『メイサ!!!!』
確かにそう聞こえた。聞き間違いかと思ったけれど、確かにあれはルティの声。
(ああ……呼んでくれた)
死にそうに苦しいのに笑みがこぼれる。とたん、ごぼごぼと口から空気が抜けていく。
水の中は驚くほど静かだった。自分が沈んでいく音だけが聞こえて来る。最後に聞いた声がルティの声で良かった、メイサはそう思った。
見上げると、水面の向こうに白い月が見えた。
(ああ、綺麗)
水底に横たわりながら、メイサはひととき空を見た。
(テオドラ、ごめんなさいね)
彼女の姿はもう目に映らない。もしかしたら泳げたのかもしれない。それか、メイサの見ていないところで、助け出されたのかもしれない。だとしても、メイサが居なければ、ルティは十分戦えるはず。ヨルゴスも後ろに居たし、兵の数も多かった。
そう考えてほっとしたら、ごぼっと大きな泡が口から飛び出した。胸をぐっと何かに押し付けられたようになり、意識が遠のいて……メイサは目を閉じ、世界は暗転した。
* * *
『──イサ、メイサ!』
(ああ、ルティの声が聞こえる)
水の中で誰が叫べるというのだろうか。となると、ここは水の中ではなく──もう死んでしまったのだろうか。大好きな声が聞けるなんて、天国も悪くない。しかし──なぜか猛烈に苦しい。そして痛いほどに寒い。
(じゃあ、ここは、地獄?)
胸を焼く熱は尋常じゃない。だけど、何か懐かしい感触が唇にある気がした。吹き込まれる熱い息吹を感じる。目を開けたい。でも瞼が重くて開けられない。
右を見ると深い闇、左を見ると仄かな光。メイサの意識はその中間にあり、両方から引っぱられている気がした。光を見ると同時に苦しさが酷くなる。苦しい、死にたい。そう思って闇を見ると、柔らかなものがメイサを誘い、意識がまた深いところへ潜り込む。だけど、光の方から送り込まれる声や、唇の熱がメイサにそれを許さない。
ぐいぐいと胸部を圧迫されて、先ほど水の中で感じていた息苦しさとは別の苦しさでメイサはもがく。
『──メイサ! この馬鹿! 目を開けろ!』
再び、遠くで声が聞こえた。
そして熱湯のような熱い湯の固まりが喉を灼きながら口から飛び出し、仄かだった光が眩しいほどに大きくなった。メイサは堪らず目を開けた。
(あ──)
命がけで守りたいと願った男の顔が手を伸ばせば届くところにあった。濡れた真っ赤な髪から雫が頬を伝う。まるで涙のようだった。
「……メイサ……」
息が触れるほどの距離で彼が自分の名を囁き、メイサは、これはもう天国なのかもしれないと思った。──それにしてはものすごく寒くて、震えが止まらないけれど。
「ルティ……? なんで? 死んじゃったの? あなたも?」
「死なせないに決まってる。……馬鹿は黙ってろ。すぐ温めてやるから少し辛抱してくれ」
ルティはそう言うと、メイサから離れて立ち上がった。そして濡れて体に張り付いた上着を鬱陶しそうに脱ぎ捨てる。
メイサは『寒い』その言葉に占領されかけて働かない頭で考える。どうやらルティはメイサをオアシスからも救ってくれたらしい。
じゃあ、メイサがやった事は全て無駄になってしまったのか。急に不安が沸き上がり、同時に頭が冴えた。
メイサは横たわったまま首だけを動かして辺りを見回す。兵が浮き足立っている。その中心にはずぶ濡れの男女が横たわっていて、数人の兵が彼らの蘇生──口から息を吹き込み、腹部を圧迫している──を必死で行っている。
(ああ、テオドラ……、それからアルゴル殿下)
どうやら、全てが無駄にはならなかったらしい。アルゴルはメイサの睨んだ通りテオドラに夢中だった。兵たちはアルゴル達の救出に手間取り、ルティにはもう興味を失っている。命を取られようとしていたルティをひとまず救う事は出来たらしい。状況はまだ緊迫しているけれど、ルティの命があった事にひとまずほっとする。
しかし、ルティが立ち上がったのに気が付いた一人の兵が叫ぶ。
「よくも殿下を──!」
「痛み分けだろう? それに、勝手に飛び込んだのはアルゴル自身だ」
ルティの言葉は兵には殆ど届かない。兵は酷く興奮した様子で、叫んだ。
「その女をよこせ、殺してやる!」
先頭に居たのは特にアルゴルに忠実な僕なのかもしれない。彼はルティに斬り掛かる。同時に周囲に居た兵が一気に殺気立つ。
素早くルティを見ると、彼は丸腰。頭上で白刃が煌めき、メイサが悲鳴を上げると、ルティはどこからか取り出した小刀で、兵の剣を受けた。凄まじい金属音が耳を貫く。メイサはひととき寒さを忘れて、身を縮めてルティの背後に隠れる。
するとルティは、兵の足を長い足で払って、倒れた兵のみぞおちに肘をいれる。そして、あっという間に気を失う彼からその剣を奪った。次の瞬間、どよめきが上がり、火が着いたように次々に斬り掛かる兵を、大振りの剣で殴り倒す。
十数名居た兵が、一人、また一人と、うめき声と共に倒れていく。戦闘に慣れないメイサは声にならない悲鳴を上げる。とにかく恐ろしくて橋の方へと後ずさりしようとすると、橋を挟んだ対岸ではヨルゴスたちがオアシスの向こうに配置されていた兵たちと戦いを始めていた。
逃げ場を失って、メイサはせめてもとその場で小さく踞った。
ルティは、借り物の剣で兵の垣根を切り開き、とうとうぽつんと落ちていた剣を拾い上げた。先ほど捨てたルティの剣だ。鞘から抜かれたその細い刀身はオアシスの水に磨かれたかのように冴え渡る。彼がすっと刀を上段に構えたとたん、場がしんと静まり返る。空気が明らかに変わったのがメイサにもわかった。屈強の兵達が明らかに怯んでいる。
「今度は容赦なく斬る。ここで殺られるか? それとも後日の沙汰を待つか? ──今死にたいヤツは、かかって来い!!」
ルティはそう声を張り上げ、辺りを見回す。その茶の目に松明の炎が映り、メラメラと燃えているように見えた。
松明は赤い髪をさらに赤く照らし、裸の上半身に見事な陰影を付ける。
戦神、そんなものがいるとしたら、こんな姿をしているに違いない。メイサは沸き起こる畏怖に、寒さでは無いもので震えながらルティを見上げていた。そしてそれは、その場に居た他の人間も同様だったようだ。誰も一歩も動けずに居た。
やがて兵は戦意を失い、その場に崩れ落ちる。
「とにかく、俺を恨む前に、そいつらの水を吐かせろ。まだ息はある」
ルティがそう言い捨てて橋の方を振り返ると、対岸でも戦いの決着が付けられようとしていた。アルゴルの兵の崩れようは、まるで、ルティの放った覇気が対岸まで届いたかのようだった。
「メイサ」
ルティは酷く優しい声でメイサの名を呼び、メイサはどうして名を呼んでくれるのだろうと戸惑いながらも、彼の差し出した手を取る。だけど、震える足がもつれて、再び倒れ込む。
「あ、」
直後、ルティはメイサの腕を引っ張ったかと思うと、彼女の膝裏をさらって、腕の中に抱きかかえた。
「──な、何してるの」
「歩けないんだろう? 抱いていく」
甘い光をたたえた目がメイサを見下ろし、瞬く間に赤くなるのがわかる。一体、彼はどうしてしまったのだろうか。なんだかものすごく都合のいい夢を見ているような気分になってしまい、メイサはそんな自分を恥じた。労られているだけだと思う。……思うのに、なんだかその瞳の奥の熱が気になる。そして今、メイサは確実に抱きしめられているような──
(な、なんか……変)
最近、こんな目に遭ったような気がしないでもないけれど──その時は相手はヨルゴスだったが──、まさかという思いの方が大きくて、メイサは慌てて頭を振った。
「自分で歩けるわよ! 下ろして」
「嫌だ」
ルティはにやりと笑うと、メイサを抱きしめたまま前を向いて橋を渡り切る。そして対岸に立ち、彼らを待っていた人物をじっと見た。
「戻って来た。援護に感謝する。おかげでなんとか助かった」
「……ああ」
酷く傷ついた顔をしたヨルゴスがそこにはいた。彼はメイサを見る事無く、ルティをじっと見つめていた。
兵が走り寄って来たかと思うと、すぐにルティに毛布を差し出した。ルティは一旦メイサを地面に下ろして、毛布で慌ただしくメイサを包み込む。そして、自分も差し出された乾いた上着を羽織ると、未だ震えるメイサを見て、再び腕の中に囲った。
「も、も、う平気、よ」
そう強がる割に震えは全く止まらない。
「俺が寒い。抱かれとけ」
よく分からないが、先ほどの言葉通り温めてくれているらしい。メイサは素直に彼の腕に体を預けるが、どうも……落ち着かなくて顔だけが妙に赤らんで来るのが分かった。
ヨルゴスは二人がそんな風に一息ついたのを見て、口を開いた。
「君のお姫様は……見かけによらず、随分お転婆だな」
ルティは眉を上げ、メイサはなんの事か分からずに首を傾げた。
「知らなかったのか?」
「……僕にはその顔は見せてくれなかったからね」
そう言った後、ヨルゴスは手を持ち上げる。そこにはしっかりと歯形が付き、血がにじんでいた。メイサはようやく先ほど自分が彼にした事を思い出して、申し訳なさに俯いた。
勝手にさらわれた上に、助けに来てくれた彼に噛み付くなんて。どう考えても、傍付き女官はクビだろうし……それよりも、問題は、せっかくの縁談が破棄されるに違いないことだ。それどころか、首が飛ばない事を願った方がいいかもしれない。
「で、殿下、申、し訳、ありませ……」
震える声のせいでまともに謝れず、メイサは焦った。ヨルゴスはちらりとメイサを見たものの、小さくため息をつくだけで、許しの言葉はくれなかった。当然だった。
「とにかく、二人とも体を温めるのが先だ。ルティリクスは今運動したから、もう大丈夫そうだけどね」
彼はやはりメイサを見ずにそう言った。その顔は酷く冷たく、今までとは別人のようにも思えた。
「すぐにここから一番近い宿を用意させる。ちょっとかかるが、王都よりは近い。ついて来てくれ」
「頼む」
ルティが連れて来られた馬にメイサを乗せ、続けて自分も乗るのを見て、ヨルゴスがようやく声色を柔らかく変えて、心配そうに尋ねた。
「そういえばお前、寝てないんじゃないのか? 疲れてるだろう? 落とさないか?」
「落とさないし、──もう二度と誰にも預けない」
何か威嚇するような雰囲気を感じて、メイサが顔色をうかがうと、ルティは驚くほど自信のみなぎった表情をしていた。
「そうか」
ヨルゴスの溜息のような声を背に、ルティはメイサを抱く腕に力を入れると、馬の腹を蹴る。背中全体に彼の大きな胸と体熱を感じて、メイサは強烈な目眩を覚えた。