26.かけがえのないもの 03

 闇の中、メイサは縛り付けられた椅子の上で、ひとときの眠りに落ちていた。
 部屋には甘い香が漂っている。そのせいなのか、まどろみがなかなか振り切れない。夢とうつつの間を行き来しながら、メイサは目覚める為のきっかけ──夢の出口を探り続けた。
 そして、どこからだろうか、聞こえて来た微かな声にようやく目覚めの糸口を掴む。
『──周辺の警備は既に終わったということです』
 うっすらと目を開くと、急激に耳が冴えるのが分かった。
(この声……隣?)
 それとも上の部屋だろうか。耳のいいメイサにしか聞き取れないくらいの声。それから家具──おそらくは寝台の軋む音。
『通常の倍、用意したな? 一人で来いと伝えたが、あいつは一人でも油断ならない』
『はい。オアシスの周りに三十名、屋敷の周りに二十名。例の場所には精鋭を十名』
『よし、それでいい。無いとは思うが、女を切って私を討つ可能性も全ては捨てられないから。そうだ、あの娘はどうしている?』
『今は、眠っております。見張りを残してきました』
『ならば良いが。ああ、それから、もう一つ女といえば──あの、お前に絡んで来た胡散臭い女が居ただろう。あれはどうなった? これ以上うろちょろされるとさすがに目障りだ』
『殿下に授けていただいた策の通りに、例のジョイアの皇太子妃が、王宮に滞在したことがあると教えてやったら、簡単に引き下がりました。色々嗅ぎ回っていたようですが、箝口令が邪魔をして、情報が得られなかったようです』
『そうか。では、近々動きがあるかもしれないな。ジョイアとの関係は一時的に悪くなるかもしれないが、ラサラス王の力を削ぐには有効だ』
 微かな笑い声が響いた後、一度沈黙が落ちる。そして溜息。部屋の空気が変わるのが分かった。
『──殿下』
『なんだ』
 女の声が熱を帯び、それに伴うように、男の声も柔らかく変化した。
『本当は……あの女を、人質ではなく、妃にされるおつもりなのではないですか』
『私があの女を妃に? なぜそう思う』
 女が苦しげに呻く。
『あの女は、美しい、です』
『馬鹿な……妬いているのか?』
『殿下が王に成られるのならば、正妃が必要ですもの。でも…………私は、殿下の妃にはなれませんから』
『お前は側近では不服か。妃の地位が欲しいか』
『いえ……私はあなたの一番近くに居られれば……』
 突如高い悲鳴──いや、嬌声が響き、直後、それは何かに塞がれる。おそらくは唇で。
 結わえられたままで手が不自由なため、耳は塞げなかった。メイサはため息をついて、目に浮かぶ絵を頭から追い出そうと必死になる。この時ばかりは、普通でない耳を恨んでしまう。
(ああ、もう、なんて損な役回りなの……)
 報告を交えての情事というのは普段からそうなのだろうか。物音からは決して性急ではない、穏やかな熱を感じた。まるで、長年連れ添った夫婦のような、そんな印象さえ受ける。
 しかし微かに聞こえる嬌声を聞くと、どうしても昔のルティと女たちと重なってしまう。彼もこんな風にしていたのだろうかと、鬱屈しながら、先ほどの会話でそれらを頭から追い出そうとする。……だが、それも失敗に終わる。
(妃になれない、か)
 女はおそらくテオドラだろう。側近・・と言っていたが、なぜ妃になれないのだろうか。身分のせいなのか……どういう事情なのかは詳しくは分からない。けれど、その言葉に、昔の自分まで重ねてしまうのは止められなかった。ルティとの関係が禁忌だと知っていても、惹かれていた自分を。そして、それは禁忌でなかったけれど、結局彼とは結ばれる事は無い。切なくなりかけて、頭を振った。
(ああ。もっと別の事を考えないと。ええと……ルティの立場がどうとか言ってたような……?)
 どうも彼らは、メイサを餌にルティを呼び寄せるつもりらしいけれど、彼は来ないから、この際そちらはどうでもいい。
 しかし、気になることがあった。ジョイアの皇太子妃──つまりはスピカの事だ。彼女が王宮に居た事を告げたと言っていたけれど、それがどう関係するのだろう。それから、胡散臭い女というのは? 
 メイサは必死で考える。なぜか急に胸騒ぎがして仕方が無かった。
(……そういえば)
 メイサは、あえて胸の内に仕舞い込んでいた彼女らの事情を引き出した。
 スピカが王宮に連れて来られたのは、彼女をルティが妃にするつもりだったからだ。しかし、彼女がルティの妹と判明して、それは失敗に終わった。その後、ジョイアとの口裏合わせが行われて、表向き、スピカはラナの実家であるシトゥラ家に里帰りをしていたということになっていたはず。
 彼がルキアのお披露目で伯父・・として顔を見せたのには、とにかくルティとスピカの間にある疑いをすべて『家族』という理由で片付けてしまう為だった。
 ルキアの髪が赤い理由は伯父・・だから。そして、スピカが半年前、アウストラリスに滞在していたのは里帰り・・・だから。彼女がとしてアウストラリスのシトゥラ家を訪問しただけで、決してとして攫われたのではないと。
 しかし、アウストラリス王宮に彼女が居た──そこまでの情報が漏れると、どうしても里帰りでは説明がつかなくなってくる。なぜなら、スピカはあの時点で皇太子妃だったからだ。その地位にある人間の非公式な王都訪問にはどうしても疑いがつきまとい、ついにはせっかく用意した伯父・・という理由も覆されて、スピカの産んだ子供の父親も疑われる可能性がある。しかもまずい事に……彼らの間には、疑われるだけの関係・・がすでにあるのだから。
 皇子ルキアの父親がルティだと疑われれば──当然、あの皇子とスピカは破局。つまり、彼らの婚姻で結ばれた両国の関係は一気に悪化し、再び両国の間には、一人の皇子ルキアを巡る混沌が発生する。だからこそ、そんな疑いを招かないようにと、箝口令が敷かれているのに。
(それを漏らしたの!? なんてこと)
 思いも寄らぬ重大事に、メイサは目を剥いた。となると、その相手は限られる。メイサがまず思いつくのは、ジョイアから来た二人の妃候補だ。
(まずいわよ、それ、絶対)
 知った者の口を塞ぐ必要さえ感じる。
(この国の平和。皆の幸せ……今さら壊させはしないわ)
 メイサは、ぐっと生唾を飲み込むと、ぎゅうぎゅうに縛られた布の中でじわり、じわりと手首を動かし始めた。

 *

 その書簡がルティの元に届いたのは、ヘヴェリウスに馬で駆けている途中だった。
 丈の短い草が広がる草原の中、整備された道が南へと延びていた。さきほど、カルダーノとヘヴェリウスの境を越えたばかり。この辺りまで来ると、随分と地面に緑も増えて来る。所々見えるワジには水が残る場所もあった。南部はアウストラリスの中でも比較的水のある地帯で、国内で農業が行えるのはこの一帯だけだ。
 ルティとヨルゴスの馬の後ろには、各々用意した私兵が数十名連なっている。突然の招集にしては集まった方だろう。だが、それも全て無駄だったようだ。
 ルティは一人馬を下り、空をあおぐ。夜半を過ぎた南天では、夏の星が燦然と輝いている。ルティの求める星は、冬の星。未だ地平線に沈み、顔を見せる事は無い。
 足音が近づき、月明かりに照らされた一つの影がルティの隣に並ぶ。
「ルティリクス一人で来い、か」
 ヨルゴスは心底悔しそうな顔をしていた。自分では、助けられない。その事実が彼にこんな顔をさせている。
「そういうことか。兄上の欲しいもの……つまりは王位なのか」
「油断したな、互いに」
 ルティがヨルゴスの肩を叩くと、彼は頭を振って、その鋼の髪を揺すった。彼にはアルゴルと血の繋がりがある。だからこそ予想外の行動に少なからず衝撃を受けているのだろう。
「まさか継承権争いを無視するとは思わないだろう」
「卑怯だが、上手い手だ」
 この国の王位は、簒奪によって若返る。歴史はそう物語っているのに、正式な手順を踏んで安心していた自分たちは、アルゴルの目にはどれだけ甘く映っただろうか。
 そう思うと、愚かしさに笑えて来る。僅かな隙も見せてはいけない。それが王位を継ぐものの定めだというのに。
「どうする気だ」
 分かっているだろうに、ヨルゴスは敢えて聞いて来る。
「もちろん一人で行く」
 当然のようにそう言うと、ヨルゴスは呆れてため息をついた。
「君は王太子だぞ?」
「だからなんだ?」
 ルティはヨルゴスを見下ろす。彼は真っ直ぐにルティを見つめて来る。ルティの覚悟を問うかのように。
 だが、ルティの覚悟などとうに決まっている。アルゴルがメイサと引き換えに欲しがっているものを知ったときに、ルティはあっさりその地位を捨てる気になった。
「君が──王にならなくて誰がなるんだ。僕は、君ほど相応しい人間は居ないと思っていたから、だから、ああやってすぐに譲ったんだろう」
「ヨルゴス」
 ルティは、初めて誉められた気がして驚いた。だが、ヨルゴスはそう誉めながらも、あからさまに怒っていた。いつも穏やかな従兄の怒りが珍しく、ルティは軽く眉を上げる。
「あいつには代えられない。──代わるものなど、俺にとっては、どこにもない」
 何の気負いも無く、さらりと言葉が出た。
 突き詰めて考えると、ルティが王位を望んだのは、メイサの為なのだから。彼女を檻から出す力を手に入れたかった、それがすべての始まりだったのだから。
 ──メイサがいなくなった後、王に成っても、何の意味も無い。守る者を失って、力を持っても空しいだけだった。
 ルティの脳裏に、ラナを失って彷徨った父の姿が浮かんだ。
(俺は、父のようになる訳にはいかない。そうなるくらいならば、いっそ──)
「ルティリクス……君は」
 呆然と呟くヨルゴスに、ルティはここに辿り着くまでに考えていた事を伝える。
「俺に何かあれば、あいつを頼む」
「何か、だと?」
「当然、俺を生かしておくはずが無いだろう? 生かしてくれるのなら、すぐに何もかも取り返してやるつもりだが」
 軽口を叩きながら笑うと、ヨルゴスは怒りをルティに向けて吐き捨てた。
「死ぬ気なのか。馬鹿じゃないのか。──君の代わりこそ、この国のどこにも居ない」
「今ここに居るだろう。お前が王位を継げ。そして、あいつを──」
 ヨルゴスはルティの言葉を最後まで言わせない。
「らしくない。戻って来る気になれよ。代わりなんか──冗談じゃない。その勝負・・・・は戻ってからつけるんだ!」
「守る自信が無いのか?」
 鼻で笑ってやると、ヨルゴスはとうとう、ルティの胸元を掴み睨み上げた。
「そんな安っぽい挑発には乗らない。とにかく、君がそんな卑怯な手を使うのは許さない」
「卑怯?」
「死者が残した愛には決して敵わないからだ。そんな風にメイサを縛る気なら、それならいっそ僕が行く。今すぐ王太子の座を譲れ!」
 ヨルゴスは突然腰に佩いていた剣を抜き、ルティに突きつけた。剣先で脅されながら、逆を考える。ヨルゴスがメイサを守って死に、メイサは一生ヨルゴスを忘れない。考えただけで不愉快だった。
誰が譲るか・・・・・、勿体ない。すぐに空くから、それまで大人しく待っておけよ」
 ルティは気持ちよく笑った。
(あいつを守るのは、俺だ)
 満天の星空を見上げて、大きく息を吸う。夜に冷やされ、澄み切った空気が胸を洗っていく。ルティを縛り付けていた様々な枷が、吐く息と共に溶け出すような気がしていた。
 晴れ晴れとした気分でいると、やがてヨルゴスは「分かった」と、剣を下ろして肩も落とす。
「だが、もう一度言う。簡単に逝くつもりになるな。それだけは僕は絶対阻止するからな。君だけにいいところを持って行かれてたまるか」

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2011.5.27