26.かけがえのないもの 02

 カタン、と小さなもの音がして、メイサの意識は暗い闇の中から呼び起こされる。
 瞼を押し上げ、焦点のぼやけた目で辺りを見回すと、橙色の灯りが一番に目に入る。部屋の隅には古ぼけた燭台がぽつんと置いてあった。細々とした炎が照らす部屋は、古い家具が雑然と押し込められていて、随分狭かった。饐えたような臭いに混じって、微かな水の香りが漂っている。それはどこからか時折流れ込む風によって、気まぐれにメイサの鼻に届いた。
(……ここはどこ?)
 ヨルゴスの塔へと向かっている途中、突然妙な薬を嗅がされて、気を失っている間に移動が終わっていたようだ。あれはきっと、シトゥラでもよく使う類いの眠り薬か痺れ薬だろう。未だに頭の一部が霞みがかかったようにぼんやりしていた。気を抜くと瞼が重くなり、どろどろとした闇の中にメイサは再び引きずり込まれる。

 次に目を開けたときには、随分意識が明瞭になっていた。そして、メイサの前にはいつの間にか鋼色の髪と青い瞳を持つ麗しい男が居た。ヨルゴスと顔立ちは似ているけれど、あの人格が滲み出ているような柔らかさが無い。歳はいくつくらいだろうか。目尻に薄くではあるけれど笑い皺があり、肌の張りも多少失われているところを見ると、それほど若いわけではないようだ。鋼の色はザウラク王兄の色。ならばその息子の一人なのだろう。年齢と併せて考えると、メイサが知る中で思い当たるのは、アルゴルかアステリオンだった。
 メイサは、浮かび上がった質問をそのまま投げかけた。
「アステリオン殿下でございますか?」
「私があいつだったら、君はもう寝台に連れ込まれて、子供の一人くらい孕まされていると思うけれどね。……あいつと一緒にされるのだけはごめんだが……まあ、仕方が無いか。名乗らなかったのは私なのだから」
「──では、アルゴル殿下でございますか?」
 メイサが続けて問うと、男は是とも非とも答えずに目を細めて微笑む。それを見てメイサは、彼の正体を今突きとめるのは諦めた。特に隠そうとしていないようだから、そのうち分かるだろうと思ったのだ。幸い敬称だけは分かるから、呼び名には困らない。
殿下・・はどうして、こんな事をされたのです」
「──王太子の座が欲しかったからに決まっている」
 その答えにメイサは目を見張った。最後まで継承権を争ったのは、ルティ、ヨルゴス、アステリオンだけ。つまりこの男が継承権争いに参加しなかったのだけは確かだったからだ。そして、彼はアステリオンではない。メイサは不可解な気持ちで尋ねる。
「こんな事をされるのであれば、なぜ、継承権争いに参加されなかったのです」
 男は端然と答える。
「時間と金の無駄だからだよ。十一人で一つの座を奪い合うよりも、座を手に入れた王子を排除する方が手っ取り早い」
「お体が弱いというのは嘘ですか?」
 メイサが山をかけても、男は肩をすくめただけで、普通に答えた。
「見ての通りだよ。ルティリクスほどの体力はもう無いけれどね。年が年なのだから、あの若さには敵わない。皆、年配者が有利と予想するかもしれないが、あの体力だけでも、ルティリクスは十分驚異的だった。国の端から端まで駆け抜けて、私が一年かけてやる仕事を、半年でやってしまう。それから、他の王子も同様だ。アステリオンの財力と対抗するだけの財も無いし、ヨルゴスの持つ知識と対抗するだけの知識もね。私はなんでも出来るが、彼らのように特出したものは持っていない。だから残った一人と一対一で戦う事にした」
「でも、こんなやり方は卑怯だと思います」
 メイサは臆せず訴えた。
「卑怯? そうかな? 賢いと言ってくれ。何事も正々堂々とやるばかりが正しい事ではないと思うよ? この作戦が十分有効なのは、君にも分かるだろう? 残ったルティリクスの弱点を掴めば、あとは王位継承権を譲ってもらえばいい」
「有効ですって? 有効どころか──こんなこと、時間の無駄です」
 男が自信たっぷりなのがおかしくてたまらない。メイサは笑いが出そうになるのを必死で堪えた。
「なぜ?」
「私を人質にとっても動くものは何も無いからです」
 メイサが胸を張ると男は呆れた。
「こういう時はね。命が惜しければ、自分が少しでも価値があると見せるものだよ?」
「価値など虫ほどもありませんもの」
 メイサがそう言うと、男はくすくすと笑う。その笑顔はヨルゴスに少し似ていた。
「変な自信があるんだね。君の目は曇らされて、君の耳は塞がれている。決して自分の前以外で輝かないようにと……なるほどね、大した独占欲だ」
 彼は独り言のように言って、そこで口をつぐむと、手を打って人を呼ぶ。すると重そうな扉の向こうから、一人の女官が入室して来た。
「あ、あなた」
 それは、シャウラが倒れた時に、メイサにヨルゴスの帰還を伝えた女官だった。彼女はその豊かな茶色の髪を揺らして頭を軽く下げる。
「〈テオドラ〉でございます。あなたの身の回りのお世話をさせていただきますわ」
 女は落ち着いた声色で言う。歳はメイサよりもいくつか上に思える。しかし随分艶のある女性で、この種の年相応の色気を持つ女性は王宮ではあまり見かけない。
「つまりは監視?」
「そうとも言いますけれど」
 彼女は少しの表情も変えずに、メイサの腕に巻かれた布の紐が緩んでいないかを確かめる。手首は血が通わなくなって、指先に軽い痺れを感じていた。
 女が近づくと独特の香りが鼻に届く。樹木から採られた上質な香り。僅かに違うけれど、ルティの香と似ている。嗅ぐと彼との夜が鮮やかに蘇り、メイサの胸が一瞬ぎゅっと縮んだ。
 メイサは女に訴える。
「……こんな事をしなくても、私、逃げられないわよ? ここがどこかも知らないのだから」
「いいえ。気を抜くわけにはいかないもの」
 女は全く取り合わず、もう一度紐を手首に食い込むくらいに締め直す。痣になりそうな痛みに、メイサは軽く呻いた。痛みに縁遠い生活をしているためだろう、少しの痛みも酷い苦痛に感じる。
(ああ、私、なんでこんな目に遭ってるのかしら……)
 どうしてもメイサが攫われる理由が分からない。何かの間違いとしか思えない。
(間違い──あ、そうだわ)
 急に腑に落ちて、メイサは心の中で手を打ち、目の前の男に訴えた。
「あの、ひょっとして人間違いなのではないですか? 私はメイサ=シトゥラです。どこにでもいるような単なる女官です」
「知ってるよ」
 男はなんだか本気で呆れていた。
「ヨルゴスがプロポーズをした女官。そして、あの・・ルティリクスが心底惚れているシトゥラの娘──それが君」
「はあ? あの……前半は合ってますけど、後半は何か勘違いをされているとしか思えないのですけれど」
「調べはついてるよ」
「いいえ、間違いでございます。そういう娘は確かに居ますが、それは私とは別の娘の事でございます」
(ああ、もしかしてどこかでスピカの事を聞かれて間違われてるのかしら?)
 そう思ってメイサがいくら否定しても、それ以上男は取り合わない。鬱陶しげに眉をしかめると、テオドラに後を任せると言って、部屋を出て行った。

「一体どうしたらそんな間違った情報が流れるのかしら……」
 メイサが呟くと、テオドラが茶色の目を細めて、不愉快そうにため息をついた。
「さっきから、間違い間違いって……殿下を馬鹿にするような発言は控えなさい」
 ぴしりと叱られて、メイサは驚く。
「馬鹿になんかしてないわよ」
「不確かな情報で、殿下が動かれるわけが無いでしょう。あと、私の調査が間違っているなどと、彼の前で言われるのも迷惑なのよ。まるで私が出来ない女みたいじゃない」
 憤慨したテオドラは、メイサに指を突きつけて、目を吊り上げている。
「あなたが調査をしたの? どうやって? 絶対間違ってるから訂正した方があなたの為だし、殿下の為だと思うわよ? 今ならまだ間に合うもの。ほら、外出してましたって誤摩化せばいいし」
 メイサは真剣に訴える。まず、この状況でルティが動くとは思えない、いや、王太子としては娘の一人に情けをかけて動くようでは困るし、彼ならば正しい判断・・・・・をするに決まっていた。王位継承権とメイサなど、比べるのも馬鹿らしい話だった。
 だけど、メイサはルティが彼女を家族として大事にしてくれている事は知っていたから、今回メイサが居なくなれば苦しむとは思うのだ。あの女官のミュラが死んだ時に彼が心を痛めた事は知っていたし、万が一メイサが死ねば、仕方が無い事だとしても悲しむだろう。
 そしてヨルゴスもプロポーズをしてくれるくらいには、メイサを大事に思ってくれている。彼に心配をかけるのはやはり心苦しかった。
 とにかく、メイサはそんな風に彼らを煩わせるのは嫌だった。だからこそ、必死で訴えた。シトゥラの娘として、捕らえられて国や家に不利に働きそうな場合にどうすればいいかはよく知っていたけれど……重荷にはなりたくない。可能性がある限りは足掻きたかった。
「お願い。本当に時間の無駄なの。彼らにはしなければいけない事がたくさんあるの。ヨルゴス殿下は、発明した技術で国に新しい産業を興そうとされてるわ」
「そうね、王太子殿下も北部の開発に熱が入ってると聞いたわよ。それもこれも全部あなたの為でしょう」
「だから……それは」
 メイサは困りはてて、肩を落とす。なぜそこに繋がるのかが、どうしても分からない。彼が何かするとしたら、それは全て国のため。王太子の務めを考えれば、明らかではないか。
 テオドラはそんなメイサに言い聞かせる。
「私、ずっと女官として務めていたから知っているけれど、あなたなぜか顔を隠す為に布を被せられてたわよね。なんでかしらって思っていたんだけれど、布をとって理由が分かったわ。最近女官長に尋ねたら、ある方から特別に言いつけられたからだそうよ、決して目立たせるなって。頼まれた方の名前は言えないって話だったけれど」
(それはシャウラ様なのではないかしら? 赤い髪がばれてはいけないと言われていたし)
 含みを持たせた口調にメイサが首を傾げると、テオドラは少し眉を寄せて続ける。
「それから、一時期大量にクビにされた近衛隊員ってあなたに言い寄った男ばかりだって話なのよね。しかも彼らは悉く王太子殿下付きの女官との不貞が発覚したという理由で解雇なの。偶然にしては出来すぎてると思わない?」
 メイサは思い出して驚いた。確かに必死な男が多いと思っていた。ルティの女に手を出すまで酷かったとは。
「確かにあの頃、近衛兵の方が結婚を焦っていたとは思っていたけれど、皆そこまで必死だったのね。王宮って意外に出会いが無いから仕方が無いのかもしれないけれど」
 一人で納得していると、テオドラは眉間の皺を酷くして、口調も厳しく言い募る。
「そ、れ、に、ね、王太子殿下の近従が、殿下のお部屋の傍にある木の上から中庭をずっと見張っていたのよね。これはヨルゴス殿下のところにあなたが勤め出してからの事だけれど。近従のセバスティアンは昼間ずっとその任務に就いていて、夕方からどなたかと交代していたそうよ。そして、その頃王太子殿下が珍しくお風邪を召したと聞いたけれど。近従と仲良く一緒に。不思議よねぇ」
 テオドラはにやりと笑い、メイサはなるほどと頷いた。
「ああ、殿下はセバスティアンに風邪を移されたのね。私も不思議に思っていたの。お体はご丈夫だと知っていたから」
 納得した。珍しいと思っていたのだ。傍に病人が居れば、それも仕方が無かったのだろう。
「でも、せっかく私がヨルゴス殿下の傍にいるのだから、探らせるなら言ってくれればいいのに……やっぱり私じゃ信用ならないってこと?」
 全く頼りにされていない事を知り、がっかりしてため息をつくメイサの前で、テオドラはなぜか突然噴火する。
「あなたねぇ! それわざとなの!?」
「な、なに? なにが?」
 メイサはその迫力にぎょっとする。
「あのとぼけた近従でさえ、分かったのよ? あなたの事を・・・・・・王太子が好きだって・・・・・・・・・!」
 メイサは目を見開いたまま頷いた。それはよく知っている。大事にされている事もよく分かっていた。だけど、それは彼らがいう意味とは全く違うのだ。
「そりゃあ、好き・・でいて下さるとは思うわよ。一応、家族だもの。それなりに大事なのは当たり前じゃない」
「……あぁ……」
 テオドラは頭を抱え込んだ。
「だからって、普通そこまでしないでしょう! もう、これだけあからさまなのになんで分からないのよ!」
 メイサはもうどうでもいい気分になっていた。これだけ思い込まれているのならば、利用しない手は無い。変に妃候補が攫われたりしなかった事は幸運だった。
 ここでメイサが消えようと、本当に困る人間は居ないのだから。ヨルゴスは悲しむだろうけれど、メイサより彼に相応しい女性などいくらでも見つかるだろうし、ルティについては新しく来た妃候補がきっと家族の死を慰めてくれるに決まっていた。
 見方を変えれば、これほどメイサが役に立った事は無いのではないだろうか。間違えのおかげで、国を脅かすようなことは起こらなかった。取引は失敗し、企みだけが明るみに出て、犯人はいずれ捕まる。被害はメイサ一人という最小限で抑えられる。となると、これ以上説得はせず、黙って頷いていた方が得策だった。
 メイサが口を噤んで微笑むと、テオドラは気味が悪そうに後ずさった。
「この女、馬鹿なの? どうしよう」
 テオドラは困ったように頭をかきむしる。豊かな茶色の髪が乱れるのを勿体なく思いつつメイサはそれを眺めた。
「王太子はどうしてこんな鈍い女とか、あの馬鹿な近従とかを傍に置きたがるのかしら……殿下が国の将来を憂いになられるのも分かるわ。ホント任せておけないもの」
 メイサはムッとする。自らが悪くいわれるのはしょうがないとして、ルティの悪口、それだけは聞き捨てならない。メイサの中では彼ほど王に相応しい男はいないのだから。
「それは、王太子殿下が一人でなんでもお出来になるからよ。まあ、有能な人を使いこなせるようになられれば、それに越した事は無いけれどね。これからはきっとそうなるわ」
 テオドラはメイサの静かな怒りを感じたのか、珍しそうに見つめて来る。
「それでヨルゴスと結婚するつもりなの、あなた。カルダーノの陣営を取り込めれば、確かに盤石ではあるものね」
 そう言われて、メイサは怯む。メイサがいなくなれば、確かに今まで彼女が積み上げて来たものは全て無に戻る。でも。
「…………私が結婚しなくても、きっとヨルゴス殿下は王太子殿下を助けてくださるわ。そういう方だもの。心の底から、国を思われてる立派な方よ。同じ志を持たれる王太子殿下にきっと手を貸してくださるはず」
 そう言いながら、北部の井戸整備を自分の手で成し遂げられないのは残念だとメイサは思った。せめて遺言くらいは残したいのに、こうして手が不自由な今、それさえ出来ないのが悔しい。メイサはテオドラに懇願する。
「あのね、お願いがあるの。伝言を頼みたいの!」
「伝言なんかしなくても、ここに来るってば。うちの殿下の書簡、そろそろ王太子の元に届くはずだから」
 テオドラは溜息と共にそう吐き出す。
 書簡という事は、メイサを捕らえた事を知らせたのだろうか。メイサは唇を噛む。メイサの中で死が急激に現実味を帯びた。楽に逝けそうな方法は何があるか、シトゥラで学んだ事を思い出すけれど、手を戒められている今、舌を噛む事くらいしかメイサには出来ないようだった。
「助けは来ないわ。だからお願い。聞いて、そして伝えて」
「…………はいはいはいはい、困った子。ちょっと黙っててもらおうかしら」
 やれやれとテオドラは腰に手を当てると、ポケットから布を取り出し、それをメイサの口元に当てる。口を塞がれるのを避けながら、メイサは一気に言った。
「北部の開発資金、手に入れられなくてごめんなさいって。でもヨルゴス殿下と協力すればきっとうまくいくからって」
「……婚約者に宛てて、ではないのね。こんな時なのに」
 くすりと笑われて、メイサはそういえばと考え直す。
「ヨルゴス殿下には、利用してしまって申し訳ありませんって」
「あなた、それを言っちゃうの? ……最低ね」
 テオドラは目を丸くする。
「こういう時は、嘘でも、愛の言葉を残しておけばいいのに」
 言われて、メイサは顔を赤くする。そうかもしれない。でも、ヨルゴスに向けての言葉は謝罪や感謝の言葉が似合う。無理に愛の言葉を考えようとすると、頭の中からヨルゴスの顔が消え、どうしてもルティが割り込んで来るのだ。
 まごついているうちに、テオドラの手がメイサの口を布で塞ぐ。容赦なく奥歯まで戒められ、言葉を取り上げられる。
「うぅ────!」
(あ、これじゃ舌を噛めないじゃない!)
 メイサは気が付いて焦る。テオドラは、メイサの心を読んだかのように、にやり、と笑って言った。
「大事な人質に死なれたら困るの」
 そのままテオドラはメイサを椅子に縛り付けて、一度部屋を離れた。

 燭台の光は縮み、風に吹かれて消えた。開け放たれた窓から月光が差し込む。見上げると細い下弦の月だった。耳には柔らかい水音が届き、大量の水の匂いもする。ここはやはりオアシスなのだろうか、そんな事をメイサは考えた。
『──愛してるわ』
 目を瞑り、言いそびれた伝言を、心の中で呟く。
 すると、瞼の裏に焼き付いた赤い髪の男が、メイサの方を振り向いて、叫び返したような気がした。

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2011.5.23