「──馬鹿か」
しかしルティは心底馬鹿らしいという表情で吐き捨てた。シェリアは僅かに怯み、部屋に妙な沈黙が落ちる。メイサは沈黙に耐えられず、恐る恐る切り出した。
「あの、ルティ……どうするの、この方、ジョイアに帰すとまずいと思うの。だって、スピカと皇子様が困るでしょう?」
「──何が困るんだ?」
ルティはシェリアの追求には全く動揺を見せなかったくせに、メイサの言葉に何を言われているか分からないという表情になる。
「お前まで何を言っているんだ。お前はあの会合の場に居た。だから、事情は全部知ってるはずだろう?」
「知ってるわよ。だから……」
メイサが言いよどむと、ルティは苛立った声を出す。
「はっきり言え」
と言われても、シェリアの目の前ではっきりとは言えないと思った。
仕方なくメイサは、ルティの耳に口を寄せるとひそひそと囁いた。
「あなたの子供の可能性がある限りは、いつか追求を受けると思うの。だから、この方をアウストラリスから出すわけにいかないでしょう? それなら、いっそ王妃に迎えたほうがいいんじゃないかしら? ジョイアに帰さない理由にもなるし、なにより、王妃になれば、
つまりは、シェリアと結婚しろということ。自分の気持ちを再認識した後にそう勧めるのは辛かった。しかし、それが国の為だし、ルティの為だ。
ルティはメイサの提案に目を剥いた。
「馬鹿か。誰がこんな女……俺はお前を妃にするつもりでいるのに」
「………………は?」
突然の事に、メイサは固まった。聞き違えだと最初にそう思った。
しかしシェリアも「何ですって?」と憤慨している。そして、ルティはシェリアを全く無視してメイサを見つめている。彼の目にはメイサしか映らず、耳にもメイサの声しか聞こえない。そんな風にも思えて、メイサは聞き間違えではないのかもしれないと微かに疑った。聞き間違えじゃないのなら──じゃあ何だろう? メイサを妃にして何か彼に利得があるというのだろうか?
「で、でも? え? 私? 何言ってるの? 私を妃にしても何の得もな──」
「得ってなんだ。お前はなんでそう損得でものを考える? クレイルの事といい……そうだ、自分の結婚の事だって」
ルティは腹を立てすぎたのか、そこでぐっと言葉に詰まる。訳が分からず、メイサは首を振った。
「でも、あなた、いつも私の事役立たずって言うじゃない。だから少しでも役に立てるようにって、結婚の事だって、その方があなたの役に立つと思ったから」
「なんで役に立ってもらう必要があるんだ」
彼の言いたい事が分からない事が多いが、今日は特に分からないとメイサは思った。
「……でも、あなたにとって女は駒なのでしょう?」
もしかしてメイサもとうとう駒になれるのだろうか。しかし、そこで妃というのは解せない。
首を傾げるメイサにルティは突然怒鳴った。
「お前が駒になれるか! 大体、なんだ、さっきの
「でも! そう知る前は違ったじゃない。第一あなた、あの夜、もう一度抱きたかったって言ったじゃない!」
反射的に反論して、メイサはそれは内緒のはずなのだと思い出し、あっと口を押さえた。
しかし、ルティはなぜか既にあの夜が現実だと知ってしまっていたようだった。一気に目をつり上げてメイサを咎める。
「『あの夜』? そうだ。お前なんであれを隠した!?」
「え、だって、妹に振られて泥酔して立ち直れそうにないから、代わりに慰めてあげたとか……余所で言われたら絶対怒るくせに! だから黙っててあげたのに何よ!」
頭ごなしに怒られると反発したくなるのは昔からの癖かもしれない。メイサは、むきになってそう暴露したあと、シェリアが目を丸くしてこちらを見ているのを知るけれど、もう収拾がつきそうにない。
「かわりに、なぐさめた?」
見上げると、ルティは愕然とした表情をしていた。
「……じゃあ、あれは嘘なのか? 俺に愛してるって言ったのは。同情して言ったのか」
そう言ったルティはひどく苦しそうな顔をして、メイサを見つめていた。
(どうしてあなたがそんな顔をするの。悲しいのは私の方なのに)
そう思ったら、胸が痛くてたまらなくなった。
「嘘でも同情でもないわよ、でも……しょうがないじゃない。いくら私が愛してても、あなたはスピカを愛してる。ずっと忘れないんだもの! あんな風に一晩だけあの子の代わりをしてあげたけど、抱かれてみて分かったんだもの。あれ以上は無理だって」
未練がましいと思いながら、メイサは胸の内をぶちまけた。
「何を言ってる!」
ルティは信じられないといった様子で叫んだ。
「代わりだと? ──お前がスピカの代わりだと?」
「そうよ」
「俺が、手に入らない妹の代わりに、お前を抱いたと? お前は、俺がそんなヤツだと思ってたのか?」
「そう、よ」
ルティは傷ついたような顔をして黙り込む。その顔が、彼が十四のときにメイサが「嘘つき」と言った時の顔と重なる。あのときみたいに、彼は言い訳も謝罪もしなかった。
だけど、メイサはその顔を見て思い出す。
(……ルティは、言い訳する代わりに、私を体を張って守り続けたじゃない。ごめんというひと言を言う代わりに、償い続けたじゃない──)
そうだ。メイサは知っていたはずだ。彼がそういう男だと。言葉ではなく行動でしか誠意を示せない、そういう不器用な男だと。
きっと今回も同じ。言わないだけなのだ。それは、言わずにも分かって欲しいと思っているのか。……いや、きっと、言っても理解されないと思い込んでいるから。
メイサが堪えきずに、ぽろぽろと涙をこぼすと、彼は彼女をかき抱いて口づけた。頑に閉ざしていたメイサの心の鍵をこじ開けるような、熱いキスだった。
送り込まれるその熱で、死にかけていた想いが蘇り、どくんどくん、と胸が波打った。それと同時に、メイサの中で彼の行動とその意味がどんどんと繋がって行く。
(まさか……まさか、ルティは、本気で私の事……?)
メイサがそう思い始めた頃、
「……やっぱりお前は、馬鹿だ。だけど──もっと馬鹿なのは俺だ」
ルティは顔を引きはがすようにして、口づけを止めると、苦しげにそう囁いた。
「俺は────くそっ、どう言えばいい。何を言っても言い訳がましい」
これが、あのルティなのだろうか。彼の耳がその髪の色と同じくらいに赤い。それは屈辱なのか、それとも……照れなのか、メイサには分からない。だけど、彼が真剣なのだけは、メイサにはよく伝わった。
「聞かせて、お願い」
どんな言葉でもいい、彼の口から、彼の真実を聞かせて欲しかった。
「俺は……お前が俺を一生許さないと思ってた。あんな風に傷つけたんだから当然だと思ってた。だけど……忘れられなかった。どんなに誤摩化しても駄目だった。俺は。メイサ、ずっと
彼はやがてあの夜と同じような事を囁いた。違うのは、そこにメイサの名がある事だった。
「愛してるんだ、俺は。メイサ、お前を」
(ああ)
愛の言葉と共に、あの夜がメイサの頭に蘇る。
彼の腕の中に居た女は、スピカではなく──まぎれも無く自分だったのだ。ようやくその事を理解した。
メイサはルティの瞳の中に、微笑んでいる自分を見つける。それは失っていた自信を取り戻した、美しい笑みだった。つられるようにルティも微笑み、どちらからともなく再び唇を寄せようとした時、
「──冗談じゃないわ!! これは一体何の茶番なのよ!?」
逆上したような声と、場を壊す音が聞こえてそちらを見ると、シェリアが自らの存在を主張するかのごとく、扉を思い切り叩いているところだった。彼女は怒り狂った顔でこちらを睨んでいる。
(あ……これは、スピカと皇子のこと言えないわね……)
すっかり二人の世界に入り込んでいた事に気が付いてメイサは赤くなるが、ルティを促しても彼はメイサを放さなかった。それを見て、シェリアは地団駄を踏んで悔しがる。
その向こう、開け放たれたままの扉の向こうでルイザとセバスティアン、それからヨルゴスが各々違った表情で部屋の中の二人を見つめているのを見つける。
ルイザとセバスティアンは神妙な顔をしているくせに、何か、笑いを必死で堪えているようにも見えたけれど、ヨルゴスだけは……笑顔なのに、それは泣き顔にも思えた。
メイサと目が合うと、ヨルゴスは妙に疲れた顔をした。そして、「なるほどね……やっぱり最初から負け戦だったかなぁ」と小さく呟いた。
「殿下──」
メイサは何と言っていいか分からず口を閉じ、ひととき、ヨルゴスと見つめあった。
その間も抱きしめる腕は緩まない。もう迷う事は何もない。ルティがそう言っているように思えた。彼女の幸せは彼の腕の中にだけあり、彼の幸せもそこにある、そう素直に信じることができた。
先に視線をそらしたのはヨルゴスだった。彼は「救いは、答えを聞く前だったことかもね」、そう言って大きく息を吐く。そして、もう一度メイサと、それからルティを見て、柔らかく笑った。
彼は、部屋を出るついでのように「おいで。今はどう考えても邪魔者だよ」とシェリアに声をかける。しかし、彼女は置物のように動かずに、ただルティを睨みつけている。
ヨルゴスは困ったなあと言いながら、突如シェリアを肩に担ぎ上げる。
「ちょっと、何すんのよ!」
「君は振られたの。ほら、引き際は潔く行こうよ、お互いにさ」
「うるさい! 振られたのはあんただけよっ──放しなさいよ! 負け犬と一緒にしないで! このままにしておくものですかっ!」
「ジョイアの女の子は皆そんな風に元気がいいのかなあ? ……それにしても軽いなあ。細いのはいいけど、もっと食べないと色気が育たないよー。ほらメイサに聞くといいよ、何食べたらあんな風になるのか」
「う、う、うるさい!」
ヨルゴスは普段通りくすくす笑いながら、ぎゃんぎゃんと吠えるシェリアを軽々と運んで行く。
「どうやらまた借りが出来たな」
ヨルゴスの後ろ姿を見ながら、ルティがぼそっと呟く。メイサもヨルゴスがメイサ達の為にシェリアを引き取ってくれた事が痛いほど分かって、彼の優しさに涙が出そうになった。
部屋はいつしか夕闇に染まっていた。どうやら、先ほどまで部屋を照らしていた赤い光はどうやら夕焼けの赤だったようだ。
足音が遠ざかり、部屋に静寂が訪れても、ルティはしばらく食い入るようにメイサを見つめるだけだった。彼の熱を帯びた瞳は、必死で彼女に問いかけている。既に同じ気持ちでいたメイサが、頷く代わりに目を閉じると、恐る恐るのように唇が触れた。最初はそっと。すぐに離れたそれをメイサが寂しく思った次の瞬間、彼女の唇は再び、先ほどとは全く別の熱に覆われた。唇を押し開かれると同時に、押し入られ、蹂躙される。性急な仕草には、余裕が全くなかった。
寝台に押し付けられ、さらに口づけは深まる。息が苦しくなるくらいに続く長いキスの間に、メイサの服は全て床に落ちていた。肌寒さは感じない。彼の素肌に包まれたメイサの体は、その滾るような熱を移されていた。
胸を優しく包まれたかと思うと、先端を指先で撫でられる。彼の硬い手はメイサの体の奥にある熱を呼び起こすように、そっと穏やかな愛撫を繰り返す。だけど、キスだけは引き続き嵐のように激しい。熱に支配されたメイサの体が反ると、露になった首筋に噛み付くようなキスが落ちた。確実にメイサの肌に痕を残す、あの夜と同じキスだった。
「メイサ」
名を呼ばれて、震えるほどに実感する。彼の腕の中にいるのは自分だと。今度こそ、自分なのだと。
「泣くな。泣かれると、抱けない」
メイサの目尻に溜まった涙を唇で掬うと、彼は困りきった顔で、懇願した。
「だって、止まらないんだもの」
「メイサ」
「呼ばないで。呼ばれたら、私、だめみたい」
ルティは赤い髪をかきあげて戸惑った表情を浮かべる。
「名を呼ばれるのは……嫌なのか?」
「違うわ、馬鹿ね。私、ずっとそんな風に呼ばれたかったの」
「お前の言う事は矛盾してる。……俺にどうして欲しいんだ」
メイサは少し考えてから、自分の望みを口にした。
「──名前を呼んで。私が泣くのは我慢して」
ルティは一瞬黙り込むと、途方に暮れた顔をする。
「お前、ここまできて、それは俺に対する嫌がらせのつもりか?」
「だって、どうしようもないんだもの。あなたが女の涙に弱いのは知ってるけれど……少しくらい我慢しなさい。私、ずっと、──ずっと待ってたんだから」
「俺は女の涙に弱いんじゃない。お前の涙に弱いんだ」
ルティは参ったというようにメイサの上で頭を抱えてしまった。もちろんキスも愛撫もぴたりと中断。焦れたメイサは、ふとある事に気が付いた。
メイサの涙に弱い、それは、つまり儀式の時のことで彼は未だに心に傷を抱えていると言う事なのかもしれない。
「もしかして……泣いてたら出来ない?」
メイサが問うと、ルティはムッとした表情で「お前、俺という男を馬鹿にしてるのか」と言う。
「だって、ええと、そういうことでしょ?」
「そんな訳無い。お前……分かっててわざと言ってるだろう」
「え? なにが?」
「……なにって、決まってる。俺がどれだけお前を欲しがってるか」
一瞬怯んだルティは、僅かに気まずそうにそう言った。
「ああ」
メイサはさすがに意味を察して顔を赤らめ、ルティはぷいと顔をそらして小さくこぼした。
「出来ないわけじゃない。ただ……泣かれると、拒絶されてるように感じるから」
そう言う横顔は妙に幼く、ふて腐れてるようにも見える。
(でも、やっぱり泣かない約束は出来ないんだもの……)
メイサはどうするべきか対策を考え、ふとひらめいた。泣き顔が苦手ならば、見なければいいのだと。
「──あ、そうだ。じゃあ、顔を見なければいいのよ。そしたら私が泣いてても気にならないでしょう」
我ながら良い考えだと顔を輝かせ、メイサは燭台の火を消そうと起き上がる。しかし、
「お前には、どう言えば俺の気持ちが伝わるのか……まったく分からない」
筋張った長い指が、燭台に手を伸ばすメイサの指に絡められ、頭の横に押し付けられる。再び唇を塞がれて、目を閉じる。
それだけで、彼の想いが伝わる。メイサは心なんか読めないけれど、今、彼の心を知ることができるような気がした。
いくらキスをしても足りない気がして、息をするのも忘れてメイサは彼の唇を求めた。
そして、唇が離れたとき、目の前には、甘く輝く茶の瞳があった。
「メイサ」
低く深い声で名を呼ばれ、やっぱり反射的に涙ぐむ彼女に彼は優しく囁いた。
「お前の名を呼んで、顔を見ながらじゃないと、意味が無い。もう誤解はまっぴらだ。だから──泣いてもいいから、笑えよ」
ルティは、まるで手本を見せるように笑う。メイサが求め続けた、少年の日のあの笑顔で。
「あ……笑えって言ったばっかりなのに──」
勘弁してくれ、そうぼやくルティにキスを返すと、メイサは彼の希望に応えようと必死で笑顔を浮かべた。
その夜、メイサは彼が名を呼ぶたびに涙を流し、彼女の涙が乾く事はとうとう無かった。