26.かけがえのないもの 04

 ヘヴェリウスの外れにある小さなオアシスの畔。こんこんと湧きだす水が星明かりに照らされて、所々白く波打つ。その水は澄んで冷たく、深さは大人の男でも届かないほどあるそうだ。その大量の水に囲まれた小さな島の上に、古ぼけた小屋があった。
 美しい泉に惹かれた先祖がここに屋敷を構えたと言う。昔、ここはアルゴルの郷だったが、一度ワジで発生した洪水に屋敷が流されてから、離れた場所に屋敷を構えた。そして、ここは建て直すことができずに廃墟となっていた。
 オアシスの周りには背の低い樹木がまばらに生え、脇には水辺特有の先の尖った細い草が群生している。その中に建つ白い石で作られた二階建ての建物は、所々朽ちて、壁が落ちている。手を入れられる事無く放置されていただけあって、荒れ放題だった。
 別荘として住めればどれだけ快適だろうとは思うが、アルゴルの家はそれほどの財を持たなかった。もともとヘヴェリウスは南部の他都市に比べるとそれほど裕福ではない。水があるのは隣のカルダーノと同様なのに、どう違うかと言うと、ワジの水量が他所と比べ大きく変わるため、治水が追いついていないのだ。せっかく育てた作物は収穫前に局所的に発生する洪水によって流される事もあった。──他の地域と違って、鉱物も採掘されず農業で財を築くしか無いというのにだ。
 王に奏上しようとも、国の予算はいつもギリギリ。予算が余ればと後回しにされ続け、今に至る。貧困は新たなる貧困を産み、ヘヴェリウスはどんどん貧しくなっていた。アルゴルは、悪循環に陥っているように思えてならなかった。
 アウストラリス西部と北部は貧しい。王都から離れれば離れるほど貧しいのは、王の力が届かない為だろうか。
 彼は少し前まで、本気で諦めていた。どうせアステリオンが王位を継ぎ、貧富の格差は広がり続ける。快方に向かうことは無いと思っていたのだ。アウストラリスはこのまま腐敗し続けて、朽ちて果てる。そう思って、時を待とうと思っていた。
 だが、突然力をつけて戻って来た末の王子を見て、気持ちが少し揺らいだ。彼は同じ貧しい土地の出身でありながら、数少ない武器を手に戦い始めた。
 彼のやり方を見せつけられて、自分の可能性を決めていたのは自分だったのではないかと。手に入れられないと思い込んでいたのは自分なのではないかと、考えを変えさせられた。
 窓辺の桟を握ると、アルゴルはぼんやり明るくなりかけた東の地平線を睨みつける。先ほどまでは無かった影。岩のように見えるそれは、一塊の隊列に見えない事もない。
「──来たか」
 呟いた直後、扉が開き、一人の女が顔を見せた。襟の詰まった男物の服をどこか艶やかに着こなしている。長い茶色の髪は項ですっきりと纏められていた。
「殿下」
「ディーナ」
 彼女が口元に指を立てるのを見て、彼は呼び直す。
「〈テオドラ〉。──何があった?」
「ルティリクス王太子の隊が現れたようです」
「そうか」
「ヨルゴス王子もご一緒だと、報告がありました」
「──人質を捨てたと思うか?」
 問うと、彼女は首を振る。
「いえ……隊は離れた場所に待機しているだけですので、なんとも」
「隊列は動かないのか?」
「今のところ気配はありません」
「引き続き、見張らせろ。人質から目を離すな」
「はい」
 彼女は近従の顔で頷いた。寝台での顔が嘘のように。服を着るととたん有能な顔を取り戻す。不思議な生き物だと、彼はいつも思わずに居られない。

 彼と彼女は同じ年の同じ日に産まれた。産屋も同じ。驚くほどの偶然だが、母だけ・・は違う。父ザウラクがヘヴェリウスの母の元に滞在した時に、運悪く世話をした下女が産んだ娘、それが彼女だ。
 彼女は父に認められず、それを苦に思った下女は娘を残して世を去った。残された娘を哀れに思った母が家に引き取って、それから彼女は彼の姉であり妹であり、友でもあった。そして今は、彼のもっとも信頼出来る側近・・だ。
 もし彼女の母親に身分があれば、父も認めざるを得なかっただろう。そうして、今頃は諸外国へ姫として嫁がされていただろうと思う。それが幸運なのかどうかは彼には分からないが、彼女は、身分が無い事、そして彼の傍にいられる事を喜んでいた。そして、一生を自分の為に捧げると誓ってくれたのだ。
 彼女とは十年以上密やかな関係が続いている。こんな関係が間違っているのも分かっていたが、惹かれるのをどうしても止められなかった。そうして二人とも罪の重みに徐々に耐えきれなくなっていた時だった。既存の考え方に捕われないルティリクスを見て、彼らの事を罪と決めつけるものは一体なにかと考えた。そして気が付いたのだ。
(認めてもらえないのならば──力づくで認めさせればいい)
 ──そんな事を考えること自体、もう狂っているのかもしれないと自分でも思う。
 だが、彼が妃を娶る度に、必死で涙を押し殺す恋人が可愛くて、愛しくてたまらないのだ。
 彼女はあのメイサという娘に嫉妬していたが……たとえ妃に娶ろうとも、抱かないだろう。今までもそうだった。誰も信じてくれないが、彼に子がいないのはそういう訳だった。
 アルゴルは思い出して問う。念のため確認しておかなければならないとずっと思っていた。
「ああ、そういえば……──あの男も一緒か? ルティリクスの近従の」
「分かりませんが、きっと足手まといは置いて来られるでしょう」
「…………」
 鼻にもかけない様子にほっとしつつ、彼女を見張りに戻らせる。
「動きがあれば、報告しろ。ああ、ルティリクス一人で来たならば、手を出すな。丁重に迎えておけ」
「はい」
「それから、一応言っておく。お前が有能なのはよく知っているが……勝手に無茶をするな」
 しっかりと念を押しておく。そもそもルティリクス側の情報が欲しいと漏らしたのが間違いだったのだが、彼に勝手に彼女が近づいた時にはぞっとした。目当ては最初から馬鹿な近従だったと笑っていたし、体は使わなかったと言った。けれど、とぼけた近従はともかく、万が一ルティリクスに取り込まれたら致命的だった。あの男には、女を夢中にさせる何かがある。心配が全く無いと言ってしまうのは嘘だろう。
「ご心配には及びませんわ」
 彼女はにっこり笑って、退出する。
 しかし、彼が三つ呼吸するうちに、再び足音が聞こえて来た。そして扉が開き、待ち人の来訪が告げられる。
「王太子が一人で来られます。殿下、ご準備を」

 *

 大人の足で十歩ほどの長さの橋を渡り切ると、朽ちた石造りの門があった。脇で松明が赤々と燃え、辺りを照らしている。門の向こうにルティは鋼色の髪を見付ける。彼は白い朽ちかけた屋敷の前、十名の屈強の兵に囲まれ、据えられた木の椅子に腰掛けている。
「アルゴル。取引に来た。彼女を返せ」
 ルティが睨むと、屋敷の中から、茶髪の女──テオドラが一人の女を連れて歩いて来る。見たとたんに叫びだしたいような衝動が産まれるが、ルティは歯を食いしばって耐えた。
(メイサ)
 彼女は手首を後ろで縛られ、猿ぐつわを噛まされている。そして、赤い髪の間から覗く白い首に刃物が当てられているのが、遠目にも分かった。
 乱暴の形跡はない。そう言い聞かせて、ルティは自らを落ち着かせる。そして、出来るだけ穏やかな目でその女を見つめた。
 彼女は目を見開いている。澄んだ大きな茶色の瞳が、溢れそうなくらいに。
 その顔は、十くらいの時に蛙を土産に贈った、あの時の顔によく似ていた。全く喜んでいない。『有り得ない』とその顔が言っていた。
 幼い日々を懐かしく思いながら、ルティは言った。
「迎えに来た」
「────────!」
 口を塞がれている彼女は、唸り声を上げているらしい。当然聞き取れないけれど、どうも『馬鹿』と言われているような気がした。
(助けに来て叱られるのか。……あいつらしい)
 となると、これからルティがする事を彼女は決して許さないだろうと、簡単に予想出来た。それでも、止めるわけにはいかないのだけれど。
「まず、その剣を捨てろ」
 アルゴルが言い、ルティは即答した。
「彼女の解放が先だ」
 アルゴルはすぐにテオドラをちらりと見た。頷いた彼女の持つ刃が、薄くメイサの肌をなぞるのを見て、ルティは頭に血が上りかけるが、顔に出さずに腹に力を入れて堪える。彼女の安全が手に入るまで、武器を手放す事は出来なかった。
「彼女を解放しろ。安全を見届けるまでは、剣は捨てない。彼女にこれ以上傷を付ければ──お前たちを殺す」
 アルゴルはテオドラをもう一度見る。テオドラは、ルティを遠巻きにして、メイサを連れて橋の前まで移動した。目だけで合図をしているというのに、彼女はアルゴルの指示を的確に理解しているようだった。
 ルティは背後にテオドラとメイサ、目の前にアルゴルと、挟まれた形になる。そして周囲には兵で出来た垣。アルゴルの気配を気にしながらも、メイサを目で追うと、彼女は橋を渡っていた。
 橋を挟んだ対岸には、ヨルゴスたちが待機しているのが見える。アルゴルの兵がそれを威嚇するかのようにオアシスを囲んでいた。
 橋を渡り切ったところで、メイサとテオドラは立ち止まった。アルゴルを見ると、これ以上は譲らないという様子で、ルティを睨んだ。
 互いの兵の数は五分。ならば、ルティの首さえ手に入れば、わざわざ危険を冒してまで仕掛けはしないと思えた。メイサがいるのは、解放されてすぐに走れば、助かる距離。だが、ルティは躊躇う。この件に関しては絶対に妥協は許されない。取り返しがつかないからだ。
 ルティ、アルゴル、両者譲らず、場はしばしこう着状態に陥った。
 そんな中、ヨルゴスが単身で一歩足を進め、メイサの方に手を伸ばす。周囲の兵が剣を上げてヨルゴスを威嚇するが、アルゴルは「手を出すな」と兵を鎮めた。
 ヨルゴスがメイサの傍に辿り着いたのを見て、ルティは腰に佩いていた剣をアルゴルに向かって投げ、その場に座り込んだ。剣は硬い音を立てて地面に落ちる。すぐさま後ろに控えていた兵がそれを拾い上げて、アルゴルの元へ運んだ。
「ほう、珍しいな。ジョイアの剣か」
 アルゴルが鞘から剣を抜くと、刀身が松明に照らされて、アルゴルの髪と同じ色に輝いた。
 それには余計な装飾は一切無い。その分軽く、耐久性に富む。いつも佩いている飾りに近いものではなく、長年ジョイアで使っていた手に馴染んだ剣を持って来たのだ。
『うう────!』
 メイサが後ろで何か叫んでいるのが聞こえた。やはり聞き取れないけれど、馬鹿とでも言っているのだろう。視線を僅かに流すと、ヨルゴスが彼女の手首の縄を切っているところだった。縄が切れたとたん、彼女はこちらに戻ろうとする。ヨルゴスに後ろから拘束されると、今度は猿ぐつわを必死で外そうとした。
 ルティはそれを見つめながらも兵たちの様子を伺う。屈強ではあるけれども、その分鈍いと見た。持つ剣も重く大振りなものが多い。ルティは懐の小刀の位置を確認した。
(このままにはしておけない。王位は相応しい者へしか渡せない)
 アルゴルまでの距離は、十歩と言ったところか。さすがにルティの腕は知っているようで、油断はしていないようだ。
 どう動こうか。慎重に策を練っていると、突如響いた懐かしい声に邪魔された。
『馬鹿! なんで来るの、王太子のくせに何やってるのよ! 駒の使いどころを間違わないで!』
 ようやく口が開けるようになったのか、オアシスの対岸から怒鳴り声が届く。予想通りにものすごく怒っている。
(駒? お前を駒になど出来る訳が無いだろう)
 ルティは苦笑いしながら、ヨルゴスがメイサを安全な場所まで連れ去るのを見つめた。メイサはヨルゴスの腕の中で必死で暴れている。
『殿下、離して下さい! お願いです! こんな茶番、止めさせないと──』
『駄目だ。あいつの気持ちがわからないのか? 全部君を守る為にやってるっていうのに──』
『分かりません。──分からないわよ! 離して!!』
 メイサは、ヨルゴスの手に噛み付いて、彼の腕から逃れると、赤い髪を振り乱してこちらに向かって駆け出した。
 ルティは思わず立ち上がって叫ぶ。
「馬鹿か! 戻れ!」
「馬鹿はあなたよ!」
「取引がめちゃくちゃだ──頼むから、ヨルゴスのところへ戻れ! こっちに来ても役に立たないだろう!?」
「いいえ。役に立たないなんて言わせない。剣を振り回すだけが戦いではないもの! あなたに継承権は捨てさせない! ──王に成りなさい、ルティ!」
 メイサはそう叫ぶと、橋の手前で行く手を阻んだテオドラを避ける事無く、なぜか掴み掛かる。テオドラはこちらを振り向いてアルゴルに判断をあおぐが、メイサはそんなテオドラの手を掴んで、自分の方へと引きつけた。そうしてテオドラを羽交い締めにすると、メイサはそのまま橋の向こうに体を押し出そうとする。
「────ちょっと、何、何する気よ!?」
「あなたは、アルゴル殿下の恋人なのでしょう!? だから、一緒に来てもらうわ!」
 テオドラが重心を狂わされ、バランスを崩したかと思うと、メイサと二人、もつれあうようにしてオアシスの上に放り出された。
 刹那。メイサはなぜかルティを見て微笑んでいた。達成感、そんなものが現れているような、晴れ晴れとした笑顔だった。
「馬鹿、やめろ!」
 ルティは目を剥く。直後名を叫んだのは、後ろに居たアルゴルと同時だった。
「メイサ!!!!」
「ディーナ!!!!」
 直後、どぼんと水しぶきが上がり、二人は闇に染まった水の中に消える。
 蒼白になりながら、ルティは斬り掛かろうとする兵を避けて、自らもオアシスの中に飛び込む。
 水面を前にして衝撃に構える。ルティの大きな体に作られた、ひと際大きな水しぶきが上がる。
 飛び込んだ直後、体を打つ熱のような衝撃が別の痛みに変わる。全身を針で突くような冷たさに体が固まるのが分かった。
 ルティが焦るのは、この国の人間がほとんど泳げない事を知っていたからだ。ジョイアと違って水が無いので泳ぐ必要が無いためだ。当然と言えば当然だった。
 もちろんメイサも例外ではない。砂漠で育ち、その上、家から殆ど出なかった彼女は泳いだ事など一度も無い。おそらくこの場所で泳げるのは、長い間ジョイアに居たルティだけだ。──そして、まだ初春の今、水はかなり冷たい。泳げたとしても命を落としかねない。
(分かっていて──やったのか)
 人質がいなければ、ルティが戦えると知っての事だろうか。その策はどこまでもメイサらしい。ルティは必死で黒い水をかき分けながら、そう思った。

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2011.6.1