「ヨルゴス殿下! お帰りなさいませ!」
ルイザが少々慌てた様子で、ヨルゴスを迎えた。
「メイサがいなくなったって!?」
息せき切ってルイザに駆け寄ったヨルゴスは、自らを責めるような苦渋の滲んだ表情をしていた。
そして、ルイザの影から現れたルティに気が付くと、ひどく驚いた顔をする。
「どうして君がここにいるんだ? ムフリッドに居たんじゃないのか」
「気になることがあったから帰って来たんだ」
「ふうん」
ヨルゴスは、ルティの顔をまじまじと見つめた。おそらくセバスティアンと同じく、彼の汚れ具合が気になったのだろう。
「──なぜ、手元に置いておかなかった」
興味深そうな視線を全く気にせずに、ルティがそう言って睨むと、ヨルゴスは珍しく怒りをその茶色の瞳に浮かべて、ルティを睨み返す。
「君とは違って、僕の敵は僕の家にしか居ないからだよ。第一、君に言われる筋合いは全くないんだけど。そう思うなら、最初から僕のところにやるんじゃないよ。だけど責任の所在を追求するなんて、君らしくもないね。僕に甘えてるつもり? それだけ余裕が無いってことかな?」
そう言うヨルゴスも普段ほど冷静さを保てているわけではないらしい。焦躁が顔に表れ、幼い顔を年相応の大人びたものに変えていた。
ルティが黙り込むと、ヨルゴスは苛立った様子で鋼の髪をかきあげる。それはザウラクの血を引く従兄たちに特有の色だ。
「とにかく、心当たりを上げたら? 彼女が心配だ──まあ、状況からは、今の所は無事だと僕は睨んでるけれどね」
ヨルゴスの言葉に同意して頷く。王子の元に居る女官──しかもその女官は王太子の身内だ──を拉致する度胸は、普通の人間には無い。国と貴族を敵に回すことになるからだ。そして、ここは王宮だ。不祥事を近衛隊は見逃さない。無計画な暴漢は考えにくかった。そして、誘拐したのが普通の人間ではない場合、確かなる目的があって盗んでいる場合は――彼女はまだ無事だと踏んでいた。相手は彼女と引き換えの条件を出して来るはずだ。だからこそ、まだ冷静さを保てるのかもしれない。
──ただし、無事なのは命だけであるということが、以前盗んだ側であったルティには、よく分かっていた。まだ知らぬ敵が、昔のルティがスピカにしたようにメイサを翻弄するところを想像する。悪夢の中で、メイサがスピカのような泣き顔を浮かべ、暴力的な力で胸が締め付けられる。
胸の痛みを無理矢理押し殺すと、ルティは一つの心当たりを口にした。
「お前の母親は? あいつとシトゥラの目的が気に入らなかったって事は無いか?」
メイサがカルダーノから資金を得ようとしている事を気に入らない連中は、多少居そうだと思っていた。あと、あの母親は、王妃になり損ねた女だ。だからシャウラとシトゥラ、それからルティを恨んでいる可能性は十分にあった。
ヨルゴスは首を横に振る。
「確かに気にいらなかったみたいだけど、可能性は無い。僕が全力で
「馬鹿?」
「あぁ、メイサは君に伝えなかったんだ?」
ヨルゴスはなぜかルイザを見て酷く嬉しそうにする。意味が分からず、ルティがルイザを見ると、彼女は少々困った顔をしてルティから目を逸らした。
「一体何があった?」
ヨルゴスは唇の前で人差し指を立てて、ルイザを見た。
「それは内緒」
軽く躱されて、ルティは眉を寄せる。
「じゃあ一体どいつなんだ……」
苛立ちを辛うじて堪えて呟くと、ヨルゴスは真面目な顔でルティを見た。
「君に前言ったよね。『肉は柔らかそうなところがおいしい』ってね。王太子の弱点――彼女がそうだと周りに知れたら、どうなるかなってずっと心配だったよ。僕に野心があれば一番に狙ったし。君もそれが心配だったから、僕を隠れ蓑にしたのかなとか、あえて自分に近づけなかったのかなって考えもしたけど、そういう訳じゃなかったみたいだね。そういえば、君はそんなに複雑なヤツでもなかったっけ」
セバスティアンの告白から感じ続けた嫌な予感は、的中したのかもしれない。ルティは再び黙り込む。やがて考えた末に、手の内の一つを共有する事にした。使えるものは使う。目の前にいるのは恋敵ではあるが、信用に値する男だった。今意地を張ってこの男を使わないのは、それこそ馬鹿のする事だ。きっとヨルゴスもそう思っているに違いなかった。
「ヨルゴス、テオドラと言う女官に心当たりはないか? てっきりお前かアステリオンの陣営かと思っていた」
「テオドラ? 知らないな」
ヨルゴスは本気で分からないという顔で首をかしげた。
「一枚噛んでそうなんだ。うちの馬鹿な近従が、俺があいつに片恋をしていると漏らしやがった」
「……随分分かりやすかったもんなあ。あのぼけっとした近従でも分かっちゃったか。じゃあ、そっちの線だろうね、間違いなく」
ヨルゴスは、ただ呆れたようにぼやき、そして、入り口で犬のように吠えているシェリアを指差した。
「──あと、あの変なお嬢ちゃんは? さっき横を通ったら、睨まれて喧嘩を売られたよ」
「ああ……」
ルティはとたんにうんざりした。
「ジョイアから
「ふうん、どこかの王太子に良く似ているな。
ルティは皮肉と牽制をさらっと流すと、首を横に振る。
「俺の勘では少なくとも首謀ではない。多少絡んでるかもしれないが……正直、あのタイプは苦手だ。今は関わりたくない、時間をとられすぎる」
少なくとも、スピカの話など聞いてやる時間は無かった。
「ああ……似すぎてて話が噛み合ないのか。じゃあ、僕が聞いて来ようか? そんなに苦手なタイプじゃないし」
「貸しでも作る気か」
「まあね」
ヨルゴスは焦燥感を顔から消すと、代わりに穏やかないつもの笑みを貼付けてシェリアを塔に入れる許可を出そうと手を上げかけた。
しかし、直後衛兵を振り切って走り込んで来たのは、茶色の髪の中肉中背の男。今の今、ルティが馬鹿と罵っていた近従だった。
「セバスティアン?」
『おい、こら! 勝手に入るな!』
シェリアの相手に手間取っていた衛兵が、脇をすり抜けたセバスティアンに向かって叫ぶ。
『急用なんです、見逃して下さいー!』
彼は数人居る衛兵の隙間を鼠のようにすばしこく駆け抜けた。その逃げ足は随分と早い。助けを求めてルティの元へと全速力で駆け寄った。
「ル、ルティリクス様ぁ!!」
「どうした。テオドラが見つかったか?」
「あ、あ、あの! 匂いが! テオドラの匂いが、」
「落ち着け」
(匂い? 本人じゃないのか?)
その言葉に脱力した。一瞬でも期待したのが馬鹿だったと、鼻で笑って放置しようとした直後、「アルゴル殿下のっ──」という言葉が飛び出し、その場に居た皆が目を見開いた。
「アルゴルがどうした?」
ルティは鋭く詰問する。
「えっと、先ほど、あのシェリア様の侍女が広場で倒れられていて、それで、一人では抱えられなくて──いや、意外に重かったからで決して私が非力なわけでは……あ、ええと、それで助けを求めていたのですが、なかなか人が来なくて──それから、」
ルティはため息をついて、彼の報告を一度遮る。
「十文字で纏めろ」
「そんな無茶な!」
セバスティアンは泣きそうな顔をしたが、ルティが睨みつけると、一度口を閉じた。そして空中で視線をさまよわせ、十文字は越えたものの、発言を整理した。
「──え、ええと、アルゴル殿下が通りかかられた時にですね、テオドラの匂いがしたのです」
結局は、聞いて後悔する。
「女官の香などありふれてるだろう」
大体嗅ぎ分けるほどの鼻を持っているかどうか怪しい。犬じゃあるまいし。たまに大量の香を浴びるようにつけて来る女官はいるには居たけれど、一度まみえたテオドラからはそんな刺激臭は感じなかった。
しかしセバスティアンは必死で訴える。
「いえ、彼女の香は全く違うのです。あの、殿下の香のミルラにとても似ていて」
「──なんだと?」
さすがにルティは顔を引きつらせ、ヨルゴスも切迫した表情を浮かべる。二人は顔を見あわせて頷くと、塔の外へ出るべく早足で歩き出す。慌てた様子で、セバスティアンとルイザも後ろから続いた。
どうやら、彼の近従は、汚名返上の機会を逃さなかったらしい。この男は、追いつめられてはじめて仕事らしい仕事が出来るタイプなのかもしれない。
そもそも香というのは意外に高価なもので、花などから採れる軽い香りはまだしも、樹木から採れるものは効果が長く続くため、香の中でも特に希少だ。そういったものをつける高位の女──と考えるよりは、高位の男から香りが
本気で惚れていたのは知っていたし、教えてやるのはさすがに哀れかと、ルティはそこに触れずに話を先に進めようとした。しかし、事情を知らないヨルゴスが先に口を挟んだ。
「ああ、じゃあ、その女はアルゴルの愛妾か。しかも現役の」
「ええ!? 愛妾!? ──現役!?」
セバスティアンは目を剥いた。ルティはヨルゴスを軽く睨む。
(ああ。面倒くさいことになるだろう)
案の定、セバスティアンはシクシクと泣き出して、その場に踞った。
「そうかあ。だから、許してくれなかったのかぁ……」
ルティはセバスティアンを放置して走り出しながら、なるほどと心の中で手を打つ。ルティは自分の配下の女が、任務達成の為にどんな手段をとろうが頓着しなかったが、アルゴルは違うらしい。潔癖なのか、それか、独占欲が強いかのどちらかだ。
「なに? 彼、騙されたの? ──ああ、ルティリクスには隙がないからか。兄さんはさすがに目のつけどころがいいな」
ヨルゴスがほっとしたような様子になったのは、
(まあ、──真面目で穏やかな人物が誘拐をするという矛盾は感じずにはいられないが)
敵の顔が見えれば、進むべき道は見えて来る。ルティは、一気に速度を上げて塔の入り口を駆け抜けた。途中シェリアが小型の肉食獣のように飛びかかって来るが、軽く躱して見なかった事にする。
「だが──なぜ攫う? アルゴルは、母上にあいつとの縁談を申し込んでいたはずだ」
「え、そうなの? それは、聞いてないけど」
一人だけルティについて来れたらしいヨルゴスは、ルティの独り言に後ろから口を挟んだ。
「じゃあ、もしかして、女の逆恨みの線はない?」
「──いや、全くないとは言い切れないが……その線ならば、縁談の話が出た時点で動きがあるはずだ」
「確かに」
ヨルゴスは納得して相づちを打った。
「兄上はそんなに欲しかったのかなあ……メイサの事。確かにすこぶる美人だけど、彼女の本当の良さは話してみないと分からないと思うんだけどなあ……面識、無いはずだよね」
それを聞いて厄介だなとルティは思う。彼女の外見ではなく、内面に惚れた男ならば、簡単には引き下がらないに決まっていた。つまり、このヨルゴスは舞台から降りる気はもう無い。昔ルティに言った通りに、返してくれることは無いと考えていい。
(──ならば、奪うしかないのか)
待っていてももう何も手に入らない。
だが、昔聞いた彼女の拒絶の言葉が彼を足止めする。彼女の泣き顔が瞼の裏を散らつく。ルティにとっては、彼女の涙は一粒でも凶器だ。動きが取れなくなるのがあまりにも簡単に予想出来た。
「なーんか、アルゴル兄さんらしくないなあ。どこかの誰かさんたちみたいに、女で人生狂わせるタイプじゃないと思ってたけどな」
そう呟くのは自らも狂わされた自覚があるからだろう。確かにヨルゴスの瞳には以前には無かった熱と輝きがある。
ヨルゴスが駆け足で多少上がった息を気にして口をつぐんだので、彼の思考の続きはルティが引き取った。ただの美しい女としてではなく、メイサ
アルゴルが探ろうとしたのはルティの心だった。つまり、彼が求めるものは、ヨルゴスは持っていなくて、ルティが持っているもの。
「あいつと引き換えに欲しいもの、か」
ルティは一度立ち止まり、広場の南に堂々と聳えたつ塔をじっと睨んだ。
直後間抜けな声が広場へ響き渡る。
「殿下ぁ──お待ちくださいー!」
後ろからセバスティアンが追いかけて来て、ルティとヨルゴスに追いつく。ぜいぜいと息を吐く彼は「あ、アルゴル殿下はっ、先ほどっ、王宮を、出られましたー!」と息も絶え絶えに言って、その場に倒れる。
ヨルゴスがそれを見て「うーん、さすがにこれは……使うの止めたら? なんだか色々無駄だ」と提案する。
ルティは一瞬悩んだ後、結局保留にして、城門へと走り出す。足音と金切り声が追って来たのだ。振り返って見ると、放置したシェリアが必至の形相でこちらへ向かって来る。それをルイザが体を張って止めようとしていた。
「行くか。ヘヴェリウスへ」
ヨルゴスが隣で呟く。彼は不敵な笑みを浮かべ、ルティと同じ方向を見つめていた。ルティは頷くと、剣の柄をぐっと握って、南を睨んだ。ヘヴェリウス──そこには、アルゴルの家がある。
「──ああ。決着を付けてやる」