馬車に乗り馴れているメイサにとって、馬に乗るという行為は、思っていたより過酷だった。酔う暇も無く、あっという間に体が軋み、悲鳴を上げ始めた。カルダーノとの境が見えた頃には、メイサは疲れ果て、半ば意識を失うように目を閉じる。
そして少しだけとうとうととした直後、何か聞き慣れた声が割り込んだ。
『────様!』
(うるさい……、眠りたいの。邪魔しないで)
それは、どうもルイザの叫び声のように聞こえた。メイサを起こしに来たのだろうか。でも、一体いつの間に追いついたのだろうか? とにかく──頼むから寝かせて欲しい。こんなに心地よい眠りがやって来た事など、このところないのだから。本当に色々散々な日々だった。
『どうかお待ちください!! 今お邪魔したら殺されますよー! うおぁっ──ああぁ!』
『ちょっと、セバスティアン! 男なら振り切られないでよ! 頼りないったらありゃしないわ!』
『って言われても……ルイザさん、ほら見て下さいよ、この引っ掻き傷!』
『気安く名前を呼ばないで!』
『ルイザさんもさっき呼んだじゃないですかぁ!』
『嬉しそうにしないで! 鬱陶しい──あ、逃げた! お待ちくださいっ、シェリア様!』
(……シェリア? 確かルティのお妃候補の女の子……)
そう考えたとたん胸が痛くなって、メイサは目が覚めた。そして今を眠った直後だと思っていたが、随分時間が経っていた事に気が付いた。メイサはもう馬の上ではなく、宿に到着してベッドに寝かされている。自分がまた意識を失っていた事に気が付いて、今日は一体何回気を失えばいいんだろうと呆れる。……体力の無いメイサにとって、今日の事件はそれだけ消耗するものであったから、仕方が無いと言えば仕方が無いのだけれど。
しかし、休んだおかげか、さっきまで寒くて仕方が無かったはずなのに、今はそれほどでもない。心地よい暖かさを肌に感じていた。
部屋にはカーテンが引かれていて、隙間から細く赤い光が差し込んでいた。朝焼けか夕焼けか悩みつつ、のそのそと体を動かすと、何かが腕に当たった。
(ん?)
メイサは、後ろを振り向いて、目に映ったものをぼんやりと眺める。少し癖のある赤い髪。彫りの深い端正な顔。寝惚けた頭でまじまじと観察すると、寝る前までにはあった無精髭が無くなっている。つまりは見慣れた顔だった。
(……あぁ、割と似合ってたのに)
なんだか勿体なく思ったところで、彼がぱちりと目を開けて、しっかりと目が合った。メイサは状況を把握して思わず叫んだ。
「え、ええ────!?」
「……あぁ、起きたか? 調子はどうだ」
メイサの隣に当たり前のようにルティが居た。
彼はメイサを引き寄せると、彼女の額に自分の額をくっつける。
(う、あああ)
普段の彼からは有り得ない行動に、メイサはかちかちに固まった。
「ん……まだ、少し熱があるか」
彼がそう言いながら起き上がると、シーツが彼の肌の上を滑り落ちる。彼は見える範囲で裸だった。
ぎょっとして、シーツの中を覗き込む。すると、メイサも、また裸。下着さえつけていない。
「うそ!」
叫んで、シーツをかき寄せると、ルティを覆う布が全て消えそうになり、逆に焦って、慌ててシーツを元に戻した。
(ど、どういうこと、どういうことー!?)
この状況は、つまり──
「ま、まさか──やっちゃったの!?」
余裕もなくそう問うと、ルティはげんなりとした顔をした。
「お前な……俺を馬鹿にしてるのか。温めてやってたんだろ。大体、弱ってる女を抱くほど落ちぶれてないつもりだが」
「え、あ、そ、そうよね……っ」
つまりは看病の一環なのか。ほっとしたような残念なような。とにかく誤解したことを恥じつつ、あれ? とメイサは首を傾げた。今まで考えないようにと引き出しに仕舞い込んでいた事が、『弱ってる女を抱く』という言葉で急に飛び出して来たのだ。
そうだ。この状況はスピカが語った疑惑の夜──遭難して意識を失い、起きたらルティが傍にいたというものと全く同じだった。
(で、でもスピカのことは……抱いたって言ってたじゃない?)
確かに〈あの夜〉メイサは聞いたのだ。『もう一度抱きたかった』と彼が言っていた事を。だから、スピカの記憶の無いあの日、てっきりそういうことがあったのかと思っていたのに。メイサだって、ルティがそんな事をするとは思わなかったけれど、なにか事情があったとか……とにかくあの頃は、深くは考えたくなかったのだ。
(えっと、抱いてないってことは……じゃあなんであんなことを言ったわけ?)
メイサの混乱をさらに酷くするかのように、ルティはメイサにのしかかって至近距離で囁く。
「起きるのを待ってたんだ。──お前に話がある」
「あの、ええと、話をするにはまったく相応しくない姿勢だと思うんだけどっ──」
メイサは真っ赤になって訴えるけれど、彼は全くの無視。メイサの上から動こうとしなかった。
「俺は──」
メイサが彼の言葉を待って息を呑んだとき、ドカドカと凄まじい足音が階段を駆け上がって来た。
「王太子殿下──やっと追いつきましたわ!」
確認もせずに扉を開け放たれる。そして飛び込んで来た女は、ベッドの上で裸のまま話をしている二人を見て首を傾げた。
「ちょっと────!」
(さすがに声くらいかけてよ!)
メイサが小さな悲鳴を上げると、
「あら……ごめんなさい。間違えてしまったわ。お邪魔しました」
女は僅かに慌てて外へ出ていった。
しかし、『あれ……間違ってないみたい……でも雰囲気全然違ったような……』と呟く声と、躊躇うような沈黙が流れた後、今度は静かに扉を叩く音がした。
『あの、シェリアでございます。こちら王太子殿下のお部屋ですわよね? 殿下にお話がございます』
しばしルティとメイサ、二人は見つめあって沈黙した。
「ま……まずいんじゃない? さすがに。誤解されちゃったと思うの」
シェリア──それは妃候補の娘だ。とっさの事で誰だか判断がつかなかったけれど、思い出して一気に心配になる。
『殿下? 開けますが、よろしいでしょうか?』
再び声がかかる。
よろしいわけが無い。二人とも裸で、寝台の上に居るのを見られてしまったからには、もう言い訳することも難しいとは思う。けれど……この場面ですぐに話をしようという根性は並大抵ではないと思った。まあ、女遊びの一つくらい耐えられなければ、彼の妻は厳しいかもしれないと思いもしたけれど。
とりあえず、メイサは話が中断された事が惜しかった。なにか気になる事を思い出しかけていたから余計にだ。
メイサが戸惑いつつルティを見ると、彼はあからさまな怒りを顔に浮かべていた。
「いいわけ無いだろうが。何考えてるんだ、あの女。──おい、開けるなよ、後にしろ」
「嫌でございます」
ルティは、思い切り舌打ちしてしばし考える。そして、「面倒だが先に追い払った方がいいか」と呟いて、外へ向かって声をかける。
「──じゃあ、少し待て」
ルティは渋々のようにメイサの上から体を起こすと置いてあった服を着る。そしてメイサにもどこからか取り出した簡素な寝間着を渡すと、残念そうに「着ろ」と促した。メイサが服を着るのを見計らい、彼はやがて低い声で、外で待つシェリアを呼んだ。
「……入れ」
凄まじく不機嫌な声に促されて、シェリアがもう一度扉を開ける。
彼女はルティを軽く見たあと、寝台の上のメイサを鋭く睨みつける。怒りの矛先はまずメイサに向けられた。
「なんであなたがここにいるの。あなたヨルゴス殿下の婚約者なのでしょう? 二股? なんてだらしないの」
「──話とは?」
ルティは縮み上がるメイサを背に庇い、罵倒を軽く無視して、話を進めようとする。こちらに非があるというのに随分大きな態度。心底鬱陶しそうな声に、メイサはハラハラした。
「お話というのは、ジョイアの皇太子妃スピカ様の子供の事でございます」
シェリアはかしこまって言う。そのあまりの切り替えの早さにメイサは目を見張る。
「また、それか」
ルティはうんざりとした顔をする。メイサはシェリアの持ち出した話の意図に気が付いて、目を見開き、顔を強ばらせた。──ということは、テオドラの取引の相手は、彼女だ。
「殿下の妹君で、ジョイアの皇太子妃スピカ様は、王都に滞在されたことがあるとか」
それを聞いて、さすがにルティは眉を跳ね上げた。
「どこでそんな
「それは言えませんが、然るべき時にはきっと証言を頂けると思いますわよ? ……一国の皇太子妃がどういった理由で滞在されたのでしょうか? 納得出来る理由をお教え願えますでしょうか?」
「…………」
ルティは何か考え込み、メイサははらはらと息を詰めてシェリアを見つめた。
「私、以前から思っていたのですけれど、スピカ様のお子──ルキア様は、シリウス殿下よりも、王太子殿下に似ていらっしゃいますよね?」
シェリアはそこでメイサを見ながら鼻で笑う。ルティは不機嫌そうに赤い髪をかき上げる。
「何が言いたい? 前にも言ったと思うが、俺は回りくどいのは嫌いだ」
シェリアはにっこり笑った後、はっきりと核心を切り出した。
「ルキア様は、王太子殿下のお子では無いでしょうかと言いたいのですわ」
メイサは卒倒しそうになりながら、生唾を飲み込んだ。