか!?」
「お命に別状があるという事ではないようです。今はゆっくりお休みになっておられます。──あの近従は、それさえお伝えしていないのですか?」
なぜクビにしないのだろうとルイザは心底思う。
あの出来損ないの近従は、どう考えても主人の足を引っ張っているようにしか思えない。書簡を届けに行った時も、この一大事に能天気そうに鼻歌を歌いながら掃除をしていた。しかも、なぜかルイザに色目を向けて来たので、冷たくあしらった。勤務中だと言うのに、仕事を舐めているとしか思えない。
ルイザが憤慨していると、彼はルイザの内心を読んだのだろう。軽く頷く。
「あいつが駄目なのは、最初から分かっている。駄目だから使ってるんだ。──それで?」
ルイザはその言葉に首を傾げながらも、急かされるままに報告を続けた。
「シャウラ様は心労で倒れられたようですが……私がラサラス陛下をお呼びしに王の塔へと参っている間に、メイサ様が一人でヨルゴス殿下の塔へと戻られたのです」
心労の原因について触れるべきか迷うけれど、止めた。それはメイサが直接聞くべき事で、ルイザが聞いても仕方が無い事だった。どう考えてもメイサを取り戻すのが先決だった。
「一人で戻った? 倒れた母上を置いてか? 母上はあいつに居て欲しがっただろう?」
納得いかない顔で彼は問い直す。言外に、メイサがシャウラよりヨルゴスを選んだ不満のようなものが感じられて、ルイザはムッとする。
「確かにそうかもしれませんが、メイサ様はご自分が誰かに必要とされているなど、夢にも思わない方ですし。それどころか、自分の価値など、地を這う虫ほどにも無いと思われていらっしゃいますし!」
自覚など無いだろうけれど、そうなってしまったのは、一体誰のせいだと思っているのだろうか。
(殿下がメイサ様だけを邪険にされるから、メイサ様はあのように誤解されたのです! ヨルゴス殿下に求められたら、ぐらりとしてしまうのも当然です! そこを責めるのはあんまりです!)
仕方ない事だと分かっているけれど、メイサのあの自信の無さを考えると、ルイザはもどかしくてたまらないのだ。あれだけの魅力が、全て台無しになっているのはあまりにも勿体ない。
ルイザがちくりと含めたものに、彼は気が付いたようだった。過去の自らの行動で思い当たることがあるのだろうか。ルイザの攻撃的な視線に、ばつが悪そうに目を逸らす。
意外に素直な反応に、目を見張って思い出す。つい熱くなってしまったけれど、もともとルイザは文句を言える立場でもないのだ。ルイザは心の中に悪態を仕舞って、話を元の筋に戻した。
「後でシャウラ様の部屋の女官に聞いてみたのですけれど、女官が医師を連れて来るなり、急に焦った様子で出て行かれたそうです」
「母上の女官は何と言っていた?」
「メイサ様は『ヨルゴス殿下の元へ戻ります』とだけ言われていたそうです」
「なぜだ? ヨルゴスはまだ帰って来ていないのに」
ルイザは頷く。彼女はメイサの行動が不思議だったので、あの後、もう一度シャウラの元を訪ねた。そして聞き込みを行ったのだ。
「部屋の前の衛兵に尋ねたところ、一人の女官がメイサ様に話しかけていたと聞きました」
「胡散臭いな。そいつの容貌は?」
「茶色の髪で茶色の瞳──つまり、それほど印象に残らなかったそうです。見ない顔だとは言っていました」
と言うより、メイサばかりに気がいってしまって、他が目に入らなかったのだろうとルイザには予想出来た。彼女の隣に居ると、自らの影が薄くなる事はよく知っていたからだ。それでも、色を覚えていたというのは優秀なのだろうと思う。その辺は、さすがに王妃付きの衛兵だった。
「そのあと、あいつはヨルゴスの塔へと向かって、途中で消えたのか。この通路の中で……ってことになるのか」
ルティリクスは眉を寄せながら、辺りを見回した。もちろんルイザは隈無く捜したけれど、通路には所々大きく窓が作られ、そこは塔と塔の間にある中庭と通じている。塔への侵入は衛兵に見張られるが、通路自体に入り込むのはさほど難しくはない。
「ええ。あ、あの──」
ふいに聞こえた足音にはっとすると、ルイザが今言おうとしていた妨害の当事者が見える。塔の入り口で衛兵に見咎められて、何か言い争っていた。きゃんきゃんと吠える子犬のように見える。実際はそう可愛らしいものではないけれども。
「追っている途中、シェリア様に捕まりまして。その間に見失ってしまったのです。ほんの少しの間でしたのに」
「またあの女か……いいか、あれは無視しろ。相手にするとろくな事が無い」
ルイザが同意して頷いたとき、衛兵の一人が駆け込んで来る。にわかに通路に緊張が走る。それが伝染して、彼の茶の瞳に殺意に似た光が宿るのをルイザは見て取った。
そんな中、衛兵が叫んだ。
「──ヨルゴス殿下のお戻りです!」